34 境界を照らす光
「走れッ!!」
凪が叫ぶのと同時に、紗名の身体がべしゃりと崩れ落ちた。
夢の中で何度も見た、あの大きくて黒い影――形を持たない歪な塊が、地を這いながら迫ってくる。
「なに!? あれなにっ!?」
「おぉぉ……み゛ッこォォォォ…………!!」
「――紗名ちゃんっ!?」
「みっこ走れ!! あれは紗名じゃないっ!」
三人は反射的に踵を返し、斜面に沿う細い山道を全力で駆け出した。
足元で砂利が弾け、背後からはぬめるような音が迫る。
湧き上がる風が木々がざわめかせ、世界そのものが揺らぐようだった。
「神社に戻れ!! 井戸の中だ!」
凪は二人に声をかけた。
まだ影との距離は十分にある。
このまま全速力で走れば間に合うはずだ。
しかし――
凪の頭の中にはどうしようもない不安と焦燥が渦巻いていた。
――『あれ』が来る……!
猿合の小屋で味わった、あの抗いようのない力。
一瞬で肉体を断ち切り、精神すらも削り取る絶対的な死の力。
それを使われたら――今度こそ終わりだ。
凪は奥歯をぎりり、と噛みしめた。
隣を走る未久の頭部が、花びらのように爆ぜる。
続いて、四肢を失った悟の胴体が地面を転がる。
まるで未来予知のように脳裏に浮んだ光景に、凪は激しく頭を振った。
しかし――来ない。
訪れるはずの“死”が、訪れない。
思わず振り返った凪の視界に、草木をなぎ倒しながらこちらへ一直線に向かってくるイザナミの姿が映る。
しかし――目に見えるそれ以外に、凪の感覚は別なものを捉えていた。
イザナミの影から伸びる無数の“見えない腕”のようなもの。
それを何か別の“透明な手”が掴み、捻じ伏せ、押さえつけていた。
これが何なのかはわからないが、“あの力”が抑えられていることは確かなようだ。
こちらを守る正体不明の力。それが、命をつなぎとめた。
「もう少し……もう少しだ……!」
凪は再び前を向き、神社を目指して全力で走った。
鳥居をくぐると三人は一目散に地下室へと飛び込んだ。
石の蓋を閉め、階段を降りて井戸の底で身を寄せ合う。
息が荒い。心臓が破裂しそうだ。
外からは、石を引っ掻くような音が聞こえてくる。
「みんな、大丈夫か? ケガとか、ないか?」
「なん……なんだよ、あれ……!」
悟の声が上ずっている。
未久が泣きながら凪の腕にすがる。
あれを初めて目の当たりにしたのだ。無理もないことだろう。
「ここならたぶん安全だ。この石、特別な石みたいで――
ここにいればあいつは、入ってこれない」
話しながら凪はスマートフォンのライトをつけ、あたりを照らした。
天井の空気穴や石蓋の隙間――どこからでもあれが入ってきそうな気がした。
頼りない明かりでチェックを進める凪を見て、悟がリュックからハンドライトを取り出した。
強い光が石室を照らし、その明るさでようやく呼吸が落ち着く。
「――とりあえず、入ってくる気配はないか」
石の床に座り、凪は改めてこれまでの経緯を二人に説明した。
イザナミという存在。
菊枝の手記。
そして、時間を越えるための儀式のこと。
話している間も外では何かが這いずり回る音が続き、未久は何度も肩を震わせた。
「……もう、外には出られないな」
「あれ、紗名ちゃんなんだよね!?」
「……いや、あれが『イザナミ』って神だ」
「紗名ちゃんはどこにいるの!?」
「よくはわからないけど……人格を乗っ取られているだけで、紗名自身も、まだ中にいると思う」
それきり三人は黙り込んだ。
凪が唇を噛み締めて地面を睨む。
「ごめん。みんなを巻き込んだ……」
重苦しい沈黙が流れる。
イザナミから逃れることはできたものの、ここから外に出ることはできない。
時代を超えて逃げることもできない。
袋の鼠。
凪の心にそんな言葉が浮かんだ、その時――
「光、ならさ……これ、使えないかな」
悟がぽつりと呟き、手元のライトを見つめた。
「いや、さすがにそんなんじゃ――」
言いかけた凪の視界で、ふと光が跳ねた。
悟が向けたライトの明かりが、鏡に反射して石壁を照らす。
“ 八月二十七日の朝、天原村で水害が起こります
安全な場所に避難して下さい ”
「……えっ!?」
凪は息を呑んだ。
それは、かつて村の水害を知らせるために自分が書いたメッセージだった。
「太陽じゃなくても、よかったのか……!?」
「みたいだな。菊枝だって、この場所から飛んだんだろ?
――この真っ暗な中で“太陽光の反射”なんて使えるわけがないから、変だと思ったんだ」
言われてみれば、確かにその通りだ。
「この衝立……前はこんな位置じゃなかったよな。
おそらくこれを使って光を調節して、反射させてたんじゃないかな」
石室の中央に広げられた衝立、燭台の上に燃え残った蝋燭、そして鏡の置いてあった場所。
その位置関係はまさに悟の仮説を証明するかのようだった。
「やって……みるか」
凪は鏡を持ち、石壁の前に立った。
向かい合わせになるように鏡を配置し、ハンドライトの光を『未来鏡』へと向ける。
鏡の間に光が差し込み、反射を繰り返しながら膨張していく。
増幅した光は明るさを増し、耳鳴りのような音が空間を満たした。
「あとは、これを……」
鏡をわずかに傾けて壁に向けると――光の筋が一点に収束し、石壁が白く脈打った。
「これが……入口……?」
瞬きを忘れるほどの、神々しい輝き。
光の中に“過去”があると、直感的に分かった。
凪は振り返り、二人の手を取った。
「行こう。――過去へ」
未久が涙を拭い、悟が強く頷く。
三人は光の中へと足を踏み出した。
境界を越えた瞬間――世界は、眩い閃光に呑み込まれた。




