39 井戸の底より
「黄泉醜女……」
そう呟きながら凪は、無意識のうちにポケットへ手を伸ばしていた。
スマートフォンを取り出し、画面を点け――そしてすぐに眉をひそめる。
そこには、圏外を示す表示が当然のように鎮座していた。
「そうだよ、ここ……昭和じゃん!」
この時代に携帯電話のインフラなど整っているはずもない。
インターネットも、アプリのサービスも存在しない。
わかってはいたが、現実を突きつけられるとやはり気落ちしてしまう。
「……それは、何だ?」
善三が、興味深そうに身を乗り出す。
凪はため息とともに、画面をくるりと彼の方へ向けた。
「これは『スマホ』っていって、無線……通信? だったり、調べものだったり――いろいろできる機械なんだ」
「ほう……電話、か」
「えっ、電話、あんの……!?」
「あるぞ。このあたりじゃ役場に一台きりだがな」
「そうなんだ! でも……これはこの時代じゃ、ほぼ使い物にならなくて――」
「なんだ、役に立たんのか」
善三の率直な一言に、凪はわずかに言葉を詰まらせた。
「う……まあ、今は、ほぼ置物なんだけど……」
一瞬だけ視線を泳がせてから、凪は小さく息を吸い込む。
「でもさ、こういうことだったら――」
カシャリ、と軽い音。
画面には、気の抜けた顔で目を半開きにした善三の姿が映っていた。
「おおおおおっっ!! 魂を吸い取ったのか!!!!」
「いや……この時代でも、写真は普通にありますよね」
悟が冷静に突っ込むと、善三は気まずそうに視線を逸らす。
「……どうにも、あれは苦手でな」
悟は小さく笑い、凪に視線を移した。
「でも凪。未来の技術は、できるだけ封印しとけ。面倒の種になりかねない」
「あ、うん。ごめん」
凪は素直に頷き、スマートフォンをポケットにしまい込んだ。
場の緊張がほどよく緩んだところで、話題は自然と本題に戻る。
「――で、あれがまた出てくる可能性なんだけど……あると思う?」
凪が両手を膝の上で組み直した。
「黄泉醜女、か」
善三が顎に手を当て、考え込むように目を細める。
「あれだって、何もないところから突然湧いてきたわけじゃないだろ」
悟が静かに口を挟む。
「井戸から噴き出した霧が形を成したものだ。原因ははっきりしてる」
「じゃあ、蓋はちゃんと閉まってるし……もう大丈夫だよね?」
未久が縁側の方へちらりと視線をやり、不安を押し殺すように言った。
「だといいんだけど……」
凪の声は低く、確信よりも願いに近かった。
竹林を渡る風が、ひときわ強く窓を鳴らす。
その音が、胸の奥のざわめきを増幅させていった。
そして、そのざわめきに応えるかのように――
数分後、凪たちのもとに届いた言葉は短く、そして心に重くのしかかるものだった。
“しかしあれは人間には倒せぬはず
どう切り抜けたのだ
既に神格が目覚めかけているのか“
凪は、あの時の感触を思い出して小さく身震いした。
実際に対峙したからこそわかる。確かにあれは、人が抗える存在ではない。
倒したのが未久であることを告げると、清吉はひどく驚いた様子だった。
“まさかただの子供が
信じられない
倒したのは凪ではないのか“
「ただの、じゃないよな」
凪は微笑みながら、未久の頭をくしゃっと撫でた。
未久は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を綻ばせる。
「へへー。みっこのカラテ、すごい?」
「すげぇよ。すげぇどころじゃねぇよ」
未久は照れくさそうに視線を逸らしながらも、誇らしげに拳を握りしめた。
その小さな手に宿った力を、凪はもう疑ってはいない。
もし未久がいなかったら、あの力がなかったら……と考えるとぞっとする。
「なあ、凪」
思い立ったように悟が口を開いた。
「ちょっと清吉さんに聞いてもらいたいことがあるんだけど……」
「なに?」
「いや……“イザナギの力”では飛べないとしても――向こうにだって鏡はあるだろ?」
「!!」
確かにその通りだ。
凪はすぐにメッセージを送った。しかし――
“俺は本来の清吉、いやイザナギから生じた
いわば分体だ
土地に縛られ、時代に縛られ、動くことはできない
「結局、こっちから行くしかないのか……」
“鏡の件、こちらでも手は尽くす
急げ
黄泉は既に動き始めている”
「あいつを地下に閉じ込めて、それで終わりじゃない」
凪は拳を強く握る。
「……やらなきゃ。絶対に三人で帰るんだ」
必ず道はある。
そう信じて、凪が決意を新たにした、その瞬間――
ピロン♪
ポロン♪
にゃ~ん♪
三人のスマートフォンが、同時に音を立てた。
「……え?」
恐る恐る画面を覗いた凪は、息を呑んだ。
圏外のはずの画面に、ありえない表示が浮かんでいる。
新着通知
〈 さな 〉 さみしいよ
「電源っ!! 落とせ! 今すぐっ!!」
凪が叫び、それぞれが慌てて電源を切る。
画面が消えたことを確認しても、動悸はしばらく収まらなかった。
今この瞬間も、イザナミは機を窺っている。
井戸の底で、静かに力を溜めながら。
重圧が、凪の胸を締めつける。
――黄泉は、もうすぐそこまで来ていた。




