2.気まずい再会
その日は、眠れなかった。
寝台の上で頭まですっぽりと毛布をかぶり、昼間のことを何度も何度も思い返す。
レナードは、わたくしのことをからかっていたに違いない。
背が高く、野暮ったいドレスを着て顔を隠した風変わりな令嬢を見て、彼はただ興味を抱いただけなのだろう。それも、あまりよくないほうの興味だ。好意でも、純粋な好奇心でもなく、奇妙な見世物を見つけたときのような、そんな感情だろう。
だから、彼のことは忘れてしまうに限る。そう自分に言い聞かせていたのだけれど、別れ際の叫び声が耳から離れなかった。
「もしまた、君に会えたら……」
そんなことはありえないし、あってほしくない。分かりきっているのに、振り払えない。セイラ以外の人間に、久しぶりに声をかけられたから、かもしれない。
目を閉じたまま、ただひたすらにため息を押し殺し続ける。やがて、窓の外から小鳥たちの声が聞こえてきた。
「……ああ、もう朝なのね……」
毛布から出て、のろのろと立ち上がる。カーテンを開けると、腹が立つくらいにさわやかな朝の光が、部屋いっぱいに差し込んできた。
結局、一睡もできなかった。最悪な気分だ。
「こういう日は、気晴らしをするに限るわ」
深々と息を吐いて、髪をかき上げた。
一年ほど前、わたくしに新たな趣味ができた。どうやっても令嬢らしくなれないのなら、いっそ男のふりをしてしまえばいい。ふと、そう思ったのがきっかけだった。
両親に頼んで男物の服一式を手に入れてもらい、それをまとってこっそりと外出するようになったのだ。
わたくしは、醜い令嬢だ。でもわたくしが男性であれば、話は別だ。
背の高いわたくしには、男物の服はよく似合っていた。さすがに、男性にしては少々華奢で、ジェイムズ様のような魅力的な男性にはなれないけれど、少なくともドレスをまとっているよりはしっくりきた。
男物の服をまとった鏡の中のわたくしは、自分でも驚くくらいにまっすぐに、わたくしを見返していた。この姿をしているときだけ、わたくしは自分の醜さを嘆かずに済んだのだ。
引きこもっているわたくしをずっと心配していた両親は、こんな形であっても外に出られるようになったことを喜んでくれていた。
それに、男性のふりをして外出し、あれこれと体を動かしていたからか、運動も得意になってきた。そのせいでうっすらと筋肉がついて、より令嬢らしさはなくなってしまったのだけれど、おかげで昨日レナードを振り切ることができたのだし、よしとしよう。
いけない、彼のことを考えるのは止めよう。手早く着替え、髪をまとめる。両親にひとこと断って、馬にまたがって屋敷を出た。供も連れずに、ひとりきりで。
心のおもむくまま、馬を走らせる。今日は、どこに行こうか。
ごくたまに、気分がいいときなど、町に向かうこともあった。でも今は、そんな気には到底なれなかった。昨日はたくさんの人を目にしたし、しばらくは誰にも会いたくない。
「お前の好きなところに、運んでくれないか」
馬の首にそっと触れながら、小声でささやく。この格好をしているときは、たとえひとりきりであっても男言葉を使うことにしていた。どこで誰が聞いていないとも限らないから。
わたくしの言葉を聞いた馬は、考えるようにぱたぱたと耳を動かしていた。けれどやがて、軽やかな足取りで走り始める。
帰り道を頭に焼きつけながら、変わっていく景色を眺める。草原から森の中へ、さらに森の奥へ。
そこまで進んだところで、馬が足を止めた。頭を下げて、周囲に生えている丈の低い草をのんびりと食べ始めた。
馬から降りて、深呼吸する。
誰もいない森の中は、とっても居心地がよかった。自分の姿について、考えずに済むから。あるがままの自分でいられるような気がするから。
連れている馬も、美しい声で鳴いている鳥たちも、木々の間を舞う蝶も、誰もわたくしに注目していない。からみつくような視線も、じっとりとした噂話も、ここには存在しない。
「ああ、やっぱりひとりは、落ち着くな……」
耳を澄ませると、さらさらという水の流れる音が聞こえてきた。そちらに足を向けると、すぐに美しい小川に行き合った。水晶のように透き通る水に手を差し入れると、ひんやりとしていて心地いい。
喉を潤し、ゆったりと周囲を眺める。小川は少し先のほうで、大きな湖に流れ込んでいた。
せっかくだし、あの湖を見にいこうか。ぶらぶらと歩いていくと、離れたところから切羽詰まった声がした。
「すみません、そこのお方! どうか、助けてもらえませんか!」
しまった、人がいたのか。しかも、助けを求められるなんて、ついてない。仕方がない、ここは適当にやり過ごして、急いでこの場を離れよう。
ただ、今の声って、どことなく聞き覚えがあるような……。
嫌な予感を感じつつ、声がしたほうに向かってみる。大きな木の陰に、わたくしの身長ほどの小さな崖があった。
そのすぐ下で、柔和な雰囲気の青年が、困り果てた様子で岩に腰を下ろしている。どう見ても貴族にしか見えないその身なりとたたずまいに、背筋がそわりと冷たくなった。
貴族は、嫌いだ。いつもわたくしのことを笑うから。
でも、今さら逃げるわけにもいかない。そんなことをしたら、きっと後悔する。あの人はどうなったのだろうと、考えてしまう。
「……私を呼び止めたのは、君か。そんなところで、どうかしたのか」
必死に平静を装って、威厳たっぷりに問いかける。これまで、町の人たちに正体を見抜かれたことはないけれど……どうか、女性だとばれませんように。
すると青年は、心底ほっとしたように微笑みかけてきた。
「僕はレナード、湖の向こうにある屋敷で暮らしている者です」
この声、その名前。間違いない、彼は昨日、わたくしを追いかけまわした男性だ。まさか、こんなところで再会してしまうなんて。
冷や汗が、つうっと背中を流れていくのを感じる。顔がこわばりそうになるのを、必死にこらえる。
大丈夫だ、彼が知っているのはわたくしの赤い髪と、背丈だけ。わたくしの顔も声も、彼は知らない。そもそも、昨日のわたくしはまるで違ういでたちだった。
だから、彼がわたくしの正体に気づくはずがない。気づきようがない。どうか、気づきませんように。
心の中でこっそりと祈っていたら、レナードがじっとわたくしを見つめていることに気がついた。
「どうした、私の顔に何かついているのか」
緊張に声が上ずりそうになるのを偉そうな態度でごまかしつつ、さらに問いかける。
「あ、見つめてしまってすみません。知り合いに似ていると、そう思っただけなのです」
彼は謝罪の意を込めて、軽く頭を下げてくる。……その『知り合い』って、まさか。
「それはそうと、手を貸してもらえませんか? 足を痛めてしまって、動けなくて……」
わたくしが焦っていることには気づいていないのか、彼はしょんぼりとした様子で話し続けている。
「ひとりで遠乗りをしていたら、馬に振り落とされたんです」
「馬に振り落とされた? 蜂かアブでも出たのだろうか」
そういった虫に驚いた拍子に、馬が暴れることがあるのだと聞いたことはある。しかしレナードはきゅっと眉根を寄せると、小声で答えてきた。
「いえ、何も出ていません」
だったらどうして、そんなことになったのだろうか。首をかしげているわたくしに、彼は苦笑まじりに説明してくる。
「僕、見てのとおり少々弱そうなので、よく馬になめられるんです。兄たちには従順なのに、僕にはちょくちょくいたずらをしかけてきて……」
その言葉に、改めて彼の姿をじっくりと見てみる。確かに彼は、男性にしてはやや小柄で、さほどたくましいほうでもない。昨日見かけたジェイムズ様とは、まるで違う。
しかし、馬にちょくちょくいたずらをしかけられるなんて。なめられているという言葉で片付けていいものだろうか。まずは馬をきちんと叱るなり、しつけ直すなりするべきではないのだろうか。
どうもレナードは、柔和なのは見た目だけでなく、中身もらしい。かなり、男性らしくない。……女性らしくないわたくしが言えたことではないけれど。
「また馬が何かしかけてくるかなと身構えてはいたのですが、隙を突かれて受け身を取り損ねたんです」
……馬相手に、そんな駆け引きをしている人間がいるなんて、初めて聞いた。しかも、馬のほうが強いなんて。
「休んでいれば、足の痛みも落ち着くかと思ったんですが、駄目みたいです」
レナードはため息をついて、足首をさすっている。
話を聞いて、ちょっぴり後悔した。そういうことなら、放ってはおけない。彼が屋敷に戻れるよう、手を貸してやらなくては。比較的暖かい季節とはいえ、一晩中外にいたら風邪をひいてしまう。
とはいえ、具体的にどうしたものか。
彼の屋敷まで出向いて、迎えをよこしてもらうか。いや、よその家のものにこの姿を見られたくはない。昨日舞踏会に出てしまったばかりだし、わたくしがあの令嬢なのだと気づかれてしまうかもしれない。
ならば、わたくしがいったん屋敷に戻って、うちの使用人をここに送るというのは……やはり、駄目だ。レナードの家の者は、きっと使用人に尋ねるだろう。「礼をしたいのだが、君たちの主は誰だね」と。
だったら、わたくしの馬を彼に貸して、後日馬を返してもらう……いいえ、そうしたら彼に、わたくしがどこの家の人間かばれてしまう。
わたくしの正体を明かさずに、彼を屋敷に送り届ける。たったそれだけのことが、頭が痛くなるくらいに難しい。
考えに考えて、悩みに悩んで、ついに解決策を編み出す。ただそれは、どうにも勇気のいるものだった。
レナードから少しだけ視線をそらし、そろそろと切り出す。
「……君は、くら無しで馬に乗れるか」
わたくしの問いが予想外だったのか、レナードはきょとんとした顔で答えてきた。
「一応は」
「ならば、私の馬に乗れ。屋敷の近くまで運んでやる」
わたくしが連れてきている馬は、背はさほど高くないけれどがっしりとした、温和な子だ。レナードはそう重くなさそうだし、くらを外せば二人乗りもできるだろう。
「……ええと、ありがとうございます」
ほんの少しためらうそぶりを見せつつ、彼は軽く頭を下げた。ひとまず手を差し出して、立たせてやる。
思っていた以上に、彼は小柄だった。いや、わたくしの背が高すぎるのか。すぐ近く、軽く視線を上げたところに、彼の目がきらめいている。
ついうっかり間近で殿方の顔を見てしまったことに、動揺してしまう。ぷいと顔をそらして、短く言った。
「こちらだ。行くぞ」
わたくしの腕にかけられたレナードの腕は、けれど思いのほかがっしりとしていた。緊張に肩がこわばるのを感じつつ、馬がくつろいでいるところまで向かっていく。
いったんくらを外して地面に置いてから、レナードを馬の背に押し上げる。続いて自分も、彼の後ろに乗った。
……覚悟はしていたけれど、近い。男同士ならこれくらい普通にあることなのだと言い聞かせてみても、心臓が大暴れしている。
平常心だ。怪しまれるな。そう自分に言い聞かせつつ、馬を走らせる。馬はまるでわたくしの気持ちをおもんぱかってくれたかのように、まっすぐに、素早く走ってくれた。
「ああ、あそこです」
湖を回り込んでいったら、やがて遠くに屋敷が見えてきた。レナードが声を上げ、そちらに顔を向けている。
「ここからは、歩いていけるな?」
「はい、なんとか。本当に助かりました」
慎重に彼を馬から降ろしたそのとき、向こうから白馬が一頭、のんびりとした足取りで近づいてきた。もしかしてあれが、彼を振り落としたという馬だろうか。
馬はレナードの前までやってきて、高くいななくと……笑った。間違いなく、笑った。
なるほど、本当になめられている。けれど、案外仲はいいのかもしれない。
「ああ、迎えにきてくれたのか。助かったよ」
レナードは気にしていない様子で、するりと馬の背にまたがった。
「それでは、ありがとう!」
そうして彼は、わたくしに向かって朗らかに笑いかけてくる。そのまま、手を振りながら屋敷のほうへと走り去っていった。
小さくなっていくその姿から、なぜか目が離せなかった。




