08 君の名は
アイリスが出場したイベントの二日後――七月最初の月曜日の朝である。
今日も今日とて、俺と親父は昼の営業に向けて下ごしらえに取り組んでいる。ちょうどその作業が一段落したところで、アイリスが『つるみ屋』に戻ってきた。
「ただいま。いちおう、カタはつけてきたよ」
アイリスは、子供のようにぶすっとした顔つきである。しかしアイリスが無事に戻ってこられただけで、俺は安堵の息をつくことができた。
アイリスは父親と語らうために、昨日から出かけていたのである。
一昨日のステージの終了後、俺がアイリスの父親から託された包みを差し出しながら事情を説明すると、彼女は「なんだそりゃ!」と尻尾を踏まれた山猫のように激昂したのだった。
「どーしてどいつもこいつも、あたしじゃなくってあんたにちょっかいをかけるんだよ! 言いたいことは、あたし本人に言いやがれってんだ!」
しかしアイリスの父親はさっさと姿を消してしまったため、怒りのぶつけようがない。それでも俺たちが大切なイベントを二の次にしてはいけないとたしなめたため、アイリスは一夜が明けるのを待ってから実家に突撃したのだった。
いちおう昨晩の時点でも、安全確認の電話はもらっている。それでも俺はやきもきしながら、眠れぬ夜を過ごすことになり――そして今、ようやく安堵の息をつくことができたわけであった。
アイリスの褐色の肢体からも、これまでと同じ生命力があふれかえっている。
ただ、上に羽織っているミリタリーシャツやデニムのショートパンツは昨日の朝方に見た通りであったが、胸もとしか隠さないハーフトップはデザインが変わっている。きっと彼女は実家でもシャワーを浴びて、準備していた衣服に着替えたのだろう。それもまた、実家で穏便に過ごすことができたという証であるはずであった。
「お疲れ様。無事に戻って、よかったよ。それで、話し合いのほうはどうだったんだい?」
「そんなん、昨日の電話で話した通りだよ。あたしらにやりこめられてムカついてるくせに、ずーっとスカしたツラでさ。自分のアヤマチに気づいたらいつでも戻ってこいだの何だの……あーもう、思い出すだけで腹が立ってくんなー!」
と、アイリスは子供のように地団駄を踏む。
確かに彼女は憤慨しているのだろうが、そこに深刻な気配はない。それでまた、俺は心を和ませることができた。
「でも、独り立ちを認めてもらえたんだから、万々歳じゃないか。これでもう、君は好きな人生を生きられるんだからさ」
俺がそのようになだめると、アイリスははたと我に返った様子でキャップを外し、厨房にたたずむ俺と親父に頭を下げてきた。
「ぐちぐち言うより、お礼を言うのが先だったね。……みんなのおかげで、なんとか丸く収めることができました。迷惑かけた分はしっかり働くんで、これからもよろしくお願いします」
「おう。それじゃあ今後は、正式にアルバイトとして雇用するってことでいいのかい?」
「うん。履歴書とかに実家の住所を書くのは、やっぱちょっとムカつくんだけど……あたしも、スジを通すことにするよ」
そんな風に言ってから、アイリスは可愛らしくもじもじとした。
「でも、それはここだけの話でさ。スクールのほうは、ここの住所を借りたままでもいいかなぁ?」
「そんなのは、どうでもかまわねえさ。お前さんは、実際にここで暮らしてるんだからよ」
「ありがとう」と、アイリスははにかむように微笑んだ。
これもまた、俺が初めて目にする表情である。出会ってひと月ていどである俺たちは、まだまだおたがいに知らない一面を持っているはずであった。
「じゃ、こっちも下ごしらえは終わったんで、メシにするか。嬢ちゃんも、すぐに食えるかい?」
「あ、ちょっと荷物があるから、それを片付けてからでいい? もののついでで、実家からあれこれ持ち出してきたんだよ」
「おう。それじゃあ、準備だけ進めておくわ。明日太は、そっちを手伝ってやれ」
親父のはからいに感謝しつつ、俺はアイリスとともに居住スペースへと移動した。
廊下を歩くアイリスの背中を見守っているだけで、俺の心はぐんぐんと満たされていく。このひと月で、アイリスと丸一日離れていたのはこれが初めてのことであったのだ。俺の心の片隅では懐かしき虚無感と喪失感が疼き始めていたが、それも芽を出す前に駆逐されることに相成った。
そうして勝手口に到着した俺は、ぎょっと立ちすくむ。
そこにはそれなりの質量の荷物が置かれており――さらに、開いたドアの向こう側に大柄の人影が立ち尽くしていたのだ。
「なんだ、またいたのかよ」
アイリスがぶっきらぼうに呼びかけると、その人物――磐田は「はい」と一礼した。
「津留見家の方々にもご挨拶が必要かと思い、お待ちしておりました。先日はご挨拶もなく、失礼いたしました」
「いえいえ。そちらも仕事中だったんでしょうしね。丸く収まって、よかったです」
俺が自然に笑みをこぼすと、アイリスがすねた顔で振り返ってきた。
「んーだよ、ずいぶん気安いじゃん。またあたしの知らないとこで、こそこそ会ってたんじゃねーだろうな?」
「昨日の今日で、そんなスキはなかったよ。そっちこそ、磐田さんに送ってもらったんだね」
でなければ、これほどの荷物を運ぶことはできなかったことだろう。そちらには二台の大きなコンテナボックスと、丸められたラグマットが積み重ねられていたのだ。
「電車だとオープンに間に合わなそうだったから、しかたなくだよ。こんなやつと馴れあう気はねーさ」
と、アイリスは鼻と眉間に皺を寄せる。しかしやっぱりその青い瞳に、深刻な怒りの気配はなかった。
「じゃ、もう用事はないっしょ? さっさとクソ親父のところに戻ったら?」
「承知しました。では、またお会いする日まで、どうぞ息災にお過ごしください」
「は? これ以上、あんたと顔をあわせる機会なんてねーよ」
「いえ。私は最低でも週に一度、お嬢様のご様子を確認するように申しつけられましたので」
その言葉に、アイリスが少しだけ怒気をこぼした。
「んーだよ、それ? あたしは、聞いてねーけど?」
「はい。あくまでお嬢様が元気に過ごしておられることを確認するためであり、そちらの生活に干渉することはございません。どうぞお気になさらないでください」
アイリスが怒声をあげるより早く、俺が口をはさむことにした。
「週にいっぺん様子を見にくるぐらいだったら、かまわないんじゃないか? 向こうにしてみれば、心配なことは心配なんだろうしさ」
「……あんた、どっちの味方なの?」
「もちろん俺は、君の味方だよ。ただ、君の家族とも敵対しないですめば、それが一番さ」
アイリスは、口をへの字にした。
怒っているのではなく、すねている顔だ。よって俺は胸を撫でおろすと同時に、心を満たされることになった。
「それでは、私は失礼いたします。くれぐれも、お嬢様をよろしくお願いいたします」
「はい。よかったら、今度はうちの料理でも食べてください」
磐田は無言で一礼して、立ち去っていく。
そうして俺が勝手口のドアを閉めると、アイリスが同じ面持ちのままぐいっと顔を寄せてきた。
「やっぱなんか、あやしいなー。あんた、裏であいつと結託してるんじゃないだろーね?」
「結託なんてしてないよ。ただ、あの人は個人的に接触してきたって言っただろう? それであの人はお父さんに命令されただけじゃなく、君のことを心配してるんじゃないかって考えたんだよ」
アイリスはしばらく俺の顔を疑り深そうににらみつけてから、「へん」と鼻を鳴らした。
「あんなやつに心配されたって、背中がかゆくなるだけさ。もういいから、さっさと片付けてメシにしよーぜ」
「うん。それじゃあ一緒にその荷物を――」
「あんたは、足が悪いんだろ」
と、アイリスは大きなコンテナボックスを二つまとめて抱え上げた。
「わ、すごいね。重くないのかい?」
「服だの靴だの化粧品だのだから、大したことねーよ。あんたは、そいつをよろしくね」
あとに残されたのは、丸められたラグマットのみである。
俺は小脇にそいつを抱えて、頼もしいアイリスを追いかけることになった。
廊下を突き当たりまで進んで、アイリスの後から階段をのぼる。その途上で、俺はずっと胸に秘めていた言葉を語ることにした。
「あらためて、お疲れ様。また君と一緒に暮らせることができて、本当によかったよ」
「はあ? あたしは一日留守にしただけで、この家を出たつもりはねーけど?」
「うん。それはわかってるけどさ。でも、君が実家から戻れなくなるんじゃないかとか、色々と悪い想像をしちゃってたんだよ」
「へん。あたしは鎖で縛られたって、逃げ出してみせるさ」
アイリスの威勢のいい言葉を聞いているだけで、俺はますます幸せな心地になっていく。
そうして階上に到着したならば、俺はアイリスの横をすりぬけてフスマを開けてあげた。
アイリスは無言のまま入室し、ボストンバッグだけが置かれた部屋にコンテナボックスを下ろす。
俺もラグマットを畳に置いて、アイリスに笑いかけた。
「それじゃあ、朝飯にしようか。今日も一日、よろしくね」
そうして俺が、身をひるがえすと――俺の足が敷居をまたぐ前に、アイリスが背後からふわりと抱きついてきた。
アイリスのしなやかな両腕が俺の肩口から首をからめとり、温かな肢体が背中に押しつけられてくる。とたんに、俺の心臓がどうしようもなくバウンドした。
「ど、どうしたんだよ? 俺が何か、おかしなことでも言っちゃったかな?」
「……あたしはさ、あんたのおかげでクソ親父と向かい合う覚悟ができたんだよ」
俺の身体をしっかりと抱きすくめながら、アイリスがハスキーな声で囁きかけてくる。その声は、これまで聞いたことがないぐらいやわらかな響きを帯びていた。
「だから、あんたには死ぬほど感謝してる。……ありがとね、アスタ」
その言葉を耳にした瞬間、俺は眩暈を起こすぐらいに心を揺さぶられた。
何かとてつもない懐かしさと、それをも凌駕する熱い感覚が全身に駆け抜けていく。それで俺は衝動的に、俺の身を抱きすくめるアイリスの手に自分の手を重ねることになった。
「いいんだよ。俺のほうこそ、ありがとう……アイリス」
俺の背中で、アイリスの身体が小さく震える。
そしてアイリスの手がいったん俺の手を押しのけてから、ぎゅっと指先をからめてきた。
「ちぇっ。本当は、あんたから先に名前を呼ばせてやろーって決めてたのにな」
怒っているような甘えているような声で、アイリスはそう言った。
その言葉が、また俺の心をかき乱す。きっと俺は出会ってからひと月も経っているのに、一度として彼女の名前を呼んだことがなかったのだ。俺はその事実を、激しく後悔することになった。
「ごめんな、アイリス。俺はやっぱり、自分でもよくわからない感覚を引きずっちゃってるけど……君のことは、本当に大切に思ってるよ」
「あれだけカラダを張ってくれたのに、そんなの疑ってるわけねーじゃん。ほんと、アスタって変なやつだよなー」
アイリスはくすくすと笑いながら、俺の頭に頬ずりをしてきた。
それでもきっと彼女は、頑なに彼女の名前を呼ぼうとしない俺の振る舞いに心を痛めていたのだ。俺は精一杯の思いを込めて、彼女の指先を握り返すことしかできなかった。
俺はどうしても、正体の知れない懐かしさを払拭することができないが――それでも、ひとつだけ確かなことがある。
アイリスはアイリスであり、決して他の誰かではないのだ。彼女が誰かに似ているのだとしても、俺は彼女自身と向き合い、彼女と同じ道を歩いていきたかった。
(きっかけは、なんだってかまわない。俺は、君と一緒にいたいんだ)
猛烈にアイリスの顔を見たくなった俺は、強引に首をねじ曲げる。
すると、それに気づいたアイリスが腕の拘束をゆるめて、俺の肩を抱く格好で横合いから顔を覗き込んできた。
アイリスの青い瞳は、星のようにきらめいている。
その端麗な顔に浮かべられているのは、子供のようにあどけない笑みだ。
それで俺も心からの笑顔を届けると、アイリスはいっそう幸せそうに笑ってくれたのだった。
2026.7/27
今回の更新はここまでです。
なお、『異伝 魂の片割れ』は今回でひとまず完結となりますが、またいずれ続編を公開する予定です。
来月からは《ギャムレイの一座》を主人公にした『外伝 逸脱者の狂騒曲』を開始いたします。




