30 希望の光
「……凪、凪……」
遠くで、自分を呼ぶ声がする。
それはどこか懐かしく、胸を締めつけるような響きだった。
いつもの悪夢のあと。
黒い影に飲み込まれ、目の前が真っ暗になって――
次に目を開けたとき、凪は冷たい石の床に立っていた。
「ここ……は?」
見覚えがある。
曳石神社の地下室――以前、鏡を見つけたあの場所だ。
蝋燭の炎が静かに揺れる。
その明かりに照らされて、一人の男の姿が見えた。
「誰……ですか」
「連絡が遅れてすまない。そちらの状況はすべて把握している」
穏やかだが、どこか張りつめた声。
男は静かに名を告げた。
「清吉――と言えばわかるか。江戸の世で、イザナギの依代となった者だ」
その名前に、心臓が跳ねた。
菊枝の手記に記されていた人物。
目の前の人物が、その“清吉”だというのか。
「あの、俺――」
言いかけたその時、視界の隅で小さな影が動いた。
積まれた箱の影から顔を覗かせた少女。
その顔を見て、凪の胸に確信めいた思いが込み上げた。
「菊枝、か……?」
「凪さん……! 本当に、凪さんなんですね」
声が重なり、二人の距離が一気に縮まる。
涙が頬を伝い、視界が滲んだ。
「よかった……無事で、本当によかった……!」
「ごめんなさい、凪さん。私、ずっと……!」
手を取って喜び合う二人。
その熱が落ち着くのを待って、清吉が口を開いた。
「――イザナミが危害を加える可能性があったのでここへ呼び寄せた。
再び鏡を手にしながらお前に連絡をしなかったのは……許してやってくれ。
状況が切迫していた。俺の指示だ」
イザナミ――その名が告げられた瞬間、胸がざわついた。
「知っているとは思うが、奴の本当の狙いは凪、お前だ。
今までの夢は俺が見せていた。そうすることで、お前に警告を与えていたんだ」
清吉は、静かに凪の方へ歩み寄る。
蝋燭の光が彼の影を長く伸ばした。
「いろいろ伝えたいことはあったんだが……すまなかった。
夢を通してならイザナミに感知されることはない。
今こそ――全てを話そう」
そう言って、清吉は語り始めた。
黄泉比良坂の一件の後も、イザナミは執拗にイザナギを追い続けた。
やがて江戸時代においてイザナギの魂を宿す清吉を見つけると、彼女は清吉に近付いて同じ時代を繰り返し始めた。
「だが、幾度も繰り返すうちに俺は気づいたのだ。最愛の女性の裏側に潜む、あれの存在に――」
清吉はイザナギ覚醒までの時間を稼ぎ、ついに封印を成し遂げる。
その封印の地こそが、この石室だった。
「この部屋は、『千引の岩』から切り出した石で作られている。
黄泉比良坂でイザナミを退けた、あの岩だ。
その力によって、長い年月イザナミをここに封じておくことができた」
だが――ある時イザナミは暴走にも似た力を解き放ち、地下室を飛び出した。
その衝撃は、時の流れさえも歪めたという。
「平成の世に入り――イザナミは再び現れた。
“平坂紗名”という名の器を得て、な」
凪の背筋に、冷たい戦慄が走る。
「イザナミはお前の時代でまた同じことを繰り返している。
俺は、この歪んだ輪廻を終わらせたい。世界を、あるべき姿に戻したいのだ」
清吉の声には、積年の苦悩が滲んでいた。
「凪――菊理媛という名を知っているか」
「聞いたことが、あるような……」
「黄泉比良坂でイザナギとイザナミの仲を取り持った神だ。
言葉を司り、縁を結ぶ“結びの神”。
その神格は現在――この城山菊枝の中にある」
「え、わた……し?」
「そうだ。お前がいたから、こうして凪と話ができている。
菊理媛の力――それは時代を超えて言葉を結ぶための、最後の希望だったのだ」
菊枝の指先が震える。
「八尋 凪。お前の中にはイザナギの神格が眠っている。
そして――」
清吉は一息置き、静かに続けた。
「俺の中にも、まだイザナギは存在している」
「え……?」
思考が止まる。
“イザナギが複数存在する”――そんなことが、あり得るのか。
「イザナミの暴走の際、俺の存在は二つに裂かれた。
“イザナギが覚醒した俺”と、“覚醒する前の俺”――
その片方が別の時代へと渡り、お前の中に宿った」
炎がわずかに揺れ、清吉の横顔を照らす。
「イザナミは――このことに気づいていない」
「なら――!」
「いや……黄泉津大神の力を持つイザナミには、俺ひとりでは太刀打ちできない。この石室への封印も、不十分だった」
清吉は視線を床に落とす。
「だからこそ俺は今まで機を窺っていた。
お前の中のイザナギと、俺に残ったイザナギ。
この“二つの力”が合わされば――道が開ける」
清吉は顔を上げ、凪の目をまっすぐに見据えた。
「そのためには凪、お前が十五歳を迎えるまで、逃げ切る必要がある」
清吉がゆっくりと手を差し伸べる。
「凪、こちらへ来い。
二人のイザナギの力で、イザナミを再び黄泉へ――」
「でもそっちに行くったって、もう一枚の鏡は……」
「もう一枚……菊枝が使っていた『未来鏡』は、この曳石神社の地下にある。
昭和の時代で菊枝が“飛んだ”その場所――お前の時代でも、そのままそこに残っているはずだ」
蝋燭の炎が激しく揺れ、清吉の姿が淡くかすみ始める。
「凪……急げ。曳石神社へ――」
「――――!!」
見慣れた自室。鳴り響く目覚まし。
アラームを止めると凪は体を起こし、カーテンを開けた。
朝の光が部屋を満たす。
その眩しさを、こんなにも美しいと思ったのは――いつ以来だろう。
――逃げ切れ。十五歳になるまで。
清吉の言葉が、胸の奥で反響していた。
絶望の底で見失っていた心に、ひとすじの光が差し込む。
だが――そこにはひとつ、問題があった。
凪は明日、紗名と曳石神社へ行くことになっている。
行けば “二枚の鏡”の存在をイザナミに悟られてしまうことになるが――行かなければ鏡は手に入らない。
堂々巡りのジレンマ。額に汗がにじむ。
――希望の光は、同時に危険な香りも孕んでいた。




