22 疑心暗鬼
八月二十八日。
夏休みが終わり、新学期の始まりの日。
しかし――凪の心はどこまでも深く沈んでいた。
自転車のペダルをゆっくりと踏みながら、学校へと続く坂道を上る。
爽やかなはずの朝の風も、今日はやけに重く感じられた。
あれは夢だったのか?
それとも――
胸の内にあるのは昨日の出来事に対する戸惑いと、紗名への得体の知れない不安。
そのざわめきは校門をくぐってもなお、消えることはなかった。
校舎脇の駐輪場に自転車を停め、教室へと向かう。
この分校に通う中学生は、たったの四人。
学年もクラスも関係なく、全員が同じ教室だ。
教室の入口で立ち止まり、そっと中を覗き込む。
――来てる……
そこに見えたのは普段と変わらない紗名の姿だった。
近寄って、恐る恐る声をかける。
「お……はよ。紗名――か?」
「は? 何言ってんの凪」
いつも通りの変わらない笑顔、変わらない口調。
だがそれが逆に、胸の中に冷たい違和感を呼び起こす。
凪は言葉を探しながら、慎重に切り出した。
「あの、昨日は……」
「昨日……ああ、うん。菊枝ちゃん……きっと大丈夫だよ。そんな気がする」
「……いや、夜のことなんだけど」
「夜?」
「ゆうべ、神社の本殿で――」
「本殿? ……何の話?」
話が噛み合わない。
言葉が全て、すり抜けていくようだ。
焦りと困惑が入り混じり、凪は言葉を失って立ち尽くす。
その視界に、不意に未久の顔が飛び込んできた。
「ねえねえ凪ちゃん! 紗名ちゃん、怪我してるの知ってた!?」
言われて視線を落とすと、確かに紗名の右手には白い包帯が巻かれている。
それは手のひら全体を覆うほどで、ただの擦り傷や切り傷ではなさそうだ。
「――それ……?」
「うん、昨日の夜……火傷しちゃって」
紗名は一瞬だけ凪から視線を逸らし、包帯をした手を引っ込めた。
「ちょっと大げさに巻かれただけだから、気にしないで」
昨晩、神社で見た彼女の手に、包帯などなかったはずだ。
ならば、あの時の紗名は――いったい誰だったのか。
「紗名――」
凪が口を開きかけたその時だった。
「はいみんな席について―」
ドアを開けて入ってきた担任の声で、会話は強制的に中断された。
募る疑念を胸に残しながら、凪も席に着く。
まっすぐに前を向いて座っている紗名の姿が、やけによそよそしく見えた。
講堂で始業式を行った後、再び教室に戻る。今日はもうこれで終了のはずだ。
壇上で担任がぱん、と手を一つ叩く。
「はい、じゃあ今日はこれで終わりになるけど――」
――よし、みんなと話すなら今だ。
息を呑み、立ち上がりかけたその時――まるで狙いすましたように担任の声が割って入った。
「悟、未久、ちょっとつきあってくれるか。手伝ってほしいことがあってな」
「うえええええぇ~~~~!! なんでぇ~~~~!?」
未久の大げさな叫びが教室に響き、悟が肩をすくめる。
その様子に苦笑しながら、担任は二人を連れて廊下へと出ていった。
取り残された凪と紗名。
沈黙が重くのしかかる。
「先、帰ってようか」
気まずさを紛らわせるように、紗名が口を開く。
それに無言で小さく頷くと、凪は紗名とともに教室を後にした。
そのまま靴を履き換えて校庭に出ると、校門の方でクラクションが短く鳴った。
視線を向けると紗名の父親が運転する車が見える。
怪我で自転車に乗れない娘を迎えに来たのだろう。
「一緒に、乗ってく?」
「いや、チャリ、あるから……」
凪は軽く首を振り、ぎこちない笑みを紗名に向けた。
紗名が小さく手を振って車に向かっていく。
その背中が、別人のように遠く感じられた。
――何も、話せなかった。
その事実が、凪の心にずしりとのしかかっていた。
帰宅後、凪はまっすぐに自室へ向かい、机の引き出しを開けた。
鏡は――そこにあった。
しかし、その隣に置いていたはずの菊枝の手記が、どこにも見当たらない。
「え……なんで……?」
何度も中を確かめる。
机の下、棚の裏、鞄の中。
どこにもない。
確かに引き出しの中に、一緒に置いていたはずなのに――
――記憶違い?
いや、そんなはずはない。絶対にここに置いていたはずだ。
鏡があるということは、菊枝との交信までは現実だった、のだろう。
じゃあ、昨日の猿合は、千守神社はどうなのか。
頭の中で夢と現実の境界が崩れ始める。
――あれが現実だったなら、何か痕跡があるはずだ。
昨日着ていた服はどれだろう。
山を走り、藪を転がり落ちたのだから、破れたり、汚れたりしているはずだ。
しかし――そのような状態の服はどこにも見当たらない。
まるで最初から、そんな出来事などなかったかのように。
だがそれが、凪のくすぶる思いに火をつけた。
学校での紗名の態度、消えた手記、きれいなままの服……昨夜の出来事を示す痕跡は、全て跡形もなく消え失せている。
しかし――そのあまりに整いすぎた空白は奇妙な作為を感じさせ、心のどこかに引っかかる。
あれは、夢なんかじゃない。
心の奥底で何かが囁く。
迷いと恐れが胸を締めつける中で、凪の心に残ったのは、拭いきれない心のざわめきだった。
もう一度、猿合に行こう。
自分の中に残った違和感が、事実か幻想か。
それを確かめずに、このまま終われるはずがない。
気づけば準備を始めていた。
迷いより、確かめたい気持ちが勝っていた。
不確かな現実。
曖昧な記憶。
心の奥で――疑念は衝動へと姿を変えつつあった。




