03 激情
「ただいま。あとは、あたしが引き受けるよ」
午後の八時半、アイリスは『つるみ屋』に戻ってきた。
そのしなやかな褐色の肢体は、すでに仕事着であるタンクトップとスウェットパンツに包まれている。そうしてエプロンを身につけながら、アイリスは「うん?」と眉をひそめた。
「そんなしかめっ面で、どーしたのさ? 歯でも痛いの?」
「ああ、そいつはずっとしみったれたツラをさらしてるんだよ。ま、仕事はきっちりこなしてるから、ほっといてくれや」
親父の言葉に、アイリスは「ふーん?」といっそううろんげな顔になる。
食器洗いの場をアイリスに譲りながら、俺は渾身の力で笑ってみせた。
「ごめん。ちょっとつもる話があるから、仕事の後に時間をもらえるかい?」
「……わかった。仕事の後ね。そんな、無理に笑う必要はねーよ」
アイリスは握り拳をつくると、俺の胸もとをちょんと小突いてきた。
アイリスは、俺を信用してくれたのだ。俺も全身全霊でもって、その信用に応えなければならなかった。
客席では、すでに玲奈も働いている。今回は間にお泊り会をはさんだ影響で、金曜日から四連勤であったのだ。もちろん玲奈も俺の常ならぬ態度に心配げな顔をしていたが、「仕事の後に全部話す」と告げたあとは、黙って見守ってくれていた。
そうして本日も『つるみ屋』はお客で賑わい、俺たちは粛々と仕事をこなしていく。
私語が少ないことを除けば、誰もがいつも通りの働きを見せていた。
「さ、それじゃーつもる話とやらを聞かせてもらおーか」
閉店後の後片付けまできっちり完了させたのち、アイリスは頭に巻いていたバンダナをむしり取った。
親父は呑気な顔で、玲奈は心配そうな顔で、それぞれこちらの様子をうかがっている。俺はしっかりと覚悟を固めながら、テーブル席のひとつを指し示した。
「それじゃあ、みんなも一緒に聞いてくれ。誰にとっても、無関係の話ではないはずだからさ」
アイリスと玲奈は俺が指定したテーブルに座したが、松葉杖をついて客席のほうに出てきた親父は隣のテーブルに陣取る。親父は右足をのばしたまま放り出さないといけないため、四人満席では狭苦しいのだ。俺は玲奈の隣に腰を下ろして、真正面からアイリスと相対した。
「実は今日、親父のおつかいで外に出たとき、君の親父さんの部下だって名乗る人と出くわしたんだ」
俺がそのように告げると同時に、アイリスの青い瞳に熾烈な炎が宿された。
「……それ、マジの話なんだな?」
「うん。その人は、磐田って名乗ってた。背が高くて体格のいい、銀縁眼鏡の人だったよ」
「イワタ……あのデカブツ野郎か」
アイリスは、ぎりっと奥歯を噛み鳴らす。
まるで天敵を前にした山猫のような迫力だ。こんな際でも、俺は正体の知れない懐かしさに心臓を騒がせてしまった。
「それで、そいつはどーしたんだよ? まさか、大人しく帰るわけはねーよな?」
「うん。君に家に戻るように説得してほしいって、頼まれた。それを断ったら……脅迫されたんだ」
「きょ、脅迫?」と、玲奈が俺のほうに身を乗り出してくる。
しかし俺は、怒れるアイリスから目を離すことができなかった。
「そいつが言ったことをなるべく正確に伝えるから、落ち着いて聞いてくれよな。……この『つるみ屋』にそいつらの関係者をお客として出向かせて、食中毒を起こさせる。店に毒を撒き散らすんじゃなく、自分で食中毒の原因になるようなものを口にするっていう意味だな。それを繰り返せば、店の評判が落ちるから――」
俺の言葉は、「ふざけんな!」という怒声によってかき消された。
声の主は、もちろんアイリスである。俺の親父は、こんな話を聞かされても血圧を上げるような人間ではなかった。
「そんな真似、させるもんかよ……あいつら、ぶっ殺してやる」
アイリスが凶悪な眼差しで身を起こそうとしたので、俺は「待ってくれ」と押しとどめた。
「まだ続きがあるんだ。それが自分たちの仕業だって知れれば、君もこの店にいられなくなるだろうって言ってたんだよ。あと、警察には介入されたくないとも言ってたから、口だけの脅し文句だったのかもしれない」
「いや。親父の手下だったら、それぐらいのことは平気でやるよ。あいつらは……昔もそうやって、あたしの大切な場所をぶっ潰したんだからな」
そのように語るアイリスは、まるで青白い炎をたちのぼらせているような迫力であった。
彼女の旺盛な生命力が、怒りの激情として解き放たれているのだ。それは、あまりに痛ましく――そして、得も言われぬ美しさでもあった。
「そいつは、どういう話なんだい? よかったら、聞かせてもらいたいもんだな」
親父がいつもの調子で気安く問いかけると、アイリスは固くまぶたを閉ざしてから答えた。
「あたしは地元でも、クラブ通いをしてたんだよ。あたしは家にも学校にも居場所がなかったから、そのクラブだけが大切な場所だった。あたしがダンスに興味を持ったのも、そのクラブのおかげだ。でも、そのクラブのスタッフに悪いやつがいて……店長に隠れて、悪い商売をしてた。それでいきなり警察に踏み込まれて、店もなくなっちゃったんだよ」
「ふうん? そいつを警察にチクったのが、親父さんの手下ってことかい? しかしそれなら、悪さをした人間が報いを受けただけのこったよな」
「でも! 店や店長に責任はなかった! あいつらが裏で動いて、店を続けられなくなるように仕組んだんだよ!」
「それはつまり、警察に顔がきくってこと?」
玲奈が真剣な口調で問いかけると、アイリスは「ああ」と押し殺した声で応じた。
「クソ親父は地元の議員か何かとズブズブの関係で、警察関係を好きに動かせる。あたしが夜遊びでとっつかまったときも、あたしだけ理由もなく釈放されたんだ」
たとえまぶたを閉ざしていても、全身からたちのぼる怒気に変わりはない。
そんなアイリスの姿を見ているだけで、俺は胸を引き裂かれるような心地だった。
「それで……クラブを潰したときも、あたしを警察から釈放させたときも、あいつらはあたしの噂を周囲の連中にばらまいたんだ。あたしは立派な家のお嬢様だから、不健全な人間が近づくのは許さないってね。そうしたら、もうあたしを相手にする人間はひとりもいなくなったよ」
「それは、ひどい話だね。でも……警察って縄張り意識が強いみたいだから、地元の議員さんと仲良しでも県外には手が出せないのかもよ。それなら、警察に介入されたくないっていう言葉とも矛盾しないしね」
玲奈は幼げな容姿をしているが、こういった際には俺よりも抜群に頭が回るのだ。
しかし、アイリスの殺気が消えることはなかった。
「関係ねーよ。あいつらは親父の命令だったら、毒ぐらい平気で飲む。議員や警察の力なんか借りなくても、この店を潰すことができるんだ」
「いや。そんな自作自演の食中毒騒ぎで、うちの店がどうにかなったりはしないよ」
「まったくだな。そんな連中は、ほっときゃいいさ」
俺と親父がそのように言いたてても、アイリスの殺気に変わりはない。
そしてアイリスはまぶたを閉ざしたまま、ゆらりと立ち上がった。
「そんなこと、あたしが許せるわけねーだろ。……今すぐ、この店を出ていくよ」
「ま、待ってくれ。だからそれが、あいつらの罠だと思うんだ。あいつらは、君の罪悪感を利用して――」
「だったら、あいつらの作戦勝ちだな」
それだけ言い捨てて、アイリスは居住スペースに通じる障子戸へと向かっていく。
俺はほとんど反射的に、それを追いかけた。
「待ってくれ。君が出ていく必要はないよ。何か他に、方法があるはずだ」
俺がそのように呼びかけても、アイリスの歩は止まらない。アイリスはそれこそ山猫のようなしなやかさで障子戸をくぐり、廊下の向こうへと消えていった。
俺は懸命に追いかけるが、左足首に故障を抱える身である。俺が階段に足をかけた頃には、もうアイリスの姿は階上に消えていた。
俺は階段を踏み外さないように気をつけながら、さらに追いかける。
そうして母親の寝室のフスマを開けると、アイリスが部屋中に散らばっていた衣服をボストンバッグに詰め込んでいるさなかであった。
「なあ、話を聞いてくれ。あいつらは明日の朝十時に電話を入れるって言ってたから、そんなに急ぐ必要はないんだよ」
「……あいつらと話すことなんざ、ねーよ」
「いや、それは俺への連絡だよ。君の説得を引き受けるかどうかの、最終確認の連絡だね」
「で、そいつを断ったら、食中毒か。どっちみち、あたしが消えりゃあ解決だろ」
「そんな解決、納得がいかないよ。落ち着いて、もっといい手を考えよう」
俺はアイリスの正面に回り込み、膝を折る。
アイリスは、青い火のような目で俺をにらみつけてきた。
やはり俺は、そんな殺気に満ちあふれた眼光にすら魅了されてしまうが――しかし、痛ましいという思いに変わりはない。朝方にはあんなイタズラを仕掛けて子猫のように笑っていたアイリスが、人でも殺してしまいそうな殺気を撒き散らしているのである。その落差が大きければ大きいほど、俺の胸は鋭い痛みに苛まれた。
「……あんた、あいつらに会ったんだろ? あいつらは、親父の命令通りに動くロボットなんだ。こっちが何を言ったって、聞く耳なんざ持たねーんだよ」
「それでも何とか、打開策を考えよう。きっと何か、いい手があるよ」
「ねーよ、そんなもん。……あんたは親父のことを知らねーから、そんな呑気な顔をしてられるんだ」
「うん。それはその通りだけど……俺もあいつらに、親父さんはこんな真似を許すのかって問い質したんだ。そうしたら、手段を問わずに連れ帰るように命令されたって言ってたよ」
「……それが何だってんだよ?」
「だからこれはあいつらの独断専行で、親父さんもここまで強引な真似をするとは考えてないかもしれないだろう? 一度、親父さんと直接話し合うべきなんじゃないか?」
アイリスの眉間に、深い皺が刻みつけられる。
以前にも見せた、山猫が威嚇するような表情だ。ただ今回は、目つきの迫力が段違いであった。
「甘っちょろいこと言ってんじゃねーよ。あんたはあんないい親父さんを持ってるから、そんな呑気なことを言えるのさ」
「うちの親父は、関係ないだろ。それより、君の親父さんと――」
「だから! あんなクソ親父と何を話したって、どうにもならねーんだよ! あいつは死んだ母さんの代わりに、あたしを支配したいだけなんだからな!」
アイリスの右手がのびて、俺の胸ぐらをわしづかみにした。
アイリスに胸ぐらをつかまれるのは、初めて出会った日以来のことだ。あのときは、アイリスの怒った顔までもが俺の心を深く満たしていたが――今は、悲哀の思いでいっぱいだった。
アイリスがこんなに苦しむことになるなんて、絶対に間違っている。
そんな思いを込めて、俺は胸ぐらをつかむアイリスの手に自分の手を重ねた。
「それじゃあ君は、ダンススクールに通うこともあきらめるのか? 週末のイベントを、あんなに楽しみにしてたじゃないか」
アイリスの青い瞳に、いっそうの激情が燃えさかる。
そしてそこにも、悲哀の思いが入り交じったように感じられた。
「あいつらは、俺の素性や『つるみ屋』のことまで調べあげてたんだ。だからきっと、君の行動も把握されてる。もしもあのダンススクールにまで被害が及んだら――」
「やめろ……なんで、そんなこと言うんだよ……」
と――アイリスの青く燃えあがる目に、透明の輝きが浮かびあがる。
俺はすべての思いを込めて、アイリスの熱い指先を握りしめた。
「君が『つるみ屋』を出たって、何も解決しない。ここで踏ん張って、あいつらを追い返すんだよ。俺も協力するから、一緒に頑張ろう。きっと何か、手立てはあるはずさ」
「そんなの……無理だよ……」
「それじゃあ、何もしないであきらめるのか? そんなの、君らしくないよ」
俺の言葉に、アイリスは新たな激情を瞳に閃かせた。
「あたしらしいって、なんだよ……あんたは、誰のことを言ってんのさ?」
アイリスの眼差しが、思わぬ勢いで俺の胸に食い入ってくる。
俺は――見知らぬ誰かのイメージを、アイリスに重ねているだけなのだろうか?
俺はとてつもない罪悪感に見舞われながら、「ごめん」という言葉を振り絞った。
「今のは、俺が間違ってた。でも俺は、君に夢をあきらめてほしくないし……俺も、君のことをあきらめたくないんだ。だから、一緒に頑張ってほしい」
アイリスは、さまざまな激情がもつれあった目で俺の目の奥を覗き込んでくる。
すると、そこに何を見出したのか、ふいに子供のような泣き顔になり――そしてそれを隠すように、俺の胸もとに顔をうずめたのだった。




