04 奇策
その翌朝である。
午前の九時四十五分。津留見家の居間には、昨晩の四名――俺とアイリス、親父と玲奈が居揃っていた。午前十時に磐田から電話が入るということで、玲奈も朝から駆けつけたわけである。
「……こんな作戦で、マジでうまくいくのかなー」
アイリスが不貞腐れた子供のような顔でぼやくと、玲奈が元気に「うん!」と応じた。
「これで一気に全面解決とはいかないかもだけど、ややこしい状況に一石を投じることはできるはずだよ! まずは相手の意表を突いて、イニシアチブを握らないとね!」
昨晩、アイリスの気持ちが落ち着くのを待ったのち、あらためて四人で作戦会議を開くことになったのだ。その際にもっとも能動的であったのは玲奈であり、親父などは楽しげに見守っているばかりであった。
その際に、俺たちはアイリスの実家について詳細を聞き及んでいた。
アイリスの父親はギルバート・ヴォルゴードといって、ずいぶんな財力を持つ事業家であるらしい。その事業内容は不動産関係であり、アイリスいわく「土地転がしと胡散臭いコンサルタント」であるとのことであった。
もともと父親はアメリカの生まれであるが、それは祖父の世代がヨーロッパから移住した結果であるらしい。そして、祖父の世代の素性については、アイリスに対しても固く秘されていたのだという話であった。
「たぶん、詐欺師だか何だかの家系なんだよ。アメリカでひと山あてたあとは世界中を巡ったあげく、日本に腰を落ち着けたみてーだな。母さんとはノルウェーかどっかで知り合ったらしいけど、それに関しても詳しい話は教えてもらえなかった」
世界中を巡った末に、どうして景気の悪い日本に帰化したのか。その理由は計り知れなかったが、アイリスの父親はこの地においても大きな成功を収めて、地元の政治家や警察に顔がきくほどの力を手中にしたわけであった。
そして、アイリスの家庭環境であるが――以前に語っていた通り、アイリスは七歳の頃に母親を失っており、他に兄弟はいないらしい。また、父親は祖国を捨てて移住した身であり、母親は最初から天涯孤独の身の上であったため、他にもいっさい血縁者というものは存在しないのだそうだ。それでアイリスの父親は奥方を亡くして以降、独善的な家族愛のすべてを娘ひとりに集中させたという顛末であった。
また、アイリスは幼稚園から高校まで私立の学校に通わされており、お堅い校風がまったく肌に合わなかったのだという。それで中学生ぐらいから非行に走り、けっきょく高校も中退してしまったのだそうだ。
そんなアイリスが夢中になったのは、ダンスである。
中学時代に年齢を偽ってクラブ通いを始めたアイリスは、そちらでダンスの楽しさを知った。父親の裏工作でクラブが閉店したのちも、ひとりひそかに稽古を積んでいたのだという。それで十八歳の誕生日を機に家を飛び出して――あとは、俺たちも知る通りであった。
「たぶんあいつらは、あたしが東京にでも逃げたと思ってたんだろうなー。だから、二ヶ月はのんびり暮らすことができたんだよ」
しかしアイリスは以前にライブ映像を見て魅了された憧れのダンサーを追い求めて、この千葉市内に潜伏していた。それでようやく目当てのダンススクールに通い始めたところで、ついに居場所を発見されてしまったのだった。
「……いい加減、クソ親父も愛想を尽かしたと思ったんだけどなー。あたしも、考えが甘かったよ」
磐田からの連絡を待つ間、アイリスはそんなつぶやきをこぼした。
「そりゃあまあ、アイリスちゃんみたいに可愛い子供がいたら、溺愛すると思うよー。でも、行き過ぎた愛情は負担になるだけだからねー。お父さんにも、そろそろ子離れしてもらわないと」
玲奈がにこやかな面持ちで応じると、アイリスはぶすっとした顔でそちらを振り返った。
「あんた、根っこはすげーマトモだよなー。それでどうして、あんな素っ頓狂な作戦を思いつくんだよ?」
「えへへ。あたしはレールから飛び出せない、つまんない人間だからさ。そのぶん、妄想力が豊かなのかもねー」
「へん。どうせあたしは、猪突猛進だよ」
「いやいや。アイリスちゃんをイノシシ呼ばわりするのは恐れ多いなー」
「うん。どっちかっていうと、イノシシを狩る側だよな」
俺がわけのわからない相槌を打つと、まったく似たところのない両名が仲良く振り返ってきた。
「あすたちゃん。それはさすがに、失礼じゃないかしらん?」
「おー。とりあえず、あたしにケンカを売りてーみたいだなー」
「い、いや、ごめん。別に悪気はなかったんだ」
俺自身、どうしてそんな言葉が飛び出したのか理解できていなかったので、ひたすら頭を下げるばかりである。
しかし俺はアイリスがもとの元気を取り戻したことに、深く心を満たされていた。昨晩はずっと情緒不安定であったアイリスも、一夜が明けると普段通りのふてぶてしさであったのだ。
きっと彼女も父親と全面対決することに、腹をくくったのだろう。
プロダンサーになるという夢のために、勇気と力を振り絞ったのだ。その青い瞳には、戦場で剣を振るう女騎士のように勇ましい光が宿されていた。
そうして、午前十時ジャスト――座卓の上に移動しておいた電話が、音高く鳴り響く。
俺はアイリスにひとつうなずきかけてから、受話器を取った。
「はい。津留見です」
『磐田です。例の件について、如何でしょうか?』
抑揚のないバリトンの声が、俺の耳に重々しく響きわたる。
俺は騒ぐ心臓をなだめながら、「ええ」と応じた。
「できれば、直接お話をしたいですね。よければ、店のほうに来てください。まだ準備中ですけど、カギはあけておきますので」
『……それは、お嬢様も同席されるということでしょうか?』
「ええ、もちろんです」
磐田はきっかり三秒間考え込んでから、『承知しました』と応じた。
『では、五分でそちらにうかがいます。お嬢様に、よろしくお伝えください』
そうして、通話は早々に打ち切られる。
俺は受話器を戻しながら、アイリスのほうを見た。
「五分で来るってさ。お嬢様によろしくだってよ」
アイリスは「くそくらえ」としか言わなかった。
俺たちは、四人で客席に移動する。磐田の前に玲奈の姿をさらすのは気が引けたが、どうせあちらは『つるみ屋』のことを調査しまくった後なので、きっと玲奈の存在もわきまえているのだろう。また、玲奈もここで引き下がるような女ではなかった。
客席でもっとも奥まったテーブル席に親父と玲奈が着席し、俺とアイリスはそのひとつ手前の席に陣取る。アイリスと横並びになるのはいささか心臓に悪かったが、今はそのようなことにかかずらっている場合ではなかった。
「お待たせしました」と、五分きっかりで磐田が登場する。
昨日見た通りの、ダークスーツで固めた逞しい長身だ。均整の取れた体格であるためにごつすぎる印象ではないものの、感情の読めない目つきとロボットめいた無表情が冷たい迫力を添えていた。
「おひさしぶりです、お嬢様。この二ヶ月間、父君は――」
「うるせーなー。オープンまであと五十五分しかねーんだから、さっさと話を片付けるぞ」
アイリスは座席にふんぞりかえったまま、青い瞳を爛々と燃やしている。ちなみに現在の格好は、仕事用のタンクトップとスウェットパンツだ。彼女は朝からダンスの自主稽古に励み、俺と親父は下ごしらえを完了させている。そうしてともに朝食をたいらげたのち、この時間に備えたのだった。
俺たちはこの面倒ごとを片付けたのち、すみやかに日常に立ち戻る心づもりであるのだ。
そんな俺たちの覚悟を見て取ったかのように、磐田は銀縁眼鏡の奥で目を細めた。
「とりあえず、座ってください。おたがいに、納得いくまで話し合いましょう」
俺は、雑な口調を丁寧にあらためている。それは短気な性格を抑制するのと同時に、紳士的な話し合いで決着をつけようという思いのあらわれでもあった。
「私どもとしましては、お嬢様にお戻りいただければ満足です」
俺とアイリスの向かいに着席するなり、磐田はそう言った。
主張の激しい胸の下で腕を組んだアイリスは、「へん」と鼻を鳴らす。
「クソ親父には、縁を切るって言ったろ。あたしはもう十八歳なんだから、とやかく言われる筋合いはねーよ」
「日本の法律上、実親との絶縁は不可能とされています。唯一の抜け道は特別養子縁組の制度となりますが、そちらが適応されるのは十五歳未満の子供のみとなります」
「へー。できれば四年前に教えてほしかったもんだなー」
「そちらの制度が適用されるのは、よほど特殊なケースのみでしょう。たとえ裁判を起こしても、認可される見込みは皆無であったかと思われます」
「だったら、余計なお世話だな。さっさと話を進めよーぜ」
アイリスも激情を爆発させることなく、ただ青い瞳をぐつぐつと煮えたたせている。
アイリスにクールダウンの時間を与えるため、俺が口を開くことにした。
「磐田さん。もういっぺん考えなおしてもらえませんか? 彼女はこの家で、新しい人生をスタートさせているんです。それを台無しにしたら、余計に親子関係がこじれるだけですよ」
「それを決めるのは、ご本人でしょう。お嬢様にはご実家にお戻りいただき、心ゆくまで父君と語らっていただきたく思います」
「彼女は話し合う余地がないと決断して、家を出たんです。お父さんの側が話し合いを希望するなら、そちらから出向くべきではないですか? 多忙を理由に部下を代理に仕立てるなんて、怠慢だと思います」
「……では、交渉は決裂ということでよろしいでしょうか?」
磐田がいきなり、話を終わらせようとした。
まあ、彼は娘を連れ帰るようにと命令されているだけであるのだ。その一点に合致しない限り、彼のほうこそ交渉の余地はないということなのだろう。そこに一石を投じるために、玲奈がとびきりの奇策をひねりだしたわけであった。
「そうしたら、例の食中毒作戦が実行されるわけですか。まったく、ひどい話ですね」
「……さて。それは、なんのお話でしょう?」
ロボットじみた無表情で、磐田はわざとらしく小首を傾げる。
俺たちが会話を録音しているとでも疑っているのだろうか。俺のしたたかな幼馴染は、そんな常識的な方法で満足するような人間ではなかった。
「そんな真似をしても、無駄ですよ。どんな嫌がらせをしても、彼女はこの家を出ていきません。それをお伝えするために、こちらにお呼びだてしたんです」
「…………?」
「あなたたちが考えをあらためないようであれば、俺たちは結婚します」
磐田が、石化したように動かなくなった。
いっぽう俺は、どうしようもなく胸が高鳴ってしまっている。俺は玲奈の作戦に従っているのみであるが、こんな言葉を平然と口にできるほど図太くはなかった。
「……失礼。結婚とは?」
「結婚をご存じないんですか? 俺と彼女は、夫婦になるんです。だから、この店にどんな嫌がらせをしたって彼女が出ていくことはありませんし、店に悪い評判が立ったら彼女の生活が苦しくなるだけですよ」
磐田は首だけを回転させて、俺とアイリスの顔を見比べた。
それで何を感じ取ったのか、両目をいっそう冷たく光らせる。あの、猛禽類じみた眼光だ。
「ずいぶん思い切ったことを仰りますね。出会ってひと月足らずの相手と、結婚なさると仰るのですか?」
「ええ。人生、何が起きるかわかりませんね。でも、俺たちに迷いはありませんよ」
「……それが本気であると、信じろと?」
「ええ。なんだったら、一緒に婚姻届けを出しに行きますか?」
磐田の顔が、初めてぴくりと蠕動した。
「あなたがたは……本当にこのようなことのために、結婚しようというのですか?」
「ええ。あなたたちが、彼女をそこまで追い詰めたんですよ。店への嫌がらせを止めるには、それしか思いつかなかったんです。それでも嫌がらせが続くようでしたら、夫婦の力で乗り越えてみせますよ」
「……私の知るお嬢様は、このように軽はずみな真似をする御方ではありません」
「へん。あんたなんかに、あたしの何がわかるってんだよ」
アイリスはむしろ余裕が出てきた様子で、べーっと舌を出す。
それを心強く思いながら、俺は言葉を重ねた。
「まあ、あなたが心配されている通り、こんな突発的な結婚が上手くいくかどうかはわかりません。でも、今はこうするしかないということです」
「…………」
「あなたが納得しやすいように、俺の心情をぶちまけましょうか。どうせ俺はこんな顔ですから、この先もまともに結婚できるかわかりません。のちのち彼女と離婚することになったとしても、彼女が生活の基盤を立てるまでサポートできたら、それで満足なんですよ」
これは玲奈の作戦ではなく、俺の独断である。よって、隣のアイリスがものすごい勢いでにらみつけてきたので、俺は笑顔を返してみせた。
「ごめんな。でも、それが俺の本音なんだ。たぶんこういう人たちは、こっちが打算で動いてるって知ったほうが納得しやすいだろうからさ」
「……それならそれで、不意打ちするんじゃねーよ」
アイリスは口をとがらせながら、テーブルの下で俺の足を蹴ってくる。
そうして俺の心を惑わせながら、アイリスは磐田に向きなおった。
「ま、あたしもクソ親父と縁を切りたい一心なんだから、偉そうなことは言えねーけどよ。結婚したら、あたしもこの家の正式な一員だ。どんな嫌がらせでも受けて立つから、かかってこいや」
「……日本において偽装結婚は不当な行為であり、それが発覚した場合は婚姻無効の措置が取られます」
「そんなもん、あたしらが調べてねーとでも思ってんのか? 結婚したら、めいっぱい夫婦らしく暮らしてやんよ」
と、アイリスがしゅるりと俺の腕を抱きかかえた。
それだけで俺の心臓は跳ねあがってしまったが、アイリスはかまうことなく俺の腕をぎゅっと抱きすくめる。昨日の朝方の、再現だ。
「そんでもって、あたしは毎日この店で働くんだよ? 同じ家で暮らして、同じ店で働いて、同じメシを食って生きるんだ。あとは夜な夜なエロい行為にも励めば、偽装結婚なんてケチをつけられる筋合いもねーだろ」
「……本気でそのような言葉を口にしておられるのですか?」
「おー。どうせクソ親父のところに戻ったら、わけのわかんねーボンボンと見合いでもさせられるんだろーしな。あたしがこいつとの結婚をためらう理由なんて、どこにもねーんだよ」
威勢のいいことを言いながら、アイリスは甘い香りのする頭で俺の頬をぐりぐりと蹂躙してくる。さらにアイリスは、言葉でもって俺の心臓を脅かした。
「てゆーか、こいつはあたしみたいな厄介もんのために、ここまでカラダを張ってくれてんだぞ? ヒョロいオトコはタイプじゃねーけど、ここまでされたらあたしだって乙女心がウズいちまうよ。こいつより上等なオトコがいるってんなら、今すぐ目の前に連れてきやがれ」
「……そちらの御方はお嬢様にとって、恩人ということになるのでしょう。お嬢様が恩人にご自分の人生を背負わせるような真似をするとは思えません」
これまで以上に冷徹な眼光を発しながら、磐田はそのように言いたてる。
すると、アイリスの声にも烈火のごとき気迫が宿された。
「あたしの人生を背負わせる代わりに、あたしもこいつの人生を背負うんだよ。さっきはこいつがすっとぼけたことを抜かしてたけど、あたしは死んでも離婚なんざしねー。こいつがカラダを張ってあたしを守ってくれたから、あたしもカラダを張ってこの店を守るんだ。てめーらがどんな悪さを仕掛けてきても、あたしが蹴散らしてやらあ」
俺はアイリスにべったりと密着されているため、その表情を確認することはできない。しかしきっとその瞳にも、青い炎が渦巻いているのだろう。
そんなアイリスの姿をしばらく凝視したのち、磐田は「……承知しました」とおもむろに身を起こした。
「残念ながら、今回ばかりは私の裁量を超える話であると判断いたします。すぐに父君のご意向をおうかがいしますので、どうかそれまでは軽はずみな行為をおつつしみください」
「へん。こっちはてめーらのでせいで、火がついちまったんだよ。本音を言えば、このまま役所に突撃してーところだなー」
「……どうかそれだけは思い留まってくださいますよう、伏してお願いいたします」
磐田は無表情のまま、深々と頭を下げる。
その頭頂部を見据えながら、アイリスは声に殺気をみなぎらせた。
「だったら、ちっとは待ってやってもいいけどよ。もしもこいつにおかしな真似をしたら、てめーもクソ親父もあたしがぶっ殺すぞ」
「……そのお言葉も、父君にお伝えいたします」
面を上げた磐田は、ロボットめいた挙動できびすを返す。
そこで、親父が初めて発言した。
「磐田さんとやら。俺からも、ひと言だけ言わせてもらうぜ。俺たちは店に火をつけられようとトラックに撥ねられようと全身火だるまになろうと、店をあきらめたりはしねえんだ。自作自演の食中毒騒ぎなんざ屁でもねえってことを、しっかりわきまえてほしいもんだな」
磐田は無言のまま一礼して、『つるみ屋』を出ていった。
アイリスは俺の身にしなだれかかったまま、「へん」と鼻を鳴らす。
「あたしがキレたらヤバいことは、クソ親父も思い知ってるはずだからな。少なくとも、あんたが闇討ちされるようなことはないはずだよ」
「そ、それならひと安心だよ。も、もう離れてもいいんじゃないかな?」
「んー? まさか、家族や幼馴染の前でエロい気分になってんの?」
俺が言葉に詰まっていると、親父と玲奈が笑い声をあげた。
「まったく、似合いの二人だな! あっちがどう出ようと、そのまま結婚しちまえばいいじゃねえか!」
「うんうん。二人とも、まんざらでもなさそうだしねー」
親父はともかく、玲奈までもが満面の笑みである。
「でもね、これはそこまで見込んでの作戦だったんだよー」
「な、なに? そいつは、どういう意味だよ?」
「うん。いざとなったら二人が本当に結婚するぐらいの覚悟がないと、相手を怯ませることはできないんじゃないかって思ってたんだー」
すると、俺の右腕を抱きすくめたアイリスが再び「へん」と鼻を鳴らした。
「あのクソ親父を蹴散らすためだったら、結婚ぐらいいくらでもしてやんよ。……あんたのほうは、そこまでする筋合いもねーだろうけどな」
「お、俺の気持ちはさっき言った通りだよ。君の力になれるなら、結婚ぐらいどうってことないさ」
「バーカ。それじゃあ偽装結婚になっちまうだろ。乙女心を踏みにじるんじゃねーよ」
首をねじって俺の顔を見上げながら、アイリスは子猫のように目を細める。
そのしなやかな肢体は、まだ俺の右腕にからみついたままであり――俺の心臓は、もはや爆散寸前であった。




