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31 未来への選択

 夏の終わりを告げる風が、頬をなでる。


 九月一日、金曜日の朝。

 空はどこまでも高く、澄み渡る青に満ちていた。


 凪《なぎ》はいつもの通学路を、ペダルを漕いで学校へと向かっていた。

 その表情には、これまでのような迷いはない。


 やらなければならないことは二つ。


 曳石《ひきいし》神社の鏡を、イザナミに気づかれる前に手に入れること。

 そして、自分が持つもう一枚の鏡も失わないこと。


 この二つの条件を満たす方法を、今日中に見つけなければ。

 胸の奥で、焦りがじりじりと焼けつくように広がる。


 授業中も、頭の中は鏡とイザナミのことでいっぱいだった。

 考えれば考えるほど思考は霧に包まれ、時計の針だけが無情に進んでいく。


 午後に入り、最後の休み時間。

 教室の扉が開き、担任の声が響いた。


「紗名《さな》、ご自宅から電話だそうだ」


「……はい」


 紗名《さな》が静かに立ち上がり、教室を出ていく。

 それを目で追う凪《なぎ》に、隣の席から悟《さとる》が声をかけた。


「なあ、ちょっと話せるか」


 促されるままに教室を出る。

 昇降口の前で、悟《さとる》は立ち止まった。


「何なんだよ。こんなところまで来て」


 問いかける凪《なぎ》に、悟《さとる》が真剣な表情を向ける。


「凪《なぎ》。これから言うこと、俺の勘違いだったら謝る。……紗名《さな》のことなんだけど」


 凪《なぎ》の心臓が跳ねた。


「なんかここ数日……おかしくないか、紗名《さな》」


「……おかしいって、どういう意味だよ」


「うまく言えないんだけどさ、今までの紗名《さな》じゃないというか……何かが違う。

 表情も、話し方も……別人みたいで。

 お前の方で、何か気付いたことないかなと思って」


 額に冷や汗がにじむ。

 紗名の“変化”に、悟《さとる》はもう気づき始めている。


「お前が紗名《さな》に接する態度が変わったのも、ちょっと気になって」


 喉が渇き、言葉が張り付く。

 答え方を間違えれば、すべてが崩れる。

 凪《なぎ》は息を整え、慎重に口を開いた。


「子供の頃と……同じじゃないってことだろ。俺たち、中学生なんだし」


「……?」


「心も体も、少しずつ変わってく。紗名《さな》だって同じだよ。

 曳石《ひきいし》神社行ったときだって、あんなに怖がってただろ。

 そんなの今までの紗名《さな》だったら考えられない。

 そういうのも含めて……変わっていくのは自然なことなんじゃないか?」


 悟《さとる》は一瞬、驚いたように目を見開き、それから穏やかに笑った。


「……お前の口からそんな言葉が出るなんてな」


 少し黙り込んでから、悟《さとる》は小さく息をついた。


「そっか……そうだよな。俺が考えすぎてたかも。悪い、忘れてくれ」


 その言葉を最後に会話は途切れ、二人はどちらからともなく教室へと戻る。

 チャイムが鳴り、授業が始まっても――凪《なぎ》の鼓動は収まらなかった。



 放課後。

 下校時刻を過ぎ、駐輪場へと向かう凪《なぎ》の心は不安で満ちていた。


 今日一日、何も思いつかなかった。

 明日、本当にうまくいくだろうか。


 焦りと緊張が押し寄せ、自転車の鍵を外す手が震える。


「凪《なぎ》」


 振り向くと、紗名《さな》が立っていた。


 悟《さとる》との会話が脳裏をよぎり、凪《なぎ》の体がわずかに強張る。

 だが、紗名《さな》の口から出たのは意外な言葉だった。


「曳石《ひきいし》神社の件、日曜日にしよう」


「えっ……?」


「親戚の葬儀が入っちゃってさ。家族で出かけなきゃいけなくなったの」


 そう言って彼女はため息をつき、不機嫌そうに唇を噛んだ。


「まったく……あの叔父さん、いっつもこの時期に死ぬんだよね。

 今回はバタバタしてたから、先に殺しておくの忘れちゃった」


 冗談に聞こえないその口ぶりに、凪《なぎ》はごくりと喉を鳴らした。

 おそらく――さっきの電話はそれを知らせるものだったのだろう。


「……帰ってくるのは、いつなんだ」


 口をついて出た言葉に、凪《なぎ》は後悔した。

 “気にしている” と思われてはまずい。

 今の凪《なぎ》が紗名《さな》の帰りを気にする理由など何ひとつないのだ。


「え? 明日、夜になると思うけど……もしかして、心配してくれてるの?」


「いや、別にそういうわけじゃ……」


「ふうん」


 短く笑って、紗名《さな》は視線をそらした。

 うまく勘違いしてくれたのだろう。

 深く追及されなかったことに、心の中でほっと胸を撫で下ろす。



 ――日曜、か


 たった一日だが、猶予ができた。


 明日、紗名《さな》が不在のうちに神社に行き、『未来鏡』を回収する。

 そして、紗名《さな》が戻る前に――


「じゃ、日曜日に。……あ、それとね、悟《さとる》くんのことだけど」


 紗名《さな》の声色が、ふいに変わった。


「――気づいてないと思った?」


 空気が凍る。

 その瞳には、底の見えない闇が宿っていた。


「戻ったら――やっぱりあの二人には死んでもらおうと思ってる。

 あと少しで終わりなのに、こうしていちいち邪魔されるんじゃやってらんないもの」


 その声は甘く、そして刃のように冷たかった。

 悟《さとる》と未久《みく》の顔が、脳裏に浮かぶ。

 このままでは、二人が――。


「わかってるとは思うけど……凪《なぎ》、おとなしく待っててよね」


 凪《なぎ》は拳を強く握りしめた。


 自分だけが過去に飛んでも、彼らは救われない。

 たとえ清吉《せいきち》と合流してイザナミを封じることができても――その時点でループは止まり、失われた命は二度と戻らない。


 ならば――。


 紗名《さな》がいない明日。

 悟《さとる》と未久《みく》にすべてを話し、三人で過去へ飛ぶ。

 イザナミを封じ、未来を変えるために。


 迷いは、もうない。

 凪《なぎ》の瞳には、確かな決意の色が滲んでいた。



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