26 “理解らせ”
目を開けると、そこは見知らぬ空間だった。
朽ちかけた木の匂い、湿った土壁、黒ずんだ梁。
周囲には錆びた鍬や壊れた籠が散らばり、空気はひどく淀んでいる。
状況からして、おそらくここは猿合にある古びた小屋のひとつなのだろう。
「あれ……」
体が、動かない。
視線を落とすと、全身に黒い獣毛のようなものがびっしりと絡みついているのが見えた。
それはまるで生きているかのように蠢きながら、凪を小屋の柱にきつく縛りつけている。
「もう……なんでいっつも逃げるかなあ」
唐突に、声がした。
次いで、紗名の顔が視界に滑り込んでくる。
その瞳は冷たく、しかしどこか愉悦を孕んでいるようにも見えた。
「私、言ったよね? 危ないとこ行くなって。なのに、こんな場所まで来て、こんなものまで――」
彼女の手には、凪が先ほどまで持っていた菊枝の手記があった。
「それ……っ! 返――」
「ううん、これは凪には必要のないものだよ。だから……私が預かっておくね?」
その言葉が終わるより早く、帳面は彼女の掌の中で燃え上がった。
時間にしてわずか数秒。
凪が言葉を発する間もなく、それは灰のひとつも残さずに消え失せた。
「わあ、燃えちゃったねえ」
イザナミはまるで子供のように無邪気に呟いた。
その声には罪悪感も迷いもなく、ただ底の見えない悪意だけが宿っていた。
「さて、と――」
小さく呟くと、彼女はくるりと背を向けた。
「――”次”はさっさとあの子を飛ばして、記録もどこかに処理……あとは、おじいちゃんにもきっちり死んどいてもらわないと……」
独り言のように――それでいて、確実に凪の耳に届くように。
まるで買い物の予定でも立てるような口調で軽々しく“死”を口にするその姿は、常軌を逸した異様な雰囲気を纏っていた。
「――ほんとはもうちょっと先なんだけど、今回はここでおしまいにしようかな?」
「おい、なに言って――」
その言葉を遮るように、イザナミは膝を折って凪の顔を覗き込んだ。
息がかかるほどの至近距離に、心臓がどくんと跳ねる。
「でもやっぱり……惜しいんだよねぇ」
そう言って大きく息をつくと、イザナミは寂しげに目を伏せた。
大げさな身振り、ころころ変わる声色。
芝居がかったその様子が、かえって恐怖を煽る。
しなやかな指で凪の頬を撫でながら、彼女は囁くように言葉を続けた。
「凪と幸せに暮らしたい私は、“私”の存在に気付かれたくなかった。
……だって、こうなることがわかっているから」
吐息のような声が、耳元に絡みつく。
凪の喉が、ごくりと鳴った。
「だから凪が鏡を見つけないようにしていたし、鏡につながるおじいちゃんだって過去で――。
なのに今回の凪はどんどん核心に迫っていっちゃうんだもん」
その言葉には、ほんのわずかな震えがあった。
「……だから昨日も、このままリセットしちゃおうかと思った。
でもね、やっぱり……もうちょっとだけ楽しみたくなっちゃったの」
その瞳が熱を帯び、妖しく輝く。
「だって、今回は凪が私に気づいてくれて、嬉しかったから。
“イザナミ”として、凪と会話ができるのが、こんなに楽しいなんて! こんなに心が震えるなんて!」
彼女は笑みを浮かべ、凪の目をまっすぐに見つめた。
「だから――凪に選ばせることにした」
「選……ぶ……?」
「うん。三つの選択肢」
そう言ってイザナミは指を三本立て、一言ずつ区切るように選択肢を告げた。
「一番。凪を殺して、すべてをリセットする」
「二番。凪は殺さないけど、凪以外の人は全員殺す」
「三番。凪が心を入れ替えて、私とずっと一緒にいる。……私としては、これが一番いいんだけどね」
そのどれもが、絶望そのものだった。
「そんなの、選べるわけ――」
喉はひりつき、震えが止まらない。
かすれた声でなんとか絞り出した一言に、イザナミがわずかに目を細めた。
「……じゃあ、まさかの“四番”? ここから逃げ出して、私をどうにかする、とか?」
「…………」
「残念だけど、そんな選択肢は存在しないよ。だって私――神様だから」
紗名の声色が一瞬だけ低く、硬質な響きに変わった。
「さっき急にバランスを失ったでしょ? 凪が言うこと聞いてくれないから、私もこういうこと……しないといけないの」
その言葉とともに、イザナミが腕をひらりと振る。
次の瞬間、右肩に焼けるような痛みが走った。
「がああああああっっ!!!!」
右腕が――肩から先がすっぱりとなくなっている。
「さっきもこうしてね、足を片方、消したの。もちろんすぐに治してあげたけど」
イザナミが再び腕を振ると、その痛みは嘘のように消えた。
失われたはずの腕は戻り、意識した通りにしっかりと動く。
「ね? 足だって、腕だって……どこだって」
右足、左足、両腕。
その腕の一振りごとに、消えては戻り――また消える。
幾重にも押し寄せる痛みの波が、凪の意識を執拗に削り取った。
「ほら、ほら、ほら……こんなことだって――」
――――!!??
いま突然――全ての感覚が消えた。
視界も、音も、匂いも、温度も。
全てが完全に消え失せた。
何が起きたのか、どれほどの時間が過ぎたのか分からないが──ふと気付けば数センチ先に紗名の顔があった。
「ふふっ。今のはね……あたま、だよ?」
意味が、わからない。いや、理解したくない。
これが神の力だというなら、人はそれにどうやって抗えばいいのか。
血にまみれたまま、焦点の合わない目で床の一点を見つめる。
体は動かず、息をするのもやっとの状態だった。
その様子を、イザナミがうっとりとした目で見下ろしている。
次第に意識が遠のき、そのままゆっくりと闇に沈む。
「ごめんね? 血もきれいに戻してあげたかったんだけど……」
最後に見えたのは、自らの手を濡らす凪の血を、その舌で舐めとる紗名――いや、イザナミの姿。
その笑みは、狂気を超えた“神”の微笑だった。




