07 輝き
しばらくして午後の二時に至ると、館内が暗くなってアナウンスが流され始めた。
客席は、三分の一ていどが埋められている。トップバッターはキッズコースの子供たちであるという話であったので、関心の薄い人間は表で歓談しているのだろう。俺たちもイベントの途中で退席するつもりであるのだから、それに文句をつけることはできなかった。
俺たちは無理なくステージの全体を見渡せるていどの位置を選んで、右寄りの座席に陣取っている。座席の通路は幅がせまいため、松葉杖の親父が中央まで出向くのは難儀であったのだ。あとはステージのアイリスの配置が左寄りでないことを祈るばかりであった。
公演中の注意事項とキッズコースのチームを紹介するアナウンスが終了すると、ステージを隠していた幕が開かれて、歓声と拍手が鳴り響く。
そこにいきなり小粋な音楽が鳴り響き、ステージの左右から子供たちが飛び出してきた。
子供といっても、小学生高学年から中学生ぐらいであろう。ずいぶん小柄な女の子も入り交じっていたが、動きの軽やかさは見事なものであった。
ステージ衣装は統一されておらず、みんなTシャツやカーゴパンツなどの身軽な格好で、中には髪を明るく染めている子供もいる。人数は十名で、その内の三名が男子であった。
やはりダンスというものは、女子のほうが盛んであるのだろうか。俺の頼りない知識においても、小学生から高校生の間でダンスに夢中になるのは女子が主流であるイメージであった。
これは何というジャンルであるのか、音楽からして耳に馴染みのない代物だ。
ただ、自然に身体が揺れるような心地好いリズムで、子供たちの動きもしっかり同調しているように感じられた。
これだけのパフォーマンスを見せるには、ずいぶんな稽古が必要になるのだろう。
こんなに小さな子供たちが、どうしてそうまでダンスに魅了されたのか、いっそ不思議に思えるほどであった。
(だけどまあ……いちいち自分と比べるのもアレだけど、俺も子供の頃から料理にしか興味がなかったもんな)
ただしそれが本格化したのは、小学生の中学年になってから――七歳で母親を失い、一年がかりでその悲しみを乗り越えた後のことである。それまでは親父が働く姿を眺めたり、時おり皿洗いを手伝ったりするぐらいで、そうまで調理に関わっていたわけではないのだ。
当時の俺が何をどのように考えていたのかは、あまりはっきりと思い出せない。
ただ俺は、もっと母さんの手料理を食べたかったという痛烈な思いを抱いており――さらにそこに、自分の料理を母さんに食べてもらいたかったという思いが入り交じったのだった。
もちろん現在の俺は、そんな感傷だけで厨房に立っているわけではない。
母さんに俺の料理を食べてもらうのは、命日だけで十分だ。それで俺は家族に対するのと同じぐらいの心持ちでお客に料理を出すようにと、親父に言い聞かせられたのだった。
(何かに夢中になるきっかけなんて、人それぞれだ。それよりも、どれだけ夢中になれるかだよな)
子供たちのダンスを保護者のような心持ちで見守りながら、俺はそのように考えた。
すると、三分ていどの時間が過ぎたところで、子供たちがステージの左右にはけていく。その間も景気のいい音楽は鳴り続けており、そこに新たな子供たちが登場した。
今度は小学生から中学生までの女子だけで固められた、六人組だ。
二人はちんまりとした小学生、四人はほっそりとした中学生という組み合わせで、その全員がアイリスと同じデザインのキャップとTシャツを身に纏っている。どうやら三つのダンススクールの生徒たちが、連続でダンスを披露するようであった。
こちらは先刻のチームよりも、いっそう激しいアクションである。
まだ十歳ぐらいにしか見えない小学生のコンビも、躍動感ではまったく負けていない。明るい栗色の髪をした女の子などは、くるくると回転するネズミ花火のような華やかさと軽やかさであった。
もちろん技術的にはまだまだ未成熟なのであろうが、俺には逆立ちしたって真似できない芸当だ。遊び盛りである彼女たちがこれだけの技術を身につけるためにどれだけの労力をかけたのかと思うと、俺は胸が熱くなってしまった。
(やっぱりどれだけ畑違いでも、何かに熱心になる人間っていうのは好感が持てるよな)
それに俺は、親父ほどスポーツ観戦に興味を持てない。野球であれボクシングであれ、そんなに長い時間を費やして観戦することに大きな意義を見いだせないのだ。そういう意味では、数分で終わるダンス観戦のほうが性に合っているのかもしれなかった。
(って、そんな風に考えるのは野暮ってもんか)
やがて六名の少女たちも引っ込んで、今度は三名の少女たちが現れる。こちらは色とりどりの衣装で、おそろいのスカーフを首に巻いていた。
こちらはさらに熟練度が高く、大人顔負けのアクションである。
三人の動きに若干のバラつきが感じられたが、ひとりひとりは大層な躍動感だ。これこそ、中学生離れした身体能力であった。
そして最後はこれまでのメンバーも全員集合して、十九名がかりのダンスが披露される。それではもはやひとりずつの動きを目で追うことも難しかったが、華やかであることに間違いはなかった。
トータルで十分少々のステージを終えて、少年少女たちは最後にお行儀よく一礼する。
温かい歓声と拍手の中、しずしずと幕が閉められた。
「いやー、キッズコースっていっても大したもんだねー。あたしも子供ができたら、ダンスを習わせちゃおっかなー」
「ふん。その前に、まずは旦那をとっつかまえないとな」
「そうだねー。あすたちゃんを見習って、あたしも婚活しよっかなー」
「や、やめろよ、馬鹿。あれは、お前の立てた作戦だろ」
「ぬっふっふ。結果的に、あたしがキューピッド役になりそうだねー。仲人だったら、いつでも引き受けるよー」
俺はチラシを筒状に丸めて、悪戯な幼馴染の頭をぺしんと引っぱたくことにした。
その間に、新たなアナウンスが流される。ゆったりとした女性の声で、ダンススクール『ナハシュ』の初級者チームによるステージであると紹介された。
いよいよ、アイリスの出番である。
俺が息を詰めていると、再び幕が開かれた。
今回は、すでにダンサーたちがスタンバイしている。
人数は七名で、アイリスは――幸運の女神のはからいで、右端に陣取っていた。
ステージの照明も暗くしぼられており、七人の姿は黒いシルエットと化している。
しかし、俺がアイリスのしなやかなシルエットを見間違えることはなかった。
七名が人形のように固まっている中、重々しい電子音のリズムが鳴らされる。
そうして野太い歌声やらシンセサイザーやらの音が爆発すると同時に、スポットライトと七名のダンスも爆発した。
いきなりの激しいアクションに、俺の心臓は痛いぐらいに揺さぶられる。
そして俺の目は最初から、アイリスの姿に釘付けにされていた。
七名のダンサーは真ん中のひとりを頂点として、三角形のポジションを形成している。右端のアイリスはもっとも奥まった位置取りであったが、それでも俺の目にはアイリスの姿がひときわくっきりと焼きつけられた。
激しい音楽に合わせて、アイリスは全身を躍動させている。
やはり、どういったジャンルであるのかはわからない。ただ、アイリスは家での練習でいつもイヤホンを使用していたので、音楽に合わせて踊る姿を目にするのはこれが初めてのことであった。
そしてその事実が、俺の心をいっそう打ち震わせているのだ。
ダンスの基盤となる音楽が鳴らされることで、アイリスの鮮烈さが倍増したのである。
無音の中で踊るアイリスも十分に鮮烈であり、美しかった。しかしそれは、音楽に合わせた動きであるのだ。激しいビートとシンクロすることで、アイリスの躍動に確かな意味が備わったのだった。
なんだか俺は、視覚で音楽を聴いているような心地である。
あるいは、聴覚でアイリスの躍動を体感しているような――ともあれ、俺の感動と衝撃は倍増していた。
アイリスの動きは炎のように激しく、水のようになめらかで、風のように鋭い。そのバランスがどんどん変動していくことで、無限の鮮烈さが体現されるのだ。
この距離では、アイリスがどのような表情をしているのかもわからない。
ただその青い瞳はこれ以上もなく明るく輝き、生きている喜びを爆発させているはずであった。
そしてその思いは、アイリスの全身からも絶え間なくほとばしっている。
アイリスは人の形を取ったエネルギーそのものであり、俺はそのうねりと輝きに心を翻弄されるばかりであった。
それからどれだけの時間が経ったのか、七名のダンサーたちは激しく躍動しながら立ち位置を変えていく。
そうして左側の二列目に陣取っていた女性がセンターに移動すると、その人物だけがとりわけ荒々しいアクションを見せた。
残る六名も躍動は止めぬまま、水のようななめらかさを強調している。これは明らかに、ひとりだけ激しいビートを刻んでいる真ん中の女性の見せ場であった。
ただしそれはほんの数秒で終了し、また七名は立ち位置を変えていく。
そしてまた、別なる女性が先刻とは趣の異なるアクションを見せた。
つまりは、七名の全員に見せ場が与えられるということなのだろう。
このローテーションでいくと、アイリスの出番は最後から二番目ということになる。それまでの十数秒が、俺は待ち遠しくてならなかった。
ただ俺は、その時間に新たな発見をすることができた。
ひとりがソロの見せ場を演じている間、アイリスは他なる五名とともにひっそり気配を殺していたのである。
あれほどに鮮烈であったアイリスが、影のように裏方に徹しているのだ。
その美しさには変わりもないのに、アイリスは他の五名と完全に同調している。その事実が、俺の心臓を別の方向から揺さぶった。
アイリスは、ただがむしゃらに生命力を爆発させているわけではない。あれだけの熱情にとらわれながら、きちんとチームの一員として振る舞っているのだ。『つるみ屋』で働く彼女と同じように、ステージ上の彼女はこれっぽっちも孤独ではなかった。
(やっぱりここが、君の居場所なんだ……君の邪魔立てをするなんて、肉親だって許されないよ)
俺は何だか感極まって、涙をにじませてしまう。
そんな中、ついにアイリスの順番が巡ってきた。
これまで影として振る舞っていたアイリスが、そのぶんまで生命力を爆発させる。
その八割は燃えさかる炎のごとき荒々しさで構成されており、一割ずつのなめらかさと鋭さが彼女ならではの魅力を完成させている。ダンスに何の造詣も持たない俺には、そんな風に感じられた。
こんな遠目でも、アイリスの指先にまで生命力がみなぎっているように感じられる。
ドスのきいたラップの歌声も、ヒステリックなシンセサイザーの音も、重々しい電子音のビートも、アイリスのアクションのひとつひとつと奇跡のような調和を見せていた。
アイリスの褐色の肌も、燃えあがっているかのように光り輝いている。
青い瞳も猛烈に輝き、残像が尾をひいているのではないかと錯覚するほどだ。
宙に弾け散る汗の一滴ずつにまで、アイリスの情念があふれかえっているように感じられた。
ほんの数秒のソロタイムであったはずなのに、俺は無限の時間の中でアイリスの猛威にさらされたような心地である。
そうしてアイリスは流星が少しずつ塵に還っていくように輝きを弱めつつ、横合いに退いていった。
最初にセンターであった女性がもとのポジションに舞い戻り、最後のソロタイムを披露する。その動きも生ける竜巻のように鮮烈そのものであったが、俺は影と化したアイリスのほうに心を奪われていた。
その後は七名全員が遠慮なく躍動し、それでいっそう俺の心臓が脅かされる。
そうして最後は鉈で断ち切られたかのように音楽が消失し、それと同時にアイリスたちも石像と化したかのように静止した。
照明がしぼられて、七名の姿はまた黒いシルエットと化す。
これまで以上の拍手と大歓声の中、幕がしずしずと閉められていった。
「アイリスちゃん、すごかったー! ていうか、これで初級者チームだなんて信じられないよー!」
「まったくだな! 素人の俺でも、震えるような迫力だったよ!」
玲奈と親父も盛大に手を打ち鳴らしながら、はしゃいだ声をあげている。
俺は声を出す気力もなく、ぐったりと椅子にもたれかかったが――そうすると、拍手の隙間から奇妙な声が聞こえてきた。
「……なるほどな」
それはいくぶんかすれた低い声音であったのに、妙にまざまざと俺の鼓膜を震わせた。
俺が半ば無意識の内に声があがった方向を振り返ると、空席をひとつはさんだ左側に見慣れない人物が座している。
限りなく黒に近いブラウン系のスーツを纏った、初老の男性だ。
頭にはスーツと同色のハットをかぶっており、そこから金色と銀色が入り混じった髪がこぼれ落ちている。淡いブラウンのサングラスをかけており、その奥の目は鋭く細められていた。
俺が目にしているのは横顔であるが、びっくりするぐらい彫りが深い顔立ちだ。額と鼻が高くせり出て、そのぶん目もとが落ちくぼんでいる。頬は鋭角に削げており、尖った下顎には髭の剃り跡もなく、びっくりするぐらい色が白かった。
とっさに初老と判断したが、実のところは年齢の見当がつけられない。ただ、頭が白髪まじりであることと、白い肌に細かいひび割れのような皺が走っていることと――そして、得体の知れない威圧感が、年古りた老木のごとき気配をかもし出していた。
サングラスのせいで瞳の色はわからないが、明らかに異国の生まれであろう。
その事実が、俺の心臓をどくどくと高鳴らせた。
「もしかして……ギルバートさんですか?」
俺が小声で呼びかけると、彼は正面を向いたまま目だけで俺をねめつけてきた。
サングラス越しでも、刃物のような眼光である。俺は何だか、巨大な爬虫類ににらみつけられたような心地であった。
「初対面の人間にファーストネームで呼ばれるのは……いささかならず、不快なものだ」
その薄い唇から、まったく抑揚のない言葉が紡がれる。
それはやっぱり、人語を解さない爬虫類か何かが無感情に台本を読みあげているような風情であった。
「す、すみません。それじゃあ、ヴォルゴードさんと言い直します」
俺は、そのように確信していた。
この人物とアイリスでは、似たところなどひとつもなかったが――ただその存在感の鮮烈さだけは、完全に一致していたのだ。
「素顔を隠した人間と言葉を交わすのは……いささかならず、不快なものだ」
横目の眼光にも平坦な口調にも、いっさい変化は見られない。
俺は心も定まらないまま、口もとのマスクをひっぺがした。
「これでいいですか? ……あなたも娘さんの晴れ舞台を観に来てくださったんですね」
よくよく見ると、彼のふたつ向こう側の席には磐田が陣取っており、彼の前後の席にはダークスーツの男たちが座していた。
「あらためまして、俺は津留見明日太です。お会いできて、嬉しく思っています」
俺がそのように語りかけると、アイリスの父親は同じ姿勢のままほんの少しだけ目を細めた。
「君は、私とあれが直接語り合うべきだと主張していたと聞いている……しかし、君自身が私に面会を求めていたとは聞いていない」
「はい。それでも今回の一件は、俺にとっても他人事ではなくなりましたからね。あなたがどんな人なのかも気になっていましたし――」
「私は、君の好奇心を満たすために来たわけではない……私は、君に質問をするために時間を作った」
俺の言葉をさえぎって、アイリスの父親はそう言った。
「君は本当に……あれと結婚をしてまで、自分の手もとに置こうというつもりであるのか?」
「手もとに置くというのは、ちょっとニュアンスが違いますね。彼女の夢をかなえるためなら、結婚でも何でもしてみせると覚悟を固めたんです」
「夢……プロダンサーになりたいなどという、馬鹿げた夢か」
「ええ、そうです。でも、父親だからって人の夢を馬鹿にする権利はないと思いますよ」
俺は冷静に、言葉を返すことができた。
この人物のもたらす威圧感が、俺の心を極度の緊張に追い込んでいるのだ。それでいい具合に、内なる熱情とのバランスが取れたようであった。
「……いまだ親の庇護下にある人間に、偉そうな口を叩かれる覚えはない」
そんな風に語りながら、アイリスの父親は右手を懐にもぐらせる。
それで俺も、ポケットの中の催涙スプレーに手をのばしたが――そこから取り出されたのは、小さな包みに過ぎなかった。
おそらくは、上等なハンカチか何かだろう。
黒い革の手袋に包まれた指先が、その包みをゆっくり広げると――その内側に隠されていたのは、アイリスのぶすっとした顔がプリントされた身分証と、如何にも高級そうな印鑑ケースであった。
「どうした……受け取りたまえ」
「こ、これはつまり、彼女の独り立ちを認めるということですか?」
「……それが君たちの結婚を回避する条件であったはずだ」
俺は息を詰めながら、ポケットから出した右手でその包みを受け取った。
それと同時に、アイリスの父親はふわりと立ち上がる。なんだか、西洋の幽霊じみた挙動であった。
「では、失礼する……くれぐれも、約定を違えないように」
「ま、待ってください。彼女と話していかないんですか?」
俺が慌てて声をあげると、アイリスの父親はまたほんの少しだけ目を細めた。
「君は……あれの幸福を願っているのではなかったか?」
「え、ええ。それはその通りですけど……」
「この場で私が面会したならば……喜びの絶頂にあった気分も、地に落ちることだろう。それで私とあれの関係に、いっそうの亀裂を入れてやろうという目論見か?」
「あ、いえ、決してそんなつもりでは……」
「……そんな愚劣な策には乗らん」
そうしてアイリスの父親は三名の護衛役に囲まれながら、立ち去っていく。
俺が背後を振り返ると、玲奈と親父がきょとんとしていた。
「えーと……つまり、問題は解決したのかな?」
玲奈が小首を傾げつつ問いかけてきたが、もちろん俺にも答えようはない。
ただ、俺の手もとに残された小さな包みから、判断を下すしかないようであった。




