21 無貌の影
「――ッ!!」
反射的に、駆け出していた。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
少女のシルエットをしていた“それ”は、ぼこぼこと不規則に膨らみ、歪んでいく。
その異様な姿を横目に、凪は本殿を飛び出した。
振り返れば、終わる――
得体の知れない気配を背後に感じながら、前方に見える鳥居に向かって一直線に参道を駆け抜ける。
――ザッ
目の前まで迫った鳥居の下に不意に“それ”が現れ、凪は身を翻すようにして脇の藪へと飛び込んだ。
枝が顔をかすめ、草が足に絡む。
踏みしめる地面は不安定で、身体は思うようについてこない。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
走る。走る。走る。
ただ必死に前へと、とにかく走る。
凪の脳裏に浮かぶのは、あの“夢”の記憶。
足に絡みつく、ぬめりとした感触。
地面を這うように、引きずられる無力感。
何度も見た夢だ。はっきりと覚えている。
まずい、まずい、まずい――
もう少しで山を抜ける。道路に出れば、明かりがある。人の気配がある。
だが……夢の通りならばこの後、触手に足を絡め取られて――
「う、わっ……!」
足元に伸びた木の根に気づいたときには、もう遅かった。
つまずいた瞬間、視界が大きく揺れる。
重心が崩れ、凪の身体は前のめりに倒れ込んだ。
背後から、闇を裂いて影が伸びる。
夢の中で見た、黒く蠢く触手――それは宙に跳ねた足を掠め、空を切った。
「がっ、あああああぁっ!」
凪は斜面を跳ねるように転げ落ちた。
枝が頬を打ち、石が背をえぐる。
痛みを感じる余裕など、どこにもなかった。
必死にもがくが、勢いは止まらない。
ついに凪は、藪を突き破って道路へと投げ出された。
「ぐぅっ――!」
硬いアスファルトに叩きつけられ、全身を電撃のような痛みが駆け抜ける。
次の瞬間――
まばゆい光が視界を奪い、タイヤの悲鳴が耳をつんざいた。
「――!?」
気付けば――凪の目の前、わずかな距離に大型トラックが停まっていた。
「おいっ、大丈夫か!?」
運転席から男が飛び出してくる。
ヘッドライトに照らされた凪の姿は、およそ無事には見えなかったはずだ。
けれど、どこにも怪我はなかった。不思議なほどに、無傷だった。
「……大丈夫です」
かすれた声でそう答え、凪はふらりと立ち上がった。
振り返って、背後の茂みに目を向ける。
影は見えない。
気配も――ない。
「と、とにかく救急車を――! 今、すぐにっ……!」
「大丈夫です。どこも当たってません。ご迷惑を……おかけしました」
「は!? いや、ちょっと! おい!!」
男の声を背中で受けながら、凪はふらふらと道路を歩き出した。
頭の中は真っ白だ。
何がどうなっているのか、考える余裕もない。
ただ、本能が命じるままに――凪の体は自宅へと向いていた。
玄関の鍵を閉めると凪は一目散に自分の部屋へ駆け込んだ。
そのまま、明かりもつけずに布団に潜り込む。
“あれ”に、自分の居場所を悟られたくない。
その一心で、身を縮める。
どんな些細な音ですら、立てるのが怖かった。
布団の中で息を殺し、胸に手を当てる。
鼓動が、耳の奥でうるさいぐらいに響いている。
あの場に、紗名の姿はなかった。いや、あれこそが、紗名だった。
凪は布団の隙間からそっと、窓に視線を向けた。
カーテンはぴたりと閉じられている。
それを開ける勇気は、ない。
明日は始業式。
紗名は、学校に来るのだろうか。
――会いたくない。行きたくない。
もし、あれが“彼女”だったとしたら。
思考は、そこで止まる。
せめて今夜は、何も起こらずに明けてほしい。
ただひたすらに、そう願った。
窓の向こうで、夜の闇がうっすらと白み始める。
朝が静かに、近づいていた。




