29 迫りくる終焉
八月三十一日、木曜日。
猿合での“あの”出来事から、三日。
夏の名残を映した空を、白い雲がゆっくりと渡っていく。
蝉の声は遠ざかり、吹き抜ける風にもわずかに秋の気配が混じりはじめていた。
凪の誕生日である九月七日までは、あと一週間。
その日が近づくたび、心にじわじわと不安が広がっていく。
あれ以来、凪はイザナミの望む『八尋 凪』を演じてきた。
笑い、食べ、眠り、学校へ通う。
何事もないふりをして、穏やかな日常を繰り返す。
しかし、“その日”は刻々と迫ってくる。
イザナミは『ぎりぎりまで』楽しみたいと言っていた。
おそらく誕生日前日の九月六日、夜――そこがタイムリミットだ。
あの日を境に凪の人生は一変した。
抗うことも、逃げることもできない。
こうするしか、もう道はないのだ。
“次”へとループしてしまえば、記憶は全て失われる。
何も知らない自分で、また新しい人生を歩むだけ。
だから、あと一週間だけ我慢すればいい。
――そんな倒錯した慰めでしか、凪は壊れかけた心を保てなかった。
ただ、ひとつだけ――心残りなのは、菊枝のことだ。
あの水害を回避し、彼女は助かった。
しかしそれ以来連絡は途絶え、凪の心にはぽっかりと穴が空いたままだ。
あれきりになってしまうのは、あまりに寂しすぎる。
凪は机の引き出しを静かに開け、鏡をそっと手に取った。
仲間たちと共に過ごした夏。
時代を超えて繋がった“仲間”と笑い合った、あの日々。
その光景が、今でも鏡の奥に映っている気がした。
菊枝がイザナミに命を狙われていたのは、きっと自分のせいだ。
そう思うと、胸の奥が締めつけられる。
光を、あててみようか――
凪が窓の方へと身体を向けた、その瞬間――
「――それ、さ」
不意に、背後から声がした。
凪の肩がびくりと跳ね、息が止まる。
振り返ると、ベッドの上に紗名――いや、イザナミが腰掛けていた。
「それ……もう出してくんのやめてくれない?」
冷たい眼差しが凪を射抜く。
空気が一瞬で凍りつき、全身が硬直して動かない。
イザナミはゆっくり立ち上がり、音もなく近づいてくる。
その一歩ごとに、心が黒く塗りつぶされていくような思いがした。
「前に、どっかへ捨ててやろうかと思ったけど――」
言いかけて、彼女は忌々しそうに眉をひそめた。
「でも、無理だった。黄泉の属性のせいで、私はそれに触れない。
実はね、この手も……“それ”のせいなの」
そう言って包帯を巻いた手を凪の方に差し出して見せる。
「ノートは二冊とも燃やしたけど、それだけはどうにもできなくてさ。
……でも、もう持ってる意味もないでしょ?
あると落ち着かないみたいだし、神社に戻しに行こうよ」
凪は何も言えなかった。
言葉に詰まり、鏡を握る手に力がこもる。
「……嫌なの?」
イザナミの瞳から、光が消える。
闇が満ちていくように、部屋の空気が重く沈んだ。
「そんなにあの子が気になるんだったら……やっぱり私が消してあげようか」
「――――!!」
それが単なる脅しではないと、凪には分かった。
神である“イザナミ”にとっては、時代を超えて人を消すことなど造作もない。
「やめて、くれ……」
絞り出すような声で、凪は言った。
「言う通りに……するから」
その瞬間、イザナミの唇に淡い笑みが戻る。
それは美しく、そして残酷な笑みだった。
「うん。じゃあ、土曜日になったら、曳石神社に行こう」
凪は震える手で鏡を戻し、引き出しを閉じる。
それを見届けると、イザナミは影のように部屋を出ていった。
凪はベッドの端に座り込み、膝を抱えた。
指先には、まだ鏡の冷たい感触が残っている。
再び、曳石神社へ。
かつては胸を躍らせたその場所も、今の凪の心には重い影を落とすばかりだった。




