3.謎の引力
あの湖の周辺には、しばらく近寄らないほうがいい。せっかくいい場所を見つけたのに、残念だ。
朝、いつもの部屋着に袖を通しながら、ため息をつく。
ただ、レナードにもう一度会いたいなという思いも、少しだけあった。
久しぶりに、顔を隠すことなく他人と話すことができた。もちろんそれは、わたくしが男性のふりをしていたから、ではあるけれど……それでも、少しだけ、楽しかった。
でも、そうして彼に会い続けていれば、いずれわたくしの正体がばれてしまうかもしれない。そのとき彼は、きっと好奇とあわれみの視線をわたくしに向けてくるのだろう。
そんなことになるくらいなら、このまま、あの日のことはただの思い出にしてしまったほうがいい。
「……ああ、退屈だわ……」
だからあれから何日も、部屋にこもってだらだらと本を読んでいた。窓の外を眺めてため息をつくだけの日々は、どうにも退屈で仕方がなかった。
セイラの舞踏会に出るまでは、これが当たり前の日常だったのに。二日続けて刺激の強い体験をしたせいで、少しばかり感覚がおかしくなっているのかもしれない。
窓辺のテーブルでため息をついていたら、メイド長が声をかけてきた。
「お嬢様。ご気分が優れないのでしたら、町へ出かけられてはどうでしょうか」
わたくしが生まれる前からこの屋敷で働いている彼女は、わたくしにとってはもうひとりの母親のようなものだ。どうやら、いつも以上に浮かない顔をしているわたくしを心配してくれたらしい。
町、か。人の多いところは好きではないけれど……逆に、人ごみにまぎれることもできる。少なくともこの間のように、わたくしが彼を助けなければいけないような事態になることもない。
それに、彼の屋敷の場所は分かっている。あそこからできるだけ遠い町に向かえば、彼に会う可能性も……。
……ついついレナードのことを考えている自分に気がついて、とまどってしまった。
駄目だ、これは冗談抜きに、気晴らしをしたほうがいい。そうして一刻も早く、彼のことを忘れてしまおう。
「ありがとう。そうするわ。身支度を手伝って」
メイド長にそう告げると、彼女は心底ほっとしたような笑みを浮かべていた。
先日と同じように馬に乗り、近くの町に足を運ぶ。馬小屋に馬を預けて、ぶらぶらと通りを歩いた。
すれ違う人たちは、わたくしを見ていない。わたくしを見ても、驚きを顔に浮かべることはない。みんなわたくしのことを、どこかの貴族の令息だとしか見ていない。嫌な感じに注目を集めてしまったあの舞踏会のときとは、大違いだ。
たまになら、こういうところを歩くのも悪くはない。活気に満ちた人々の声を聞いていると、わたくしまで元気になれるような気がする。
今後は、もっと町を歩いてみてもいいかもしれないな。ちょっぴり気分が軽くなったのを感じつつのんびりと歩いていたら、思わぬところから声をかけられた。
「あっ、そちらの方!」
聞き覚えのある声に、びくりとした。まさか、こんなところに彼が?
とっさに走って逃げそうになるのを、すんでのところでこらえる。ここで突然逃げ出したりしたら、さすがに怪しすぎる。
そろそろと振り返ると、すぐ近くにレナードが立っていた。あきれるくらいに嬉しそうな笑みを浮かべている。
「ああ、やっぱり先日の方でした。ここで会えるなんて思いませんでした」
あまりのことに頭が真っ白になっていたけれど、どうにかこうにか言葉をひねり出す。
「……足は、どうなんだ?」
「おかげで、もうすっかりよくなりました。君が馬に乗せてくれたおかげです。あれ以上歩いていたら、治るまでかなりかかっただろうと、医者がそう言っていました」
人助けができたのは、よかった。けれどそのせいで、彼とこんなにも早く再会することになってしまった。屋敷で療養していてくれれば、ここで出くわすこともなかっただろうに。どうにも複雑な気分だ。
ひそかに顔をひきつらせている私に、彼は人懐っこい笑顔を向けてくる。
「ところで、君の名前を聞かせてもらえませんか? 先日はあわてていて、聞きそびれてしまって」
にこにこと笑う彼を見ていたら、舞踏会のときの言葉がよみがえってきた。もしまた君に会えたら、名前を教えてくれ。彼は逃げるわたくしに、そう呼びかけてきた。
わたくしたちは、こうしてまた出会った。だったら、名前を教えてもいいのかもしれない。
ふと浮かんだそんな考えを、全力で打ち消す。あれは、彼が勝手に願ったことだ。わたくしは名前を教える約束なんて、していない。
「……故あって、名乗れないんだ。適当に呼んでくれ」
仕方なく、そう返した。彼は目を見張ってわたくしを見ていたけれど、じきにまた口を開いた。
「分かりました。それでは……メルヴィン、でどうでしょう」
どことなく本名に近い名前を呼ばれてしまって、どきりとする。するとレナードは快活に笑って、わたくしが腰に提げていた短剣に目をやった。
「そちらの短剣の帯飾りに、『M』と記されていたもので」
この帯飾りは、わたくしが男装すると決めたとき、両親が用意してくれたものだ。ありふれたつくりのものでいいといったのに、両親は職人に命じて、わざわざ手の込んだ装飾を加えさせた。
たぶん、親心の表れなのだろうけれど……それが、こんな形で裏目に出ることになるなんて、思いもしなかった。
「あ、ああ。それで構わない」
「ところで、先日のお礼がまだでした。何か、お望みのものがありますか?」
わたくしの動揺に気づいているのかいないのか、レナードはおっとりと笑っている。
「いや、礼が欲しくて助けたのではないから、気にしないでくれ」
とにかく今は、一刻も早く彼から離れたかった。このややこしい状況から逃れたかった。
彼とまた会ってみたい、話してみたいというほのかな思いは、もうすっかり吹き飛んでしまっていた。
「いえ、それでは僕の気がすみません」
「本当に、気にしないでくれ」
道端で押し問答をしているわたくしたちを、通りすがりの人たちがじろじろと見ている。こんなところで貴族の令息同士がもめているのは、さすがに珍しいのだろう。
このままだと、さらに目立ってしまう。こうなったら、話を中断して逃げるしかないだろうか。
ふっときびすを返しかけて、思いとどまる。
彼に背を向けて、走って逃げる。あの舞踏会のときと、まるで同じだ。そんなことをしたら、彼がわたくしの正体に気づいてしまうかもしれない。
仕方ない、どうにかして穏便に、彼と別れるしかない。しかしこの感じだと、彼はわたくしに礼をするまであきらめてくれないような気がする。
「礼といっても……大仰なものは、逆に迷惑なんだが」
彼の出方をうかがうように、そろそろとそう口にする。すると彼は、ぱあっと顔を輝かせた。
「でしたら、少し町歩きに付き合ってはもらえませんか」
「町歩き?」
意外な言葉が飛び出してきたことに驚いていると、彼はにっこりと明るく笑って続ける。
「僕、この町には詳しいんです。どんなところに行きたいか言ってもらえれば、すぐに案内しますよ」
行きたいところなんて、別にない。ここはとにかく、適当な場所に連れていってもらって、そこで時間をつぶし、彼を満足させるしかないだろう。
……わたくしはお礼をしてもらっているはずなのに、どうしてわたくしが彼を満足させなくてはならないのか。
少々腑に落ちないものを感じつつ、小声でつぶやいた。
「……だったら、人の少ないところで、少し休みたい」
「任せてください!」
わたくしが投げやりになっているのに気づいているだろうに、レナードはとても張り切っていた。
レナードはわたくしを、町の中心から少し離れた緑地に連れていった。町中だというのに、たくさんの木々が生い茂っていて、通りをゆく人たちの視線を遮ってくれている。
「ここ、穴場なんですよ。お昼どきになると人が増えますが、午前中は静かなものです」
木陰には、椅子やテーブルがいくつも置かれている。彼は椅子をわたくしに勧めると、少しだけ待っていてください、と言い残して、どこかへ行ってしまった。
彼は、何がしたいのだろう。少しとまどいつつも、ひとりの時間を楽しむ。初めて立ち寄ったこの場所は、思いのほか心地よかった。
目を閉じて、木々のざわめく音に、小鳥の声に耳を澄ませる。どうか、彼がしばらく戻ってきませんように。そうすれば、この静かな時間をゆったりと楽しめるから。
しかしそう経たないうちに、かぐわしい香りがふわりと鼻をかすめた。なんだろう、と目を開けると、満面に笑みを浮かべたレナードが目の前に立っていた。両手に、湯気の上がるカップを持っている。
「どうぞ。休憩するなら、お茶のひとつもあったほうがいいでしょうし」
彼は優雅なしぐさで、わたくしの前にあるテーブルにカップを置いた。少しだけためらってから、カップに手を伸ばす。
「近くの店の、特別なお茶なんです。薬草茶なんですけど、何をどう混ぜているのかは秘密だとかで。僕、このお茶が好きなんですよ。君にも気に入ってもらえたら嬉しいです」
レナードの言葉を聞きながら、そっとお茶をひと口飲んでみる。深い森の奥を思わせるような落ち着く香りに、目を細めた。
するとレナードが、ほうとため息をつく。
「ああ、ようやく笑ってくれましたね」
「私は……笑っていたのか?」
彼の指摘が予想外で、思わず目をむいてしまった。
「ええ。柔らかな、いい表情でしたよ」
「……見ないでもらえるとありがたい」
「そうですか? 君がそう言うのなら、そうしますが」
私のつっけんどんな態度にも、彼は少しも気を悪くした様子がない。本当に、おかしな人だ。
とまどいがさらに増していくのを感じながら、温かなお茶をもうひと口飲んだ。向かいに座る彼は、にこにこと嬉しそうに笑っていた。




