06 交わりの朝
翌朝――何故だか俺は、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。
下ごしらえを始めるには、まだ二十分ばかりもゆとりがある。しかし二度寝をするには中途半端な時間であるし、そもそも眠気も残されていない。しばし黙考したのち、俺は身を起こすことにした。
(たまにはあのコを見習って、朝の新鮮な空気でも吸ってみるか)
俺は布団を押入れに詰め込んで、寝間着代わりのTシャツとジャージのボトムの姿のまま寝室を後にした。
早朝の廊下はぼんやりと薄暗く、しんと静まりかえっている。
俺の寝室は一番手前で、アイリスと玲奈が眠る寝室は一番奥だ。俺は二人が仲良く並んで寝顔をさらしている姿を想像して心を温かくしながら、階段に足を踏み出した。
(そうだ。その前に、線香でもあげておくか)
勝手口に向かいかけた俺はUターンをして、仏間に向かう。
そして、何の気もなしに仏間のフスマを引き開けると――そこに、アイリスの背中が見えた。
完全に虚を突かれた俺は、思わず立ちすくんでしまう。
アイリスがいるなどとは夢にも思っていなかったし、しかも彼女はいつも綺麗に結いあげている髪を自然に垂らしていたのだ。彼女の優美なラインを描く背中は八割がた隠されて、褐色のなめらかな肩も金褐色のきらめきの向こう側で霞んでいた。
アイリスは仏壇に向かって膝を折り、静かに頭を垂れている。
仏間には、すでに線香の匂いが満ちていた。
そうしてたっぷり十秒ばかりも祈ったのち、アイリスがこちらを振り返ってくる。
その美麗な顔にも金褐色の髪がかかり、普段とはまったく趣の異なる美しさだ。それで俺が存分に心を乱していると、アイリスは気安く「おはよ」と声をあげた。
「そっちも、ずいぶん早いじゃん。……そんな幽霊を見たようなツラして、どーしたのさ?」
「あ、いや、その……か、髪をおろしたところを見たのは、初めてだったからさ」
「そーだっけ? そんなギョーテンするような話じゃないっしょ」
アイリスはしなやかな身のこなしで立ち上がりながら、右手で髪をかきあげる。窓から差し込む薄明かりにぼんやりと照らし出されるその姿は、夢のように美しかった。
その自然なウェーブを描く金褐色の髪は、腰の近くにまで流れ落ちている。彼女はいつも複雑な形に髪を結いあげていたが、こんなにもロングヘアーであったのだ。首から下はいつも通りのやわらかそうなハーフトップとショートパンツであったが、やっぱり彼女は別人のように雰囲気が違っていた。
「どしたの? あんたも線香をあげに来たんでしょ? 母さんが、待ちくたびれてるよ」
口を開けば、いつも通りのアイリスである。
女性というのは、髪型ひとつでこうまで異なる魅力があふれかえるのだ。俺はへどもどと頭を下げながら、アイリスが場所を空けてくれた座布団まで進み出ることになった。
しかしアイリスも仏間を出ていこうとはせず、壁にもたれて座り込む。
横からアイリスに見守られつつ、俺は仏壇の前で膝を折った。
ただし俺は、きちんと正座をすることができない。左足首を真っ直ぐのばすことも深く曲げることもできないので、そちらに体重をかけないように気をつけながら、右足首を立てて体重を支えなければならないのだ。アイリスの前で転倒しないように気をつけながら、俺は新たな線香に火を灯し、鈴を鳴らした。
(……きっと昨日は、玲奈も線香をあげてくれたんだろう? こっちは、賑やかにやってるよ)
遺影の母親に手短に告げたのち、俺は足を崩してアイリスのほうに向きなおる。
アイリスはまた大胆に片膝を立てて、そこに頬杖をつきながら俺を見つめていた。
俺は三日前からTシャツで過ごすようになっていたので、アイリスが咽喉もとや右腕の火傷に目を奪われることもない。アイリスは木陰でくつろぐ山猫のようにリラックスした雰囲気で、静かに声をあげた。
「で? 今日はなんか、早起きする用事でもあったの?」
「い、いや。たまたま目が覚めただけだよ。そっちは、どうしたんだい?」
「あー、あたしも一緒だよ。昨日はけっこう夜ふかしだったのに、なんか目が冴えちゃってさ」
アイリスは相変わらずの凛々しい面持ちであるが、その眼差しはとても穏やかだ。
その眼差しが、俺をこの場に引き留めていた。
「昨日は、色んな話を聞かされたよ。……あんた、今でも可愛らしい顔をしてっけど、ちっちゃい頃は段違いだね。赤ん坊の頃なんて、レイナと見分けがつかねーぐらいだったよ」
「ああ、うん。その頃はよく双子に間違われてたらしいね」
「うん、それも聞いた。……あんたらほんとに、二人で一緒に育ったんだな」
そのように語るアイリスの声も、とても穏やかだ。
よって俺も、いらぬ不安をかきたてられることもなかった。
「母親同士の仲がよかったんだよ。玲奈がうちに預けられてたことも聞いたのかな?」
「あー、保育所がいっぱいだったから、預かってあげたんだって? あんな可愛い子供を預けてまで働きたがるなんて、酔狂な話だよなー」
「うん。でも、君もプロダンサーになったら気持ちがわかるんじゃないかな?」
アイリスは意表を突かれた様子で目を見開いてから、可愛らしく口をとがらせた。
「そっか。好きなことを仕事にしたんなら、べつに不思議な話じゃねーよな。ちぇっ、一本とられちまったぜ」
「あはは。それでも君は、自分の子供を猫っ可愛がりしそうだけどね」
「んーだよ、それ? おかしな想像してんじゃねーぞ」
アイリスの口調は荒っぽかったが、やっぱり眼差しや声音は穏やかなままだ。
アイリスと二人きりで語ることなど、最近では珍しくもなかったのだが――それでも俺は、普段以上に心を満たされていた。
「……でさ、あんたが自分の母さんが大好きだったってことも、よくわかったよ」
同じ声音のまま、アイリスはそう言った。
「母さんと一緒に写ってるあんたは、すごく幸せそうだったし……母さんを亡くした後は、すごく大人っぽい顔になってた。きっとあれぐらいから、あんたは料理に打ち込み始めたんだろーね」
「うん。最初の一年ぐらいはそんな元気もなかったから、本格的に始めたのは小学三年生あたりかな」
俺も自然に、そんな言葉を返すことができた。
俺はすでに、母との思い出に痛みを感じることもなかったし――アイリスには、すべてを知ってほしいと思っていたのだ。彼女が薄っぺらい好奇心などで語っていないことは、その目つきと表情で信じることができた。
「その一年ぐらいは、ぜんぜん写真がなかったよ。きっとレイナの親たちも、プリントする気になれなかったんだろうね」
「うん。そもそもその期間は、ほとんど出かけたりもしてなかったからね。まあ、それはその後も同じだったかな?」
「うん。そこから、ガクンと写真が減ったよ。毎年、海で遊んでる写真はあったけどね」
「そうそう。おたがいの母親を通して紡いだご縁だったから、こっちの母さんが亡くなった後は家族ぐるみで遊ぶ機会も減ったんだよ。海水浴だけは、恒例行事だったけどね」
「でも、それも小学生までか。中学以降は、レイナが店で映した写真ばっかだったよ」
「そうだね。あいつだけは、しょっちゅう店に顔を出してくれたからさ。高校生になってからは、正式にアルバイトとして働いてたしね」
「うん。でも、それも高二の春までだよな」
高校二年の六月、俺は誕生日を迎えてすぐ、あの災難に見舞われたのだ。
それはつまり、つい数日前に丸二年を突破したということであった。
「そっから一年はまるまる写真がなくって、その次はこの店のリニューアルの記念写真だったよ。……あんた、今よりヒョロヒョロだったね」
「あはは。あれは退院してすぐだったからね。最初の内は体力が続かなくて、大変だったよ」
「うん。退院して、まだ一年しか経ってねーんだもんな。今のあんたはすごく元気そうに見えるから、なんだか信じらんねーよ」
「うん。今ではすっかり健康体だからね。まあ、君から見れば頼りないだろうけどさ」
「……そんなことねーよ」と、アイリスは優しく目を細める。
しかし、俺の心をいっそう温かくしたのも束の間で、彼女はいきなりぷいっとそっぽを向いてしまった。
「……あたしはそこまで、自分の母さんのことが好きじゃなかった。もちろん嫌いではなかったけど、クソ親父の言いなりだったのがもどかしくて、ムカついてたんだ」
その突然の告白に、俺は小さからぬ驚きにとらわれた。
しかし彼女の邪魔をしないように、「そうなんだね」と短く相槌を打つ。
「うん。それでその頃は、クソ親父もあたしのことはほったらかしだった。クソ親父が執着してたのは母さんだけで、あたしなんかはオマケだったんだ。……それが、母さんが亡くなったとたんに、手の平返しでさ。あたしにあれこれ命令して、母さんの身代わりみてーに扱いやがったんだ」
「それは、ひどい話だね。君だって、まだ小学二年生だったんだろう?」
「そーだよ。だから余計に、あたしは母さんにもムカついた。こんなクソ親父をあたしに押しつけて、さっさと天国に行っちゃってさ。だから、あんたみたいに母さんを大切に思うこともできなかった。やっぱあたしも、クソ親父のくそったれな血が流れてるんだろうなー」
俺が「そんなことないよ」と上ずった声をあげると、アイリスはぎょっとした様子で振り返った。
「……あんた、泣いてんの?」
「泣いてないよ。ただ……あまりにひどい話だと思ってさ」
そんな風に答えながら、俺は目もとににじんだものを手の甲でぬぐった。
彼女は父親ばかりでなく、早くに亡くした母親をも恨むことになった――その事実が、どうしようもないほどに俺の情動を揺さぶったのである。
そしてそこには、強烈な違和感も入り交じっていた。
彼女が家族に恵まれなかったという事実が、あまりに理不尽で、間違った運命であるように思えてしまったのだ。
だがそれは、俺の勝手な思い込みに過ぎない。
そんな話を抜きにしても、俺は彼女が気の毒でならなかった。俺も彩りに欠けた人生を送っており、二年前には死ぬような目にあったが――それでも家族と幼馴染には、恵まれすぎるぐらい恵まれていたのだった。
「君は、すごいね。そんなつらい目にあっても真っ直ぐ生きていけるだなんて、本当にすごいことだと思うよ」
「……あのさ、あたしはあんたたちに拾われるまで、宿無しのプータローだったんだよ? ちっともすごくねーっての」
「そんなことないよ。君は出会った頃から、何にも負けてなかったからね」
俺がそのように言葉を重ねると、アイリスは金褐色にきらめく長い髪を豪快にひっかき回した。
「そんなきらきらした目で、あたしを見んなよ。あんたのほうが、よっぽどすげーだろ」
「いやいや。君にはとうていかなわないよ。俺なんか、親父や玲奈に支えられてるだけさ」
「それを言ったら、今のあたしは三人がかりでフォローされてるだろ」
「いや、それでも――」と言いかけたところで、俺はつい笑ってしまった。
「なんだか不毛だね。もうやめようか」
「おー。おたがいにすげーすげー言って、バカみてーだな」
そう言って、アイリスもくすくすと笑ったとき――なんの前触れもなく、仏間のフスマが引き開けられた。
そこから登場したのは、寝ぼけ顔の玲奈である。玲奈は子供のように目もとをこすりながら、「あれー?」と小首を傾げた。
「二人とも、おはよー。こんなとこで、何してんの?」
「それはこっちの台詞だよ。お前はどうしたんだ?」
「うん。なんか、アラームが鳴る前に目が覚めちゃってさー。そしたら、アイリスちゃんもいなかったし……とりあえず、お線香でもあげておこうかなーって思ったの」
まるで何かに導かれるようにして、早起きをした三人がこの場所に寄り集まったわけである。
思わずアイリスと顔を見合わせた俺は、つい声をあげて笑ってしまった。
「なになにー? あたし、お邪魔虫だったー?」
「そんなことねえよ。お前も、線香をあげてやってくれ」
俺は座布団から腰を上げて、アイリスとは反対側の壁際に退いた。
おそらくあと数分もしたら、もう下ごしらえを開始する時刻だろう。それまでは、この日常の中に生まれた一瞬の奇跡めいた時間にひたっていたかった。
2026.6/20
今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。




