37 竹林の家にて
最初に動いたのは、善三だった。
その顔色は青白く、呼吸も浅い。
それでも彼は地面に片手をつき、ふらつきながら上体を起こす。
長く“影”にまとわりつかれていた負荷が、どれほどのものだったかは想像に難くなかった。
善三はよろめく脚で凪たちの方へ一歩だけ踏み込み、掠れた声を絞り出した。
「お前たち……無事か……!」
「そっちこそ……!!」
凪は反射的に駆け寄り、その肩を支えた。
悟もすぐに反対側に回り、腕に手を添える。
触れた体からかすかに伝わる熱と、小さく震える指先が、彼の消耗を物語っていた。
「大丈夫ですか」
悟の問いに、善三は荒い息をひとつ吐き、それから驚くほど落ち着いた声で返答した。
「――心配無用だ」
その声音に、無理をしてでも凪たちを不安にさせまいという意地がにじむ。
善三は周囲をぐるりと見回し、最後に鋭い視線を井戸へと向けた。
井戸は重い蓋でしっかりと閉じられている。それを確認すると、善三は低く呟いた。
「とにかく――ここを離れるぞ。うちに来い」
迷う理由はなかった。凪たちはその言葉に素直に頷く。
三人は善三の後について山道を下った。
細い道は起伏も激しく、足を取られないよう慎重に進む。
善三は何度も振り返り、足場の悪い場所では手振りで注意を促した。
時折吹き抜ける風が、異界の気配を少しずつ遠ざけていくように感じられた。
やがて――凪たちは昭和十二年の八尋家へ到着した。
千守神社の裏手に寄り添うように、ぽつりと建つ家。
古い木戸をくぐると見慣れた家屋が凪たちを出迎え、何とも言えない感情が込み上げる。
畳の匂い、障子の白、土間を渡る風――
時代こそ違うが、まぎれもなく凪たちのよく知る八尋家だ。
善三は三人を客間へ通すと、慣れた手つきで薬箱を開いた。
手際よく三人の傷を手当てすると、続けて湯を沸かし、茶を淹れる。
漂う湯気と立ち上るほのかな香りが、胸の奥に張りついた恐怖をゆっくりと溶かしていった。
「何から話したらいいか、わからないんだけど……」
湯呑みを両手で包み込みながら、凪は視線を落とした。
伝えたいことは山ほどあるのに、その整理がつかない。
悟と未久に目を向けると、二人は静かに頷きを返す。
その仕草に背中を押され、凪はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
未来から来た、自分たちのこと。
自分たちを狙う、イザナミの存在。
菊枝の行方。
そして、ここに至るまでの出来事のすべて――
善三は途中、何度も眉を寄せ、時に息を呑み……それでも最後まで話を遮らなかった。
全てを語り終えて、静けさが満ちた客間で――
善三は長く息を吐き、ゆっくりと口を開く。
「……信じ難い話だが、お前たちが嘘を言ってるようには見えん」
その声には、恐れと覚悟が入り混じっていた。
目の前にいるのは、自分の血を引く未来の孫――しかも、その命を“神”が狙っている。
それは常識では到底受け入れられる話ではないはずだ。
しかし――それでも彼は、凪たちを拒まなかった。
「この客間は好きに使え。……ここで道を探すといい」
ぶっきらぼうだが、どこか温かみのあるひと言。
それはまるで灯火のように凪の心を照らした。
ここは自分たちの知らない時代で、帰れる保証もない。
それでも——この家には、自分たちを受け入れてくれる人がいる。
たったひとつの安心できる場所があるだけで、こんなにも心は軽くなるのか。
張り詰めていた糸が、すうっとほどけていく。
外では竹林がさわさわと風に揺れる。
その音はまるで、この家が凪たちを包み込み、守っているかのようだった。




