02 曇天
そうしてその日も、俺たちの一日が始まった。
玲奈が宿泊した週末を乗り越えて、月曜日である。俺とアイリスが出会ってから、すでに二十日を突破しているはずであった。
朝から俺の情緒を蹂躙してくれたアイリスもきちんと目覚めたのちには、「わりーわりー」と謝罪してくれた。ただし悪びれている様子はなく、あっけらかんとした顔である。
「にしても、あんたってすっげーカタブツなんだなー。てゆーか、あたしに色気が足りてねーのかなー?」
「ど、どの口で言ってるんだよ。もうあんなイタズラは勘弁してくれよ?」
「んー……あんたに嘘はつきたくねーから、約束はやめとくわ」
「イ、イタズラする気まんまんじゃないか!」
「そーゆーわけじゃねーけど、あんたの慌てふためく顔がツボるんだもん」
チェシャ猫のように白い歯をこぼしつつ、その青い瞳からは子猫が甘えるような光がこぼれ落ちる。それでまた、俺の心は存分に引っかき回されることになったわけであった。
しかしいざ仕事が始まったならば、俺もアイリスも戦闘態勢である。
玲奈のお泊り会を経て彼女はますます打ち解けてくれたようだが、仕事の場で公私混同するような人間ではない。その心意気が、またひそかに俺を魅了した。彼女はきわめて多面的な人間であるようであったが、どの一面を持ち出されても俺はそれぞれ心をつかまれてしまうのだった。
(でも、色気を持ち出すのはほどほどにしてもらいたいもんだなぁ)
心の片隅にそんな思いを抱え込みながら、俺は昼の営業をやり遂げた。
そうして遅めの昼食を終えたならば、アイリスは本日もレッスンである。彼女が出演する交流会というイベントもついに週末に迫っていたため、そちらの気合も日に日に高まっていた。
「じゃ、遅くても八時半には戻るからさ」
着替えが詰まった大きなトートバッグを手に、アイリスは颯爽と店を出ていく。その活力にあふれかえった姿は、今日も俺にまたとない充足感を与えてくれた。
「お、そうだ。今日はチンゲンサイを食いたい気分だったんだ。ひとっ走り、買ってきてくれや」
親父がそんな風に言い出したのは、アイリスが店を出てから五分ほどが過ぎてからのことである。
「あのなぁ、スーパーで買うよりまとめて発注をかけたほうが、安上がりだろうがよ? 親父の気まぐれは、地味に原価率を上げてるはずだぞ?」
「食いたいもんは、食いたいんだよ。文句があるなら、お前は食わなくてもいいぞ」
「誰もそうは言ってねえだろうがよ」
どうせ俺がおつかいを断っても、親父が松葉杖をついてスーパーに出向くことになるのだ。とりあえず言いたいことは吐き出したので、俺は大人しくスーパーに向かうことにした。
(あと五分早ければ、一緒に駅まで行けたのにな)
そんな軟弱な思いを浮かべた俺は、慌てて雑念を振り払う。一日の大半をアイリスと過ごしておきながらそのように考えるのは、強欲に過ぎるというものであろう。朝方にはあれだけ心を乱しながら、俺のほうもまったく凝りていないようであった。
本日は梅雨の合間の曇天模様であるが、なかなかに蒸し暑い。調理着を脱いで冷感インナーウェアの上からワークシャツを羽織っただけの姿でも、フライトキャップとマスクの効果でなかなかの暑苦しさであった。
(こんな蒸し暑いなら、さっさと夏になってほしいところだな。……アイリスは、夏が似合うよな。でもまさか、今以上に薄着になったりはしないよな)
と、何を考えても、最後にはアイリスに行き着いてしまう。俺は仕事に集中しているとき以外、おおよそ彼女に心を支配されてしまっていた。
しかし俺は、無駄な抵抗を放棄していた。たとえ理由の根源がわからなくとも、俺にとってアイリスが特別な存在であることは事実であるのだ。俺は彼女の存在を無理に遠ざけるのではなく、適切な距離を保ちつつ親愛を深めたいと願っていた。
(今朝はとんでもないイタズラを仕掛けられたけど、あれだって心を開いてくれた証拠なんだろうしな。これで文句をつけてたら、バチが当たるってもんさ)
そうしてスーパーに到着した俺は、チンゲンサイとともにゴマ油も購入しておく。親父がチンゲンサイをどのように仕上げるかは不明なれども、もっとも可能性が高いのは中華料理であろうと踏んだのだ。俺の読みが外れても、保存のきくゴマ油の在庫が増えるだけのことであった。
そうして表に出てみると、ますます空は暗くなっている。
今日は終日曇天という予報であったはずだが、いかにもひと雨きそうな空模様だ。俺は左足首に負担がかからないていどに、足を急がせることにした。
しかしその歩は、駅に到着する前に止められてしまう。
目の前に、大柄な人影が立ちはだかったのである。
「失礼。津留見明日太さんですね? ちょっとお話をよろしいでしょうか?」
それはこのような蒸し暑い日にきっちりとダークスーツを着込んだ、やたらと体格のいい男だった。
背丈は百八十センチを超えていそうで、胸板の厚みなどは素人とは思えない。頭は短く整えており、角ばった顔はなかなか男前であったが――ただ、銀縁眼鏡の向こう側に輝く冷たい目の光が、俺の警戒心をかきたててならなかった。
「……失礼ですけど、どちらさんで? なんで俺の名前を知ってるんです?」
「あなたのことは、調べさせていただきました。食堂『つるみ屋』の主人である津留見源三氏のご子息で、同店の従業員。年齢は十九歳。二年前の火災で重傷を負うも、無事に退院されたのちに父君と食堂を再建されたそうですね」
「あんた、もしかして……警察にとっつかまった連中の、お仲間か?」
俺が視線で威嚇しつつ後ずさると、その男は「いえ」と太い首を横に振った。
「それは、誤解です。また、あなたがたを脅迫していた者たちは実行犯の自白によって逮捕の憂き目を見たのですから、あなたがたが逆恨みされることはないでしょう」
「だったら、何なんだよ? それ以外でおかしな連中につけ回される筋合いはねえぞ」
俺はもともと肉体派でない上に、現在は人並み以下の身体能力に成り下がっている。しかし、親父ゆずりの雑な神経で、こういう際に震えあがったりはしないのだ。そんな俺が油断なく身構えていると、男は石のような無表情で低い声を発した。
「私はアイリスお嬢様の父君の下で働く人間です。それで多少は、納得いただけますでしょうか?」
マスクの下で、俺は息を呑んだ。
いっぽう男はでかい図体に似合わないしなやかな所作で、右の方向を指し示す。
「あちらに、車の準備があります。なるべく人目を避けたいので、そちらでお話をうかがえますでしょうか?」
俺は大いに思い悩んだが、ここで逃げ出すのは性に合わないし、そもそも俺には逃げる脚力がない。また、アイリスの関係者を適当にあしらって遺恨を残すような事態もさけたかった。
「……わかったよ。ただし、おかしな真似をするようだったら、遠慮なく警察を頼らせてもらうからな」
「警察機関の介入は、私どもも望むところではありません。見解が一致したことを喜ばしく思います」
男は無表情のまま、車道のほうに歩を進めていく。
俺がめいっぱい気を張りながらそれを追いかけると、むやみにでかい黒塗りのワゴン車が路肩でハザードを焚いていた。
俺たちが接近すると、ワゴン車の後部のドアが自動でスライドする。
俺たちが後部座席に乗り込むと、またドアが自動で閉ざされた。
運転席と助手席にひとりずつの男が座しており、そちらも両方ダークスーツだ。そしてどちらも、ロボットのように無表情であった。
「申し遅れましたが、私は磐田と申します。名刺の持ち合わせはございませんが、ご了承ください」
俺の隣に乗り込んだ大男が、そのように名乗りをあげた。
こちらも感情が欠落した無表情と声音であったが――俺はだんだんその平坦な口調が不自然に感じられてきた。もしかしたら、この人物は日本の生まれではないのかもしれなかった。
「磐田さんね。それで、俺に何の用があるってんだい?」
「はい。どうかご実家に戻られるようにと、アイリスお嬢様にお伝え願えないでしょうか?」
それは十分に、想定内の言葉であった。
「まあ、親御さんとしてはそう考えるのが普通なんだろうね。ただし、間に俺なんかをはさむ必要はないはずだ。あのコを説得したいなら、本人が出向くべきだろ?」
「お嬢様の父君はご多忙であられるため、我々が代理人として参じました。父君は二ヶ月以上も、お嬢様の身を案じておられるのです」
「そんなに心配なら、電話の一本も入れりゃあいいじゃねえか。俺なんかに伝言を頼むより、そっちのほうがよっぽどマシだろ」
「……あなたはお嬢様と父君のご関係をご存じないのでしょうか?」
表情も声音も変化させないまま、磐田はそんな疑問をぶつけてくる。
俺は「さてね」と肩をすくめた。
「俺が知ってるのは、あのコが父親のことを嫌ってるっていうことだけだよ。だから、伝言ひとつで帰る気になったら世話はないって言ってるのさ」
「では、伝言ではなく説得をお願いできませんでしょうか?」
「どうして俺がそんな真似をしなくちゃならないんだよ。説得したいなら、自分でしな。店が終わった後なら、客席を貸してやってもいいよ」
「それでは、意味がないのです」と、磐田は冷徹に言い放った。
「アイリスお嬢様は、とても警戒心の強いお人です。そんなお嬢様が身を寄せたということは、きっとあなたがたに絶対的な信頼を抱いているのでしょう。そんなあなたに説得していただければ、きっとお嬢様も納得してくださるはずです」
「だから、俺がそんな真似をする理由はないだろ。あのコが帰るって言うんなら引き留めることはできないし、帰りたくないって言うんならうちの店で面倒を見る。俺は、あのコの意思を尊重させていただくよ」
「そうですか」と、磐田の目がいっそう冷たい光を帯びた。
なんだか、上空から獲物を狙う猛禽類に見つめられているような心地である。
「では、現在の平穏な環境を引き換えにするお覚悟をお持ちでしょうか?」
(そらきた)と、俺はマスクの下で顔をしかめた。
「けっきょく最後は、脅し文句かよ。警察のご厄介にはなりたくないんじゃなかったっけ?」
「警察機関が介入する余地はありません。たとえば……あなたの店で重大な食中毒の事件が起きるというのは如何でしょう?」
俺は一瞬で血圧を上げかけたが、かろうじて怒鳴り声を抑制することができた。
「店の料理に毒でもまぜようってのか? そんなもん、犯罪ど真ん中じゃねえか」
「ですが、食中毒を起こすのがこちらの関係者であれば、他の方々に危害が及ぶことはありませんでしょう」
「あん? 言ってる意味が、わからねえな」
「あなたの店で食事をいただいたこちらの関係者が、食中毒を起こすのです。その場で嘔吐するほどの重篤な症状であれば救急車が呼ばれることになり、ひいては保健所の立ち入り検査などが実施されることになるでしょう」
「……そんな茶番で、『つるみ屋』をどうこうできると思ってんのか?」
「はい。そちらの店に不備はありませんでしょうから、営業停止などの行政処分が下されることもないでしょう。ただし、そのような事件が連続すれば、店の評判には大きく関わってくるものと推察されます」
「……あんた、本気で言ってんのか?」
「はい。そして、それが我々の仕業と知れれば、お嬢様もそちらの店に留まることはできないと思い至ることでしょう。お嬢様は、誠実にして清廉なお人柄であられますので」
今度ばかりは、俺も抑制することができなかった。
「ふざけんな! そんな真似をして、あのコが家に戻るとでも思ってんのか?」
「我々は、そうしてひとつずつ手を進めていくしかありません。お嬢様が他なる場所に居を移すようであれば、また新たな手を考案するのみです」
「そうやって、あのコをじわじわ追い詰めようってのかよ。あんた、同じ人間だとは思えねえな」
俺の怒りは、猛烈な悲哀の思いをも孕んでいた。
「……ひとつ聞かせてくれよ。そんなやり口で、あのコの親父さんは文句をつけねえのか?」
「我々は、手段を問わずにお嬢様にお帰りいただくようにとのお言葉をいただいております」
磐田が運転席に目配せを送ると、なめらかな挙動で後部座席のドアが開いた。
「では、お気が変わりましたら説得のほうをお願いいたします。明朝、午前十時に確認のお電話を差し上げますので」
俺は磐田のロボットじみた無表情をにらみつけてから、車外に出た。
ドアは音もなく閉められて、ワゴン車は何事もなかったかのように走り去っていく。それが見えなくなるのを待ってから、俺は暗く閉ざされた天空をにらみあげた。
(こんな話を聞かされたら……あのコは、どう思うんだろうな……)
俺の腹には怒りの激情がとぐろを巻き、胸は悲哀で満たされている。
それらをすべて呑み下して、俺は『つるみ屋』に戻ることにした。




