13 進行する悪夢
「ハッ、ハッ、ハッ――」
走る。
木々が鬱蒼と生い茂る山の中、道なき道をひたすらに走る。
息を切らしながら振り返った先に見えるのは、真っ黒な影。
すでに日も落ち暗闇に包まれた視界の中で、なおはっきりと分かる黒い影。
あれは一体何なんだ。
人の形をしているようで、人ではない何か。
『あれ』に、捕まってはいけない――本能が、遺伝子がそう告げる。
――あれ? これって……
いつもの夢だ。
しかしいつもと違うのは、今回はこれが夢だとわかっていることだった。
黒い影に追われ、山の中を走り――もう少しで開けた場所に出られるというところでそれに捕まる。
いつもそうだ。
そして、あの声が聞こえる。
「今回は――ここでおしまい」
身の毛もよだつようなおぞましい声。けれど、ここで終わるのがいつものパターンのはずだった。
しかし――
「――もうやめるのだ、イザナミよ」
自分の口から発せられた言葉に驚く。
いつもならここで目が覚めるはずが、今回はそうではなかった。
影が答える。
「何を虫のいいことを。元はと言えば……共に国を産み、神を産んだこの私に、非道な仕打ちをしたのはそちら」
――何を……言ってるんだ。
「命を落とした私を哀れみ、貴方は黄泉の国まで訪ねてきてくれた。でも貴方は私の姿を見るや逃げ出してしまった。見るなと言ったのに……」
話が全く見えない。だが、夢の中の自分は意思に反して言葉を紡ぐ。
「おまえはもう元の姿ではなかった。黄泉の国の穢れた食物を口にし、もはやこの世のものではなくなっていたのだ」
「黄泉比良坂でやっと追いついたというのに、あんな石を置いて邪魔をして――」
「おまえは、もう戻ってきてはならぬ」
「やはりあなたの存在は忌々しい。ならばいっそ――」
黒い影が大きく膨れ上がり、巨大な闇の塊となって凪の身体を包み込む。
その瞬間――五感が全て遮断され、意識は漆黒に飲まれた。
「――――――ッ!!??」
目の前に広がる、テントの黄色。
隣では悟が呑気に寝息を立てている。
やっぱり、夢――
自分の手足を確かめる。
無事だ。
けれど、体に残る感覚は……あまりにもリアルだった。
黒い影に飲まれた瞬間、全身が粉々になって霧散する感覚を味わった。それは夢とは思えないほど生々しく、身体の隅々にその余韻が残っている。
寒くもないのに体が震えて止まらない。
凪は這うようにしてテントから出ると、まだ夜も明けきらない薄明りの中、焚き火跡の前にある椅子へと腰を下ろした。
「イザ……ナミ……?」
なんとなくは知っている。日本神話に出てくる神様の名前だ。
イザナギという男神と一緒に、まだ何もなかった世界に国を生み出した存在――たしか古事記だったか、日本書紀だったか。
「でも……」
夢の中で話していた内容が妙に気に掛かる。
黄泉の国がどうとか、この世のものではない、とか――そんな細かい内容まで知らないぞ、俺……
凪はポケットからスマホを取り出す。
「イ、ザ、ナ、ミ――」
――――――――――
イザナミは、イザナギと共に日本の国土を生み出し、その礎を築いた女神です。しかし、火の神であるカグツチを出産した際に大火傷を負い、命を落としてしまいます。
イザナギは亡き妻を追って黄泉の国を訪ね、「一緒に戻ろう」と呼びかけます。これに対してイザナミは、「黄泉の神に相談してくる」と言い残して家の奥へ入っていきました。
しかし、なかなか戻ってこないイザナミに業を煮やしたイザナギは、手にしていた櫛に火を灯し、中の様子を覗いてしまいます。そこで彼が目にしたのは、醜く変わり果てたイザナミの姿でした。
恐ろしくなったイザナギは一目散に逃げ出しますが、イザナミは軍勢を率いて激しく追い詰めてきました。
イザナギは桃の実を投げてこれに応戦し、黄泉の国と現世の境である「黄泉比良坂」まで逃げ延びます。そして、追手を食い止めるために大きな岩で道を塞ぎ、なんとか黄泉の国から脱出することに成功しました。
――――――――――
「マジかよ……」
夢で交わされた言葉と、まるで一致している。
それに、あの夢の中では――自分は『八尋凪』としてではなく、まるでイザナギとして受け答えしていたような気がする。
ただの夢にしては、出来すぎだ。
神話の知識なんて断片的にしか知らなかったのに、あれほど詳細なやり取りが再現できるはずがない。
胸の奥にはどうしようもなく嫌な感覚が残っている。
目が覚めているのに、まだ夢の中にいるような、そんな感覚。
いや、むしろ、これこそが夢で、あちらのほうが“現実”だったのではないかとすら思えてくる。
……いや、そんなのはただの妄想だ。
俺は俺だ。八尋凪、それ以上でも以下でもない。
……そうであってくれ。
「はぁ……」
重たい息と共に顔を上げる。
空は橙色から澄んだ青へと静かに移り変わっていた。
それから間もなく。
テントの中から聞こえたアラーム音に続いて、皆が起き出してくる。
紗名が一番乗りで、次に未久。
そして意外にも、最後まで寝ていたのは悟だった。
「悟くん大丈夫? なんかふらついてるような……」
「夜中、凪がうなされててあまりよく寝られなかった」
「う……わりぃ」
「なんか寝言言ってたけどよく聞き取れなかったな」
「あ! 寝言は、返事しちゃダメなんだって!」
いつものメンバーの、いつもの会話。
なんでもない日常の風景が、凪の心を少しずつほぐしていく。
カップに注いだインスタントのスープと、スティックパン。
簡単な朝食をとるうちに、ようやく体も目を覚ましてきた気がする。
「……そろそろ、片付けるか」
悟が大きく伸びをして立ち上がり、紗名と未久もそれに続く。
それぞれが自分の持ち場へと向かい始める中、凪も立ち上がり、テントのロープに手をかけた。
「よし……忘れ物、ないな」
撤収作業は順調に進み、凪たちは午前中のうちにキャンプ場をあとにした。
今日も一日交信は休みだ。家に帰ったら、もう一眠りしよう。もうあの夢は見ないといいけど――
そう強く願いながら、凪はペダルにぐっと力を込める。
けれど、凪はまだ知らなかった。
些細な夢の変化、それはまだほんの始まりに過ぎないということを――




