06 開催の日
そして二日後の、土曜日――アイリスが出場するイベントの当日であった。
その日は玲奈も昼の営業に参加して、定刻よりも一時間早い午後の一時に閉店とする。そうして俺と親父が適当な服に着替えて店を出ると、玲奈が車を回してくれた。
「さあ、乗って乗ってー! 地獄のドライブの始まりだよー!」
「そいつはちょいと、シャレにならねえなぁ」
玲奈は高校三年生で進路が決まると同時に教習所に通い始めて、運転免許証を手にしたのである。母親から借り受けたという軽ワゴン車には、初心者マークが燦然と輝いていた。
親父は右足をのばさなくてはならない都合から後部座席を占領するため、俺は助手席にお邪魔する。俺たちがシートベルトをしめると、玲奈はなかなかのなめらかさで車を発進させた。
「おお、さすが玲奈ちゃんは、なんでも器用にこなすもんだな! うちのボンクラとは大違いだ!」
「うるせえな。同じお荷物がでかい口を叩くんじゃねえよ」
「俺だって、免許ぐらいは持ってるからな! ま、運転の仕方なんざすっかり忘れちまったけどよ!」
俺も親父も『つるみ屋』にこもる日々であるため、車の運転とは無縁であるのだ。子供の頃は二家族合同で出かける機会も多かったが、津留見家の人間はいつもお世話になる側であった。
「十キロていどのドライブなら、あたしの集中力もぎりぎりもつはずだからさ! 大船に乗ったつもりで、くつろいでねー!」
「心配させたいのか安心させたいのか、はっきりしやがれ」
俺が苦笑まじりの言葉を返すと、玲奈は「あはは!」と楽しげに笑った。玲奈も親父も、なんだか遠足ではしゃぐ子供のようだ。もしかすると俺と同様に、懐かしき家族旅行のことを思い出しているのかもしれなかった。
本日のイベントが開催されるのは市内のとある公園内にある文化ホールという場所で、『つるみ屋』からは車で三十分ほどかかるらしい。公共の交通機関を使うと電車とバスを乗り継ぐ上に時間もさらにかかるので、初心者ドライバーたる玲奈が名乗りをあげてくれたわけであった。
「いやー、それにしても、楽しみだねー! アイリスちゃん、かっこいいんだろうなー!」
「そりゃあまあ、明日太が毎日覗き見するぐらいだからな。よっぽど色っぽいんだろうよ」
「うるせえって言ってるだろ。あのコのダンスを茶化したりしたら、ぶっとばすからな」
俺は照れ隠しに雑な言葉を返したが、親父がアイリスの努力を茶化したりすることはないだろう。ただ親父は俺を茶化すためであれば心にもないことを口にするという、厄介な人柄であるのだった。
ともあれ、俺もアイリスのダンスは楽しみでならない。俺が毎朝のように見物しているのはあくまで稽古であるのだから、本番はどれほどの出来栄えであるのかと期待をかきたてられてならないのだった。
(……ただその前に、厄介ごとを片付けておきたかったところだけどな)
磐田は二日前に接触を試みてきたが、それ以降はお決まりの定時連絡しかよこさなかった。『つるみ屋』で語らってから今日で五日目であるというのに、けっきょく何も進展していないのだ。アイリスの父親は、よほど心を決めかねているようであった。
(まあ、まさか今日のイベントにちょっかいをかけたりはしないだろうけど……そんな真似をしたら、俺だって黙っちゃいないぞ)
俺はワークパンツのポケットに、催涙スプレーを忍ばせている。もしもおかしな真似をするような人間が現れたら、これで撃退して警察に突き出してやろうという覚悟であるのだ。
ただ俺は、磐田であればそのような真似をすることはないだろうという心持ちになっていた。彼が見せたほのかな人間らしさに、すっかりほだされてしまったようであるのだ。
ただし磐田はアイリスの父親に絶対的な忠誠心を持っているという話であったし、いまだ顔をあわせてもいないアイリスの父親に対しては信用のしようがない。それで俺は大きな期待の裏側にひそかな不安をへばりつかせたまま、今日という日を迎えたわけであった。
そうして三十分ていどで、軽ワゴン車は無事に目的地に到着する。
公園内に文化ホールが存在するというのは今ひとつ理解しかねていたのだが、どうやら俺が想像していたよりも遥かに立派な施設であるようだ。駐車場もずいぶんな広大さであり、園内マップには博物館や野球場や陸上競技場などという名が連ねられていた。
「文化ホールは、あっちだねー! いざ出陣!」
頼もしい玲奈の先導のもとに、俺たちは舗装された通路を前進する。
ついに七月に突入して、いまだに梅雨明け宣言はされていないものの、本日は快晴だ。通路を進んでいくと横手に大きな広場が現れて、そちらでは子供や老人や家族連れの人々が牧歌的な光景を織り成していた。
すでに初夏の風情であり、陽光も明るくきらめいている。
フライトキャップに顔の下半面を隠すポリエステルのマスク、タートルネックのインナーウェアの上に長袖のワークシャツを着込んだ姿では、いささかならず暑苦しいところであった。
「おー、なかなかの人出みたいだね!」
目的の地に到着すると、玲奈が弾んだ声をあげた。
文化ホールとやらはちょっと古めかしいデザインをした三階建ての建物で、その手前には幅の広い階段が設えられている。その階段の手前に広がる前庭のような空間に、けっこうな数の人間がひしめいていた。
身内の発表会と言うには、ずいぶんな規模のようである。
ただ、アイリスのように派手なファッションをした若者もいなくはなかったが、それ以上に家族連れや質実そうな身なりをした男女の姿が数多く見受けられた。
「トップバッターは、キッズコースのチームだって言ってたもんね。そっちはまさしく、発表会って感じなのかなー?」
「さてな。ダンスなんて門外漢だから、俺にはさっぱりだよ」
ただ、明るくアットホームな雰囲気であるのはありがたい限りである。これならば、俺や親父が悪目立ちすることもなさそうだった。
(まあ、親父はともかく、俺は立派な不審者だろうけどな)
こんな陽気で目もとしかあらわにしていない人間は、この場で俺ひとりであろう。いくぶん気が引けた俺は、フライトキャップを外して尻のポケットにねじこむことにした。強風でも吹かない限りは、溶け崩れた右耳が衆目にさらされることもないのだ。ただし、耳が隠れるていどの中途半端な長髪にした俺は、十分に陰気で胡散臭いはずであった。
「もう開場してるみたいだから、入っちゃおっか?」
玲奈の提案で、俺たちは早々に入場することにした。
建物前の階段はそれなりの段数であったが、十メートル以上の幅であるため親父もひょいひょいと危なげなく昇っていく。俺はいちおう親父の背後に陣取ったが、自分よりも大きな図体をした親父の転落を受け止めることなく乗り越えることができた。
入り口はガラス戸が開放されており、受付のカウンターがいくつか設置されている。身内の発表会なれども、いちおうひとりにつき二千円の入場料が発生するのだ。アイリスは恐縮していたが、これで彼女の初ステージを目にできるのであれば安いものであった。
そうしてアイリスから受け取っていたチケットを差し出すと、半券を千切られた上で、何かチラシのようなものが一緒に手渡される。きっと広告として使われていたものなのだろう。大写しにされているのは如何にもダンサーらしいファッションをした男女であったが、それ以外にもアラビアンな民族衣装を纏った女性の姿もちりばめられていた。
「おー、これはベリーダンスってやつかなー? ヒップホップとかにまじってると、なかなかカオスだねー」
「へえ。お前はダンスにも詳しいのか?」
「いやいや! アイリスちゃんのおかげでちょっと興味が出てきたけど、奥が深すぎて把握しきれないねー。ヒップホップやジャズダンスぐらいは聞いたことあったけど、ジャズヒップホップだとかヒップホップジャズだとか言われたら、もうお手上げだよー」
「うわははは! なんだか早口言葉みたいだな! まあ、ニラレバかレバニラかみたいなもんか!」
俺は親父の馬鹿笑いに溜息を誘発されたものの、ダンスに対する理解度においては同程度である。なおかつ俺は、そうまでダンスの知識を補強しようという気にはなれなかった。
(料理の名前がわからなくったって、美味いもんは美味いもんな。アイリスのダンスはすごいんだから、ジャンルだの何だのはどうでもいいさ)
俺が内心で独りごちていると、玲奈がチラシで大写しにされている女性のひとりを指し示した。
「でね、これがアイリスちゃんの尊敬する先生だよー。お泊り会のとき、あたしのスマホでライブ動画を観せてもらったんだー」
それは黒ずくめでオーバーサイズの衣装を纏った、妖艶なる美人であった。無地で真っ黒のキャップをかぶっており、そこからちりちりの髪がこぼれ落ちている。衣装の黒さが肌の白さを際立たせており、無造作に立っているだけでも人の目をひきつける吸引力を備え持っていた。
「アイリスちゃんは写ってないんだねー! 残念!」
「そりゃああのコは、急遽出場が決まったんだからな。こんなチラシは、とっくに完成してたんだろうさ」
そうして俺たちがロビーを抜けて立派な扉をくぐると、立派な客席が待ち受けていた。
これはいわゆるコンサートホールというものであるのだろうか。備え付けの座席はざっくり五百以上の数であったし、さらに頭上には二階席まで設えられていた。
照明はしっとりとした加減であり、広大な客席にちらほらとお客が座っている。表で歓談している人々が入場しても、満席になることはないだろう。ただやっぱり、俺が想像していたよりは遥かに大規模なイベントであるようだった。
「ここにも書いてあるけど、三つのダンススクールの共同開催なんだねー。二時から五時半まで三時間半もやるんだから、けっこうなボリュームなんじゃない?」
「ああ。でも、こっちは商売があるからな。適当なところで、退散させてもらおう」
俺がそのように答えたとき、いきなり背後から熱気の塊にのしかかられた。
それと同時に甘い香りが俺の鼻腔に忍び入り、その正体を知らせる。アイリスは俺の肩を抱きながら、「よっ」と明るい声を発した。
「思ったより早かったじゃん。今日はマジで、わざわざありがとね」
「いいんだよー! あたしたちも、めっちゃ楽しみにしてたからね!」
玲奈と親父は楽しげに笑っているが、俺はそれどころではない。肩やら腕やら背中やらに跳ね上がる熱くてやわらかくてしなやかな感触に心臓を脅かされながら、俺は「お、おい」と上ずった声をあげた。
「い、いきなりどうしたんだよ? そんな、べたべたひっつくなってば」
「んー? 結婚を誓った身で、みずくせーこと言うなよ」
「け、結婚を誓ったわけじゃないだろう? それにここは、人目もあるし……」
「ふんふん。人目のないとこなら、かまわねーってことか」
アイリスは小気味よさそうに咽喉で笑ってから、するりと身を離した。
「わりーわりー。本番が近いから、あれこれ持て余してるんだわ」
アイリスはポケットに両手を突っ込みながら、にっと白い歯をこぼした。
今日は普段と異なる黒いキャップに黒いTシャツで、足もとも小綺麗なだぼだぼのスウェットパンツだ。ただし、Tシャツの裾をしぼって結びあげているため、引き締まった腹部は剥き出しであり、胸の形もくっきりあらわにされていた。
「おー、かっちょいー! それがチームのコスチュームなの?」
「うん。キャップとTシャツは、買い取らせてもらおっかな」
そのキャップとTシャツに刺繍やプリントをされている『Nahash』というのが、ダンススクールの名称であるのだ。尊敬するダンサーが責任者を務めるスクールの衣装を纏ったアイリスは、いつも以上に晴れがましい表情であった。
そのすらりと引き締まった肢体からも、すでに熱気がたちのぼっている。というよりも、ほんのついさきほどまでその熱気が俺の胸を騒がせていたのだ。そうして生命力がこぼれおちるほどに、アイリスの魅力も増幅された。
「あたしらの出番は、二番手だからさ。やっぱ今日は、五時までに帰っちゃうの?」
「うん。こっちも仕事があるからね」
「んー。ほんとは先生のステージも観てほしかったけど、仕事じゃしかたねーよなー。てか、あたしも仕事をまるまる休むのは初めてだから、なんか落ち着かねーよ」
イベントの後には交流会を兼ねた打ち上げがあり、アイリスは参加するべきか大いに思い悩んでいたのだ。それを俺たちが三人がかりで後押ししたわけであった。
「君にとってはダンスが本業になるんだから、そっちを優先するべきだよ。こっちの仕事は明日も明後日もあるんだし、何も気にすることはないさ」
「ん。ま、そーだよな」
アイリスは俺の顔を見つめながら、また笑った。
普段の力強さと滅多に見せないあどけなさがブレンドされた、俺が初めて見る表情だ。それでまた、俺は心臓を高鳴らせることになった。
「じゃ、準備があるから、もう行くわ。その後もあれこれ雑用があるんだけど、スキがあったら抜け出すよ」
「その気遣いだけで、十分だよ。あくまで、そっちを優先でね」
「わかってんよ。まだ結婚もしてねーんだから、保護者ぶるなっての」
「まだ」という部分を必要以上に強調しつつ、アイリスはくるりときびすを返して立ち去っていった。
今のアイリスは、父親のことも磐田のことも頭にないようだ。彼女はそれほどまでに、ダンスというものに熱情を傾けているのだった。




