05 接触
それからしばらくは、平穏に時間が過ぎ去っていった。
ただ日に一回は、磐田から電話の連絡が入っている。現在アイリスの父親と協議中であるため、くれぐれも軽はずみな真似はしないように――という内容である。どうやらあちらにしてみても、絶対に俺とアイリスを結婚させてはならないという思いであるようであった。
そしてそれこそが、玲奈の狙いであったのだ。そうまでアイリスに執着する父親であれば、勢いまかせで結婚することなど許せるはずがないだろうという分析であった。
「で、そんな真似をされるぐらいだったら、独り立ちを認めてあげようって妥協するかもしれないじゃん? あっちは食中毒なんてチラつかせてきたんだから、こっちはそれ以上のインパクトをお返ししないとねー」
小動物のように可愛らしい顔で笑いながら、玲奈はそんな風に言っていた。おそらくは、玲奈も腹の中では激烈に怒り狂っていたのだ。ようやく再建がかなった『つるみ屋』に悪さをするような連中を、玲奈が許すわけもなかったのだった。
いっぽう、アイリスである。
ひとまず磐田を撃退した日の夜、アイリスはまたシャワーを浴びた直後の魅惑的な姿で俺の寝室を訪れた。
「あのさ、お守り代わりに、こいつを持っておいてよ」
そんな可愛い言葉とともに差し出されたのは、得体の知れないスプレー缶である。
ちんまりとした可愛らしいサイズであったが、真っ黒のパッケージが何やら不穏な雰囲気をたちのぼらせていた。
「えーと、これはどういう品なのかな?」
「催涙スプレーだよ。どんなデカブツでもこいつをくらえば、悪さはできねーだろうからさ」
「いやいや。俺が襲われるようなことにはならないはずだって話じゃなかったっけ?」
「うん。クソ親父はクソだけど、邪魔な相手を暴力で排除するような人間ではねーと思う。あいつの目的は、相手を精神的に屈服させることだからさ。……でも、クソ親父のコントロールから外れるポンコツ野郎がいたら、やばいじゃん? そんな風に思ったら、ちょっと心配になっちゃってさ」
確かにアイリスは、とても心配そうな眼差しになっている。
それで俺も、その不穏な品を受け取ることになってしまった。
「わかったよ。でも、君はこんなものを持ち歩いてたんだね」
「うん。いきなりあんたにぶちまけたりしないで、本当によかったよ」
そういえば、俺はアイリスと出会った初日、父親の手下ではないかと疑われていたのである。
俺がその懐かしき思い出を反芻していると、アイリスは可愛らしくもじもじとした。
「あー、なんかコレだけじゃ心配だなー。ついでに、護身術も教えておこっか?」
「え? 君はそんなものまで習ってたのかい?」
「うん。誘拐の用心だとか何だとかで、ガキの頃にみっちり鍛えられたんだよ。後ろ暗い人間ってのは、用心深くなるんだろーね」
面白くもなさそうに言いながら、アイリスは剥き出しの肩をすくめた。シャワーを浴びた後なので、現在はもこもこ素材のハーフトップとショートパンツを身につけただけの姿である。
「あたしが習ったのは柔術由来の護身術で、ヒョロいあんたにも向いてるはずだよ。ちっと布団を敷いてくれる?」
「い、いやいや。布団の上で男女が取っ組み合うっていうのは、ちょっと控えるべきじゃないかなぁ?」
「エロいこと想像してんなよ。まあ、それはそれでいい予行練習になりそうじゃん」
「よ、予行練習って何だよ? 結婚は、あくまでハッタリだろう?」
「えー? いざとなったらマジで結婚しようって、ハラをくくってくれたんじゃねーの?」
と、アイリスはたちまちすねた顔になって口をとがらせる。
俺はどうしようもなく惑乱してしまったが、その場では何とかアイリスをなだめて事なきを得ることができた。
そんな具合に、時間は粛々と流れていき――あっという間に、二日が過ぎた。
アイリスと出会ってから、四度目の定休日である。その日もアイリスは昼過ぎにダンススクールに向かい、俺は厨房でひとり修行に励んでいた。
明後日の土曜日は、アイリスが出場するイベントの開催日であるのだ。
俺が予想していた通り、親父も玲奈も観戦に出向くと表明していた。また、アイリスの出番は午後の二時過ぎであったため、昼の営業を一時間だけ早く切り上げれば臨時休業にする必要もなかった。
こちらとしては、その楽しいイベントの前に決着をつけておきたかったのだが――この段に至っても、磐田からは定時連絡しか入っていない。
ただしあちらも『つるみ屋』を監視しているのであろうから、俺とアイリスが先走った真似をしていないことは承知しているはずだ。この二日間、俺とアイリスが二人で一緒に『つるみ屋』を出たことはなく、役場に足を向けることもなかった。
(それにしても、丸二日も音沙汰なしとはな。あのコの親父さんも、それだけ思い悩んでるってことか)
どうかそれがいい方向に転びますようにと祈りながら、俺はひたすら包丁を振るう。
そうしてそろそろ夕食の準備を始めようかと考えたとき、致命的な在庫切れを発見した。本日はハンバーグカレーにしようと決めていたのに、フェヌグリークというスパイスが尽きかけていたのである。こちらのスパイスは店のメニューでは使われていないため、俺が個人的に管理しなければならないのだった。
(ちぇっ、しくじったな。でもまあ、時間はたっぷりあるか)
アイリスが帰宅するのは午後の八時半であり、現在は午後の七時過ぎである。ハンバーグのパテはすでに仕上げているので、スーパーを往復する時間は残されていた。
「親父、ちょっとスーパーに行ってくるよ。ついでに買ってくるもんはあるか?」
俺が居間に踏み込むと、本日も親父はだらしなく寝そべってボクシングの中継を眺めていた。スポーツ観戦は、親父の唯一の趣味らしい趣味であるのだ。
「べつだん、思いつかねえな。ていうか、お嬢ちゃんになるべく外に出るなって言われてるんじゃなかったか?」
「たまにの買い物ぐらい、許してもらえるさ。そのために、催涙スプレーまでプレゼントされたんだからな」
「ふん。手前の目ん玉をつぶさねえようにな」
親父と雑な会話を交わしたのち、俺は調理着をワークシャツに着替えて、フライトキャップとマスクと指抜きグローブを装着した。
今日は朝から雨であったためか、外はすでに真っ暗である。今は雨もやんでいたが、俺はビニール傘を手に出陣することにした。
磐田たちはどこから『つるみ屋』を監視しているのか、まったくうかがえない。俺は隣の空きビルあたりがあやしいのではないかと踏んでいたが、わざわざ調べる甲斐はなかった。
(で、こういうときにも尾行されてるのかな。まあ、どうでもいいけどさ)
俺はポケットに突っ込んだ右手に催涙スプレーを握りしめながら、ぶらぶらとスーパーを目指す。
そうして目的の品を購入し、いざ帰路を辿ろうとしたとき――三日前と同じタイミングで、磐田が出現したのだった。
「やっぱり俺をつけてたんですね。そろそろ結論は出ましたか?」
「いえ。今日は個人的にあなたとお話をさせていただきたく思います」
ロボットのような無表情で、磐田はそう言った。
「個人的にですか? ちょっと不穏な気配を感じますね」
「ご心配でしたら、駅の構内は如何でしょうか? あれだけ人目があれば、おたがいに乱暴な真似はできないでしょう」
本日は、車の準備もないようである。
俺は少々迷ったが、この申し出を積極的に断る理由は思いつかなかった。
「わかりました。こっちも夕飯の支度があるんで、手短にお願いしますね」
「承知しました。それでは」
と、磐田は自ら先に立って駅の方角に歩き始める。
俺はいちおう周囲を見回したが、他にお仲間がひそんでいる気配はなかった。
(今日はこの人が俺をつけ回す当番で、そのチャンスを使って接触してきたってことなのかな)
そうして俺たちは、人で賑わう構内に踏み入った。
すでに午後の七時過ぎであるために、会社帰りの人間や夜遊びに出向こうとする若者でなかなかの賑わいだ。俺たちは、待ち合わせで使われそうなエスカレーター脇のスペースに立ち並んだ。
他に足を止めている人間はいないが、目の前にはひっきりなしに人が行き交っている。ここならば、俺が催涙スプレーを振るう事態にも至らないはずであった。
「それでは、率直に質問させていただきます。あなたは本当に、お嬢様とご結婚なさるおつもりなのですか?」
「ええ。ただそれは、最後の手段だと思ってますよ。こっちは彼女の独り立ちを認めてもらえたら、それで十分なんです。それが無理なら結婚してでも家に居残ってもらうしかない、ということですね」
「……あなたが出会って間もない相手にそうまで献身的な行動に出る理由をお聞かせ願えますか?」
「それはちょっと気恥ずかしいところですけど……俺は彼女の力になりたいだけですよ。彼女ぐらい魅力的な存在だったら、それも不思議な話ではないでしょう?」
「……あなたたちは、そうまで親密なご関係であられるのですね」
銀縁眼鏡の向こう側で、磐田の目が冷たく光る。
ここは、いささか慎重になるべき場面であった。
「少なくとも、俺は結婚することにためらいがないぐらい、彼女の存在に心をひかれています。ただ、必ずしも結婚することが最終目的というわけではありませんので……彼女の独り立ちを認めてくれたら、それで十分ですよ」
「では、お嬢様が新居で独り暮らしをされるという話でも、不満はないと仰るのですね?」
「ええ、もちろんです。ただ、彼女は父親からの資金援助を望んでいませんので、自力で資金を溜める時間を与えてあげてください」
「……それで本当に、不満はないのですね?」
「ええ。それでもきっと彼女はうちの店に食事に来てくれるでしょうし、俺も彼女がステージに立つ日には応援に行きたいと思っています」
磐田は首だけを真横に向けて、俺の姿を食い入るように見据えてきた。
「……それは、お嬢様を我がものにしたいと仰る以上に献身的な心持ちであるように感じられます。何があなたをそうまでさせるのでしょう?」
「だから俺は、彼女の力になりたいだけですよ。彼女が幸福でいてくれたら、俺も幸福な気分なんです。それ以上でもそれ以下でもありません」
「では……お嬢様が他の殿方と結ばれてもかまわないということでしょうか?」
その言葉は、とてつもない勢いで俺の胸を貫いた。
しかし、俺の中の答えは決まっていた。
「そうですね。そんなのは、想像するだけで胸が苦しくなってしまいますけど……そのときは、そのときです。俺は全力で強がって、彼女の幸せを祝福してみせますよ」
「……何故です?」と、磐田の言葉はどんどん短くなっていく。
しかしそれは、むしろ彼の人間らしさの発露であるように感じられた。
「なんだか、堂々巡りですね。俺は何度も同じ質問に答えていると思いますよ。……俺は彼女の望む通りに生きてほしいんです。それを支えながら見守ることが、俺の幸せなんです」
「…………」
「こっちも質問させてもらいますけど、磐田さんは彼女がダンスをしているところを見たことがあるんですか?」
俺の言葉がよほど意想外であったらしく、磐田は逞しい長身をほんの少しだけのけぞらせた。
「……いえ。そのような機会はありませんでした。それが、何だというのです?」
「ダンスをしている彼女は、本当に楽しそうなんです。きっと彼女はダンスをしているときが、一番満ち足りているんですよ。それを彼女から奪ってしまったら、彼女は彼女でなくなってしまうかもしれません」
「……それはまた、ずいぶん大仰な仰りようですね」
「ええ。俺だって、調理ができなくなったら生きている意味を見失ってしまうでしょうからね。俺たちは出会って一ヶ月ていどの関係ですけれど、その一点だけは理解し合えていると思います。だから、結婚してもいいなんて思い切ることができたんですよ」
磐田は、冷たい目をまぶたで隠した。
「残念ながら……あなたは本心で語っておられるのでしょう。あなたとお嬢様には何ひとつ似た部分もないように見受けられるのに、その目の輝きだけはとても似通っているように感じられます」
「あはは。それが残念なんですか?」
「ええ。これでは、お嬢様が二人に増えたようなものです。私ごときには、もはや解決のすべも見つけられません」
まぶたを閉ざしているためか、磐田はますます人間らしく感じられた。
「これ以上、あなたのお時間を拝借する甲斐はないでしょう。お忙しい中、私の個人的な都合で時間を作っていただき、申し訳ありませんでした。父君のお気持ちが定まるまで、もう少々お待ちください」
「わかりました。二人が無事に和解できるように、俺も祈っています」
そうして俺は磐田をその場に残し、ひとり『つるみ屋』に戻ることになった。
催涙スプレーを使うどころか、俺は妙な温もりを心の中に抱いている。磐田が垣間見せた人間らしさが、思いも寄らないほど俺の心を弾ませたのだった。
(なんていうか……こんな悪役みたいな役回りは、あの人に似合わないように思えるんだよな)
すると何だか、あの迫力満点の大柄な姿すら慕わしく思えてくる。
それはほんの少しだけ、正体の知れない懐かしさを帯びた感覚であった。




