28 心の折れる音
朝の光は今日も変わらず、山あいの集落を包みこむ。
澄みきった空、濡れた草の匂い――いつもの通学路。
しかし凪の目に映る世界は、昨日までとはまるで違っていた。
全てを知ってしまった、あの瞬間から――
もう、以前のような生活には戻れない――渦巻く不安が、踏み込むペダルを重く感じさせる。
昇降口で靴を履き替え、教室のドアを開ける。
見慣れた机と椅子、変わらぬ友人たちの姿。その全てがどこか遠く、色を失って見えた。
「ねぇ凪ちゃん聞いてよー!」
席につくなり、未久が勢いよく駆け寄ってくる。
昨日の手伝いの愚痴だ。
まくし立てるような声に相槌を打ちながら、凪は紗名の様子を盗み見た。
いつも通りの柔らかな笑み。
けれど“知って”しまった今となっては、その微笑みの奥に別の顔が透けて見える。
「――そうだ! 菊枝ちゃんからのお返事、あった?」
言葉に詰まる。
昨日、猿合で見た帳面で、菊枝があの水害で命を落としていないことを知った。
だが――ここでそれを口にすることを、イザナミは決して許さないだろう。
「……悪い、今日は鏡、見れなかった」
「えー、なんでよ!? 毎朝やってんじゃん」
「いや、朝……時間、なくて」
「鏡に太陽あてるぐらい、何秒かでしょ?」
「ちょっと曇ってたんだよ」
「――朝からめっちゃカンカン照りですけど!」
追い詰められて空回りする凪の言葉に、未久の表情が険しくなる。
「ねぇ、凪ちゃん。菊枝ちゃんのこと……心配じゃないの?」
「なっ――そんなわけ、ないだろ!」
思わず声を荒げた瞬間、視界の端で紗名の姿が動いた。
心臓が縮みあがり、凪はとっさに口を閉ざす。
だが――紗名そのまま“いつも通り”に、二人の仲裁に入った。
「しょうがないよ。凪にもいろいろあるんだろうから」
その一言で、張り詰めた空気が緩む。
「ね? みっこ。許してあげて」
「むー……まぁ、いいけどさ。へんなのー」
不満げに口を尖らせて、未久が自分の席へと戻っていく。
その背を見送る紗名の瞳に、ふと一瞬だけ冷たい光が走ったような気がした。
昼食を終えたあと、紗名は凪を校舎裏へと連れ出した。
吹き抜ける風に黒髪が揺れる。
穏やかな笑みを向けられ、凪は背筋が凍る思いがした。
「凪さぁ……もう少し、うまくやらないと。
あの二人に知られたら――生かしておけないよ?」
その声は甘く、優しく、そしてぞっとするほど無感情だった。
「いっ、“生かして”……?」
「前に言ったでしょ? 凪に悪い影響を与えるものは、全部排除するって」
イザナミの声が、紗名の唇を通して静かに響く。
人の理など届かない絶対的な神意が、そこにあった。
「だからって――」
「……そんなことで殺すなって?」
紗名は微笑んだまま、瞳を伏せた。
「言っとくけどあの子――もともと“完走率”、低いからね?
今までだって、大体どこかで脱落してる。
悟くんもそう。妙に鋭いところがあって油断できないの」
その言葉に、凪の手が震えた。
神であるイザナミにとって、人の命は、軽い。
未久も、悟も……必要とあらば躊躇なくそれを切り捨てる程度の存在でしかないのだ。
「もう……いいじゃない、どっちでも。どのみちあと何日もないんだからさ」
紗名はいかにも興味がないと言った様子でそっぽを向く。
――駄目だ駄目だ駄目だ。
もうあと何日だからこそ……ここで無駄に死ぬ必要はないじゃないか。
凪は奥歯を噛みしめ、必死に声を絞り出した。
「お前の言うとおりにする。だから、あの二人には――手を出さないでくれ」
「そう」
紗名は笑顔でくるりと振り返る。
「――凪が言うなら、そうしてあげる。うん、凪ならきっとできるよ」
その笑顔は、あの日――凪が恋をした笑顔と、まったく同じだった。
放課後。
下校前に寄った男子トイレで、凪は悟と鉢合わせた。
鏡越しに、悟が何気ない調子で口を開く。
「凪さ……最近、紗名といい感じだよな」
「えっ……? そ、そうか?」
平静を装った声が、わずかに上ずる。
「なんて言うか、紗名に対する態度変わったよ。ちゃんと気を使えるようになったというか――うん、成長した」
そうじゃない。
そうじゃないんだ。
確かに態度は変わっただろう。
しかしそれは紗名に――その中にいるイザナミに、恐怖を感じているからだ。
今はいい方に誤解してくれているが、勘のいい悟のことだ。いつ真実に気づいてしまうかわからない。
そうなれば、悟も、未久も――
「――なワケねえだろ!」
焦りから、思わず怒鳴っていた。
悟は動じることなく、声を潜めて囁いた。
「さっき、校舎裏にいたろ? 紗名と」
「――!」
全身から汗が噴き出す。
まさか、聞かれて――
「……何話してたかまでは知らないけどさ、珍しいなって」
思わず息を吐く。
聞かれてはいない。
安堵と同時に、口が勝手に動いた。
「おまっ……! からかうなよ、マジで! 祭ん時もそうだったし!
俺は俺で、色々考えてんだからっ……!」
悟は一瞬何かを考えるように黙り込み、それから穏やかに言った。
「――だな。悪かった。
凪には凪のペースがある。
……でもさ、いい傾向だと思うよ」
軽く手をあげ、悟が出ていく。
扉が閉まる直前、振り返ったその目に、凪は何も返せなかった。
蛇口に手をかけたまま、鏡を見つめる。
「…………」
鏡に映る風景に、ふと違和感を覚えた。
窓の外で黒髪がひと筋、揺れている。
紗名――!
顔から血の気が一気に引いていく。
喉の奥から、祈るような声がこぼれた。
「うまくやる……絶対、うまくやるから……!」
風が吹き抜け、黒髪がふっと揺れて消えた。
残されたのは、遠くに聞こえる蝉の声だけ。
汗が一筋、頬を伝い落ちる。
凪はその場に立ち尽くしたまま、確かに聞いた――
心が折れる音を。




