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4.氷が解けるとき

 それからの時間は、とても楽しかった。信じられないことに。


 ぶらぶらと散歩をしたり、静かな店で食事をとったり。彼が案内してくれた場所は、どこもわたくしの好みに合っていた。


 人の多いところでこんなに動き回ったのは、久しぶり……いや、初めてかもしれない。


 ただ、分厚い男物の服を着て歩いているせいで、少々暑さを覚えてはいた。


 きっちりとした襟のボタンを外して、首元を緩めることができれば、少しはましになるだろうか。


 ただ、そんなことをすれば、わたくしが女だとレナードに気づかれてしまうかもしれない。服でごまかしているとはいえ、わたくしの首は男性のそれとはやはり違うから。


 仕方なくハンカチを取り出して、首の後ろで束ねた髪を片手で持ち上げる。汗ばんだ首元を、そっとハンカチでぬぐった。


「あ、暑かったですか。でしたらそろそろ、休憩にしましょうか。ちょうど近くに、いい店があるんです」


 レナードはわたくしをじっと見ていたけれど、すぐに申し訳なさそうな笑みを浮かべた。ほんの一瞬だけ、彼の顔がこわばっていたように見えたのが、少し気になった。




 やがて、日が傾き始めたころ、わたくしたちは町はずれの広場にいた。わたくしが馬を預けた馬小屋の近くだ。人通りはなく、わたくしとレナードのふたりだけ。


「……レナード。君からの礼、確かに受け取った」


 彼にいつまでもつきまとわれないように、彼の気が済むまで付き合うつもりだった。ところが今では、この時間が終わってしまうのが少しだけもったいないと、そう思えてしまっていた。


 でも、これ以上彼と関わってはいけない。彼は、わたくしのことを知りたがっている。彼は危険だ。


「それでは、失礼する」


 きびすを返して立ち去ろうとしたとき、レナードがわたくしの腕をつかんできた。


「待ってください」


 振り返ると、彼はひどく真剣な目で、まっすぐにわたくしを見つめていた。


「メルヴィン。君は……あの舞踏会にいた赤毛の令嬢でしょう?」


 男のなりをしたわたくしの腕をつかんで、必死の形相で、レナードは言った。


「僕の目は、ごまかせませんよ」


 彼はまっすぐに、食い入るように、わたくしの目を見つめている。その強い視線に射抜かれてしまって、目がそらせない。


「背丈も、そのきれいな赤い髪も……あの日見たものと、まるで同じだ」


 混乱するわたくしに、彼は優しくささやきかけてくる。


「何より、背筋を伸ばして歩く君の姿は、懸命に駆けていた君の姿は、とても美しかったんだ」


 わたくしが、美しい? ありえない。彼はわたくしを、からかっているのだろうか。


「レナード、落ち着いてくれ。君が何を言っているのか分からない。人違いだ」


 彼の手をふりほどこうとしながら説得を試みたけれど、彼はびくともしない。男性にしては華奢なのに、驚くほど力が強かった。


「人違いではないよ。君の首の後ろにあるほくろ、それも全く同じだったから」


 そう指摘されて、はっと首を押さえてしまう。レナードが、嬉しそうに目元をほころばせた。


 しまった。そんなところから、ばれてしまうなんて。


 舞踏会のとき、わたくしは髪を結い上げていた。今は首の後ろでくくって背中に垂らしているけれど、さっき汗を拭くときに、髪を持ち上げた。たぶんあのときに、見られてしまったのだろう。


「もう一度会えたら、名前を教えてほしい……僕の願いを、叶えてもらえないだろうか。もちろん、僕が一方的に押し付けた約束だと、分かってはいるけれど」


 彼は切々と訴えてくる。わたくしをまっすぐに見つめるその目には、とても真剣な色が浮かんでいた。


「それでも僕は、どうしても、君の名前を知りたいんだ」


 彼の目を見ていると、彼の声を聞いていると、どんどん混乱してしまう。


 舞踏会で声をかけられたとき、からかわれているのだとばかり思っていた。でも目の前にいる彼は、そんなことをする人物のようには見えない。


 だったらどうして、彼はわたくしを追いかけてきたのか。わたくしの名前を知りたがっているのか。


「……メリッサ」


 気がつけば、名乗ってしまっていた。自分でも、なぜ答えてしまったのか分からない。


 レナードは一瞬目を見張って、それから心底嬉しそうに笑み崩れた。思わず見とれてしまうくらいに、幸せそうな表情だった。


「ああ、君にとてもよく似合う、愛らしい名だね」


 けれど彼が口にした言葉に、心が乱れる。これまでの混乱と相まって、頭にかっと血が上るのを感じた。


「愛らしい!? どこが!?」


 思わず、声を張り上げてしまった。お腹の底から、得体のしれない感情がこみあげてくる。


「見てのとおり、わたくしは何の違和感もなく男性に化けられる。令嬢らしさなんて、どこにもない! そんなわたくしに向かって『愛らしい』だなんて、馬鹿にしているの!?」


 こんなことを、誰かに言ったのは初めてだ。そもそも、こんなふうに感情を誰かにぶつけたのも初めてだ。


 わたくしは、どうしてしまったのだろう。心臓がどきどきして、体がかたかたと震えている。


「そうだね。君は背が高く、凛としている。弱々しく儚げな令嬢たちとはまるで違う」


 しかしレナードは少しも動じることなく、静かな声で返してくる。


「でもそれの、どこが悪いのだろう。間違いなく、君には君の魅力がある」


「魅力なんて、あるわけない……」


「いいや、ある。君が、気づいていないだけで」


 不思議なくらい、彼は自信たっぷりだった。わたくしが必死に絞り出した言葉を、すぐさま打ち消していく。


「分からない……そんなの、聞きたくないわ……」


 さっきから、彼が何を言いたいのか理解できない。両手で耳を押さえて、うつむいてかぶりを振る。


「……確かに、こうやって言葉をかわしていても、君の心には届かないのかもしれない」


 少しして、彼の静かな声がした。ようやく、引き下がってくれるのだろうか。ああ、やっと、彼の言葉に惑わされずに済む……。


「僕に任せてくれないか。ひとつ、考えがあるんだ」


 ほっとしかけたそのとき、彼は朗らかに笑いかけてきた。

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