36 闇を打つ拳
「……凪!」
悟と未久が凪を取り囲む。
「大丈夫か!? 落ちた時、すごい音してたぞ」
「みっこ、もうちょっとで飛び込むところだったんだから……!」
凪は井戸の蓋に両手をついたまま、震える声で告げた。
「……イザナミだ。追ってきた」
その言葉に、二人の表情が凍りつく。
凪は顔を上げ、かすれた声で続けた。
「でも、大丈夫……閉じ込めた。あいつはこの石室から出ることは――」
言いかけて、背筋にぞわりと悪寒が走った。
井戸の中から漏れ出した黒い霧――ほとんど散ったように見えていたそれが、善三の背後でじわじわと集まり始めている。
「なんだ……あれ……」
霧は不気味に渦を巻きながらその濃さを増し、やがておぼろげながら“形”を持ちはじめた。
歪んだ肩。細い腕。顔も体も、真っ黒な闇。
その異形はひとつ、またひとつと増え、参道を不吉な気配で満たしていく。
「嘘だろ……閉じ込めたんじゃ――」
「違う……イザナミじゃ、ない」
凪が悟の言葉を遮った。
同じ闇の匂いがするが――“あいつ”じゃない。
凪は直感でそう悟った。
「じゃあ、なんなんだ」
「わからない。分身、みたいな……」
その言葉が終わるより早く、善三が凪たちを押しのけて一歩前へ踏み出した。
「――下がってろ!」
三人を守るように立ち塞がり、善三が影の群れと睨み合う。
張りつめた空気が漂い、静寂が場を包んだ。
次の瞬間、善三が地を蹴った。
打ち出した拳に、影のひとつが人形のように吹き飛ぶ。
さらに二撃、三撃。凪たちが呆然と見守る中、善三は影の半数ほどを瞬く間に叩き伏せた。
しかし――
「凪ちゃん、あれっ!!」
未久が指差した先で、倒れた影がずるりと起き上がる。
その輪郭は波打ち、うごめく黒い瘴気が空気を歪める。
影たちはそのまま、再び善三へと群がった。
「くうっ……!」
善三は間合いを測りつつ、力の限り拳を振るう。
しかし倒しても、倒しても――影はまた立ち上がり、まとわりついてくる。
次々と絡みつく闇に身体を押さえつけられ、善三の姿は次第に黒い塊に埋もれていった。
「やばい! 行くぞ、悟!」
「ああ!」
二人は迷わず駆け出し、影の群れへと突っ込んだ。
影は非力で、攻撃らしい攻撃もしてこない。
だが――触れた途端、骨の芯まで凍るような冷気が全身を襲い、意識を削られるような感覚が駆け抜けた。
「こ……のっ!」
殴っても蹴っても手応えはなく、凪たちの体力だけが徐々に奪われていく。
「これじゃ……きりが、ない……」
凪の腕に、力が入らなくなっていく。
影が肌にまとわりつくたび、心臓の鼓動が弱っていくようだった。
――あ、これ……だめかもしれない……
視界が暗くなりかけた、その時。
「やめろおおおおおおおお!!!!!」
参道に悲鳴のような叫びが響き、小さな影が闇の渦へ向けて走り出した。
「ばっ……みっこ、戻れ!!!!」
凪の叫びも間に合わず、未久は影の群れへ一直線に飛び込んだ。
恐怖よりも強い、誰かを守りたいという決意。
未久は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、拳を振り上げる。
「みんなを、離せええええええええ!!!!」
小さな拳が、闇へと打ち込まれたその瞬間――
ぱん、と光が弾けた。
未久の拳が白く輝き、軌跡が一本の光となって影を貫く。
その拳が触れた途端、破裂音とともに闇が霧散した。
「なっ……!?」
光が次々と影を打ち抜き、跡形もなく消し去っていく。
そして最後のひとつが弾けると、あたりに静けさが戻った。
「……全部、消えた……のか?」
悟が呟くのと同時に、未久がふらりと膝を折った。
「みっこ!」
「――未久!!」
凪たちが駆け寄る。
未久は顔を上げて二人の姿を確かめると、肩で大きく息をしながら、にっと笑った。
「大丈夫っ……! みっこ、カラテ習ってるから……!」
「いやどう見ても武道の域じゃないからそれ!!」
その一言で、張りつめていた緊張がふっと解ける。
善三もその場にへたり込んだまま、安堵の息を吐いた。
危機的状況で未久が見せた、不思議な力。
彼女の掌には、光を帯びた拳の余韻がまだわずかに残っていた。




