38 鏡越しの声
「あ!」
突然、凪が声をあげた。
客間の静けさを一変させるその声に、皆の視線が集中する。
「これ……」
凪は自分のリュックを引き寄せると、その中から一枚の鏡を取り出した。
「それは……!!」
善三が身を乗り出す。
震える手でそれを受け取り、まじまじと見つめると――その表情はすぐに落ち着きを取り戻した。
「違う、か……これは、御神体の鏡ではないな」
ぽつりと零した声に、凪は申し訳なさそうに目を伏せた。
「うん……多分ずっと昔から井戸の中にあったやつ。
なんとかこれ一枚だけ持って来れたんだけど、もう一枚は……」
その先を言う必要はなかった。
悟も未久も、そして善三も――それに続く言葉を理解している。
イザナミとともに封じられた、もう一枚の鏡。
二枚の鏡が揃わなければ、時間を越えることはできない。
それきり、客間は沈黙に包まれる。
誰も言葉を発さず、ただ鏡だけが卓の上で静かに光を返していた。
静寂の中、家の柱がぱきり、と乾いた音を立てる。
やがて――悟がゆっくりと鏡へ手を伸ばした。
「……これ、俺たちが使ってた方なんだよな」
「そう、だと思う」
凪が頷くと、悟は鏡の奥を覗き込むように目を細めた。
「だったらさ……これでメッセージ、送れるんじゃないか?」
凪と未久が同時に顔を上げた。
過去へとつながる鏡。
確かに、メッセージだけなら飛ばせるかもしれない。
それができれば、その『過去』に待つのは――清吉だ。
「――やってみよう!」
凪は紙と鉛筆を借り、短い言葉を丁寧に書き記した。
“清吉さん、見えてますか
凪です
鏡で飛んで、今は昭和十二年にいます
イザナミも追って来たけど、井戸に閉じ込めました”
鏡に紙を映すと、思った通り反応してくれた。
善三が興味深そうに覗き込む。
「水害を知らせた文章も……こうやって送ったのか」
「うん。ここに映せば、過去の鏡にも同じ文字が出るはずなんだ」
そう言って、凪は返事を待つ。
その時間は息が詰まりそうだった。
やがて鏡を光にかざすと、清吉の達筆な文字が浮かび上がった。
“よくやった
あとはもう一度、
その時代の鏡を使ってこちらへ飛べ“
胸に安堵の気持ちが広がる。
自分たちはまだ、孤立していない――その事実が、凪の心を強く支えた。
しかしすぐに、現実はその安堵に影を落とす。
一枚しかない鏡。
凪たちの前には、どうしようもない問題が立ちはだかっている。
“でも、鏡は一枚しかありません
もう片方はイザナミと一緒に井戸の中です “
重苦しい沈黙。
それに対する返事は短く、重かった。
“イザナミは
いずれ出てくる
急げ 道を探せ”
「探せ、って言われても……」
凪が頭をかきむしる。
「どこかにもうワンセット、あったりしないかな」
「いや、聞いたことは……ないな」
悟の疑問に善三が答えた。
長く神社を管理していた善三ですら、“二枚目”の存在を知らなかったぐらいだ。その可能性は限りなく低いだろう。
「凪ちゃん、もうすぐ誕生日でしょ?
神様になったら、鏡がなくても飛べたりしない?」
未久の言葉に、凪は小さく首を振る。
「それができるなら、清吉さんの方からこっちに来てくれてるよ。
あの人……“イザナギ”なんだから」
「でもイザナミは、鏡を使わないでもこっちに来たじゃん!」
「確かにイザナミは時代を飛び越えてきたけど――あいつはもう黄泉津大神の力を取り込んで、イザナギでも敵わないほどの力を持ってるらしいから――」
未久はため息をつくと、不安そうに呟いた。
「そんな強いの……? あの黒いやつも、また出てくるのかな」
先ほど遭遇した異形――あれは本当にイザナミの分身だったのだろうか。
凪は清吉に、見たままを伝えた。
”イザナミは閉じ込めたはずなのに
黒い女の形をしたものに襲われました
霧が形になったようなやつでした”
すぐに応答が返る。
“それはおそらく黄泉醜女だ
イザナミが使役する黄泉の眷属で、
かつてイザナギを追い詰めた軍勢の一部だ“
「よみ……しゅう……?」
未久が眉を寄せる。
「『よもつしこめ』。日本神話で、黄泉の追っ手として出てくる化物だ。
黄泉から逃げる者を、決して逃がさない存在だよ」
「なるほど――そんなところまで伝承の通りか」
悟の言葉に、善三が低く唸る。
凪は鏡を見つめ直した。
そこに映っていたのは、焦りと恐れ、そして――
それでも前に進もうとする、自分自身の顔だった。




