第3章 01 夢と現実
2026.7/20
今回の更新は全8話です。
その日、俺は奇妙な夢を見た。
ただし、お馴染みの悪夢ではない。ある意味では、それよりも素っ頓狂な夢である。
そこはどことも知れない森の奥深くで、俺の周囲にはさまざまな動物たちがひしめきあっていた。
それもただの動物ではなく、赤だの青だの紫だのという派手な色合いをしている上に、全身がぼんやり照り輝いている。そして、それらの動物に取り囲まれた俺自身も、一匹の動物に成り果てていた。
俺は、真っ黄色の狼である。
俺には犬と狼の区別もつかないが、この夢の中では狼であると自覚していた。夢ならではの、根拠のない確信だ。そうして自分のふさふさの毛並みが真っ黄色にぼんやり照り輝いていることにも、べつだん違和感を覚えたりもしなかった。
俺を取り巻く動物たちも、それぞれカラフルな色合いに照り輝いている。
木陰でくつろぐ藍色の鷹、のんびりうたたねをする紫色の猿、それに寄り添う灰色の鹿、緑色の小さな蛇、それに鼻先を寄せる朱色の犬――少し離れた場所にはライオンの群れがいて、そちらも赤や朱色や黄色など色とりどりで、その中に黒い狼や黄色い兎や朱色の山羊などが入り交じっていた。
そんな中、俺にぴったりと寄り添っているのは、赤い猫である。
草むらにゆったりと身をのばした俺の脇腹に頭をすりつけつつ、心地よさそうに目を閉ざしている。その赤い猫の温もりと甘い香りにひたっているだけで、俺は得も言われぬほど満たされた心地であった。
俺はでかい図体をしているのに、この小さな赤い猫が頼もしくてならない。
彼女がそばにいてくれたからこそ、俺はこんなにも大きく育つことができたのだ。俺は心から充足しており、彼女のことを全身全霊で愛していた。
(彼女……この猫は、女性なのか……?)
俺がそんな思いにとらわれたとき、赤い猫のまぶたがぱちりと開かれた。
そうして赤い猫はしなやかな首をねじりつつ、俺の顔を見上げてくる。
その瞳は、サファイアのような青色に光り輝いていた。
そして――赤い猫は、不思議そうに小首を傾げた。
『……お前は、誰だ?』
赤い猫の抱いた疑問が、俺の心に響きわたる。
とたんに俺は、心の均衡を失った。
違う。
ここは、俺の居場所じゃない。
この場所はこんなにも居心地がよくて、こんなにも懐かしい感じがするのに――しかしここは、俺のいるべき場所ではなかった。そんな確信が、俺の心を千々に乱したのだった。
(そうだ……俺は、この世界の住人じゃない……俺は……)
世界が、ゆっくりと霞んでいった。
いや、霞んでいるのは、俺の心だ。いつしか俺は黄色い狼の中から引きずり出されて、天の高みから彼らの姿を見下ろしていた。
彼らは何事もなかったかのように、森の中でくつろいでいる。
黄色い狼が鼻先を寄せると、赤い猫は幸せそうに目を細めた。
やっぱりあれは、俺ではなかったのだ。
俺の眼下で、動物たちの姿はどんどん白く霞んでいく。そしてついには、すべてが純白の闇に包まれて――俺は、夢の世界から弾き出された。
◇
薄暗がりの中で、俺はゆっくりとまぶたを開く。
なんだか、頭がぼんやりとしていた。とても奇妙な夢を見ていたはずであるのに、その記憶がさらさらと砂の城のように崩れていく。最後に残されたのは、とても愛おしい青い瞳の眼差しだけであった。
しかし、その記憶も霞んでいる。
そして俺の心は、とてつもない寂寥感に満たされていた。
(なんだよ、もう……俺はロクな夢を見ねえなぁ……)
温かな布団に横たわったまま、俺は深く溜息をついた。
まるで夢の残滓のように、甘い香りが感じられる。たしか俺は夢の中でも、甘い香りに包まれていたのだ。普段の悪夢ほどではないにせよ、俺は存分に心をかき乱されていた。
(……なんだか、まだ夢の続きを見てるような気分だな……)
この甘い香りが、俺の意識を惑わせているのだろうか。
でも、この香りはとても心地好い。得体の知れない寂寥感に打ちひしがれていた心が、優しく癒やされていくかのようだ。
それに俺は、奇妙な温もりを右半身に感じている。
その温もりもまた、俺の心を深く満たしてくれた。
なんだか、一生このまま微睡んでいたいような気分である。
それで俺が、安らいだ気分でまぶたを閉ざそうとしたとき――右の頬に、温かくてやわらかいものがすり寄ってきた。
それでいっそうの甘い香りが、俺の心を満たしていく。
俺は幸福な心地で、まぶたを閉ざし――そして、睡魔に呑み込まれる寸前に、絶大なる驚きに見舞われた。
「え? なに? おい! なんで?」
俺はパニック状態に陥りながら、身を起こそうとした。
しかし、それは途中で引き留められてしまう。俺と同じ布団にもぐった何者かが、俺の右腕をぎゅっと抱きすくめていたためである。
まあ、何者かなどととぼける意味はない。
この甘い香りだけで、その正体は知れていた。
「お、おいってば! どうして君が、俺の部屋で寝てるんだよ!」
俺が惑乱した声をあげると、彼女は――津留見家の居候たるアイリスは、俺の右腕をぎゅっと抱きすくめたまま「んん……」と可愛らしい声をあげた。
彼女は髪をほどいているため、金褐色のきらめきが半分がたその秀麗な面を隠している。ただ、彼女が赤ん坊のように安らいだ顔でまぶたを閉ざしていることは見て取れた。
その褐色の肢体に纏っているのは、もこもこのハーフトップとショートパンツだ。俺はTシャツで眠っていたため、火傷だらけの右腕の素肌でその生地のやわらかさと彼女自身のやわらかさを余すところなく味わわされていた。
「うるせーなー……なにをぎゃーぎゃー騒いでんだよ……」
アイリスの桜色の唇が、不平がましい声をあげる。
そして、金褐色の長い睫毛の隙間から、いくぶん焦点のぼやけた青い瞳が俺の顔を見上げてきた。
「おりょりょ……? あんた、ついに勇気を振り絞ったのかよ……? あたしの寝込みを襲うとは、いい度胸じゃん……」
「ば、馬鹿を言うなよ。ここは、俺の部屋だろう?」
アイリスはゆるみきった面持ちで、「んー……?」と小首を傾げる。
まるで寝起きの子猫めいた可愛らしさだ。俺は肉体と精神の両方を圧迫されて、そのまま悶死してしまいそうだった。
「あー、そっか……あんたをびっくりさせようと思って、布団にもぐりこんだんだったわ……なんか、今日も早起きしちまったからさ……」
「そ、それでどうして、熟睡してるんだよ?」
「うっせーなー……布団にもぐったら、眠くなっちまっただけだよ……」
寝ぼけた声で語りながら、アイリスは俺の右肩に頬ずりをしてくる。
その間も、俺の右腕をがっしりと捕獲したままだ。もこもこの生地ごしに伝えられる温もりと弾力が、何より俺を混乱させていた。
「と、とにかく離してくれよ! 俺を驚かせたかったんなら、もう十分だろう?」
「んーだよ……あたしにひっつかれるのが、そんな迷惑なの……?」
アイリスは口をとがらせながら、両腕にいっそうの力を込めてくる。
そうして俺が悶絶していると、彼女はやおら口もとをほころばせた。
「へへ……ふたりで寝てると、あったけーな……」
たぶん彼女は、まだ寝ぼけているのだろう。その青い瞳には、あまりに無防備であまりに無垢なる輝きが宿されていた。
すると、俺の心はミキサーにかけられているかのようにかき乱されながら、もっとも奥まった部分は深く満たされていく。
なんだか、俺は――夢の中で指先からすりぬけていってしまったものが、形を変えて舞い戻ってきたかのような心地であった。
俺の抱えた虚無感や喪失感が彼女の存在で埋め尽くされるというのは、いつものことである。しかし本日はひときわ大きな穴があいたため、ひときわ彼女の存在が大きく温かく俺の心を満たすのかもしれなかった。
(俺の居場所は、ここなんだ……)
なんの脈絡もなく、そんな言葉が俺の頭に浮かびあがる。
そして――気づくと、アイリスのまぶたが再び閉ざされて、その可憐な唇がすうすうと安らかな寝息をたて始めていた。
「た、頼むから、二度寝しないでくれ! 二度寝するなら、俺の腕を離してくれ!」
「うっさい……」と寝ぼけた声で言いながら、アイリスは問答無用の腕力で俺の右腕をぎゅうっと抱きすくめてくる。
そうして俺は過去最大の惑乱と過去最大の充足を同時に手にするという、とんでもない体験を授かることに相成ったわけであった。




