03 ハプニング
そうしてアイリスと出会ってから、三度目の定休日がやってきた。
アイリスがダンススクールに出向いてからは一週間が経ち、俺と出会ってからは半月以上の日が過ぎたことになる。あれこれ騒がしい日々であったものの、俺にとっては満ち足りた日々であった。
定休日ということで目覚ましをかけずに寝た俺は、窓の外から聞こえてくる雨の音に揺り起こされるようにして起床した。
枕もとの目覚まし時計を確認すると、時刻はまだ午前の七時過ぎだ。俺は早寝早起きの習慣が身についているために、定休日でもそうそう体内時計が乱れることはなかった。
(あのコはきっと、まだ朝寝を楽しんでるんだろうな)
アイリスの可愛らしい寝顔を妄想した俺は、朝から胸を高鳴らせてしまう。もちろん俺はアイリスの寝室に踏み込んだことなど一度としてなかったが、ダンスの自主稽古に打ち込んだアイリスが縁側で居眠りしているさまを目にしたことがあったのだ。それで彼女のあどけない寝顔が、俺の脳裏にくっきりと焼きつけられたわけであった。
(って、朝一番から何を妄想してんだよ)
自分で自分に呆れた俺は、シャワーで活を入れることにした。昨日はレジ締めにちょっと手こずり、シャワーをさぼって就寝してしまったのだ。この後も厨房で修行の時間が待っているのだから、身を清めずに足を踏み入れることはできなかった。
布団の上で身を起こした俺は、まず寝間着代わりのTシャツを脱ぎ捨てて、寝る直前まで着込んでいたタートルネックのインナーウェアに袖を通す。寝室からバスルームまでの短い道のりでも、アイリスに出くわす可能性がある限り横着は許されなかった。
(まあ、彼女に火傷の痕を隠すっていうのは、水臭いっていうか何ていうか……隠し事をしてるみたいで、ちょっと後ろめたい気分なんだけど……でも、こんなもんを見せたら心配をかけるに決まってるからな)
そんな思いでもって、俺は多少の迷いを抱え込みながら、火傷痕の隠蔽を継続させていた。
そうして衣装ケースから新しいインナーウェアと下着を引っ張り出した俺は、音をたてないようにフスマを開いて部屋を出る。さらに足音を忍ばせて、階段を下った。
二階はもちろん、一階も静まりかえっている。親父も週に一度の定休日は、ほどほどに朝寝を楽しむ習慣であるのだ。しかしもうあと三十分もすれば、また賑やかな時間がやってくるはずであった。
(今日の朝飯は、何にしようかな。昨日のまかないは洋食だったから、やっぱり無難に和食かな)
アイリスと暮らしているおかげで、日々の食事にもいっそうの気合が入ってしまう。脱衣所に到着した俺は冷蔵庫に残されている食材の分量を思い出しながら、脱ぎ捨てた衣服を洗濯カゴに放り込んだ。
雨のせいで薄暗かったため、俺は浴室の照明を灯してから足を踏み入れる。
この浴室だけは、以前とまったく様変わりしていた。親父が足をのばせるように浴槽も洗い場もたっぷりとスペースが取られており、壁の二面の腰の高さには手すりが設置されているのだ。このスペースを確保するために、かつて一階に存在した家庭用のキッチンは消失したわけであった。
しかしまた、俺が湯舟に浸かるのは冬場のみとなる。
厨房に入る前に昨日の汗を流すことができれば、俺には十分であった。
湯音をぬるめに設定して、俺は全身にシャワーのお湯をぶちまける。
あちこちが赤黒く変色した、カラフルな身体だ。右頬から首を伝って右胸と右肩、上腕をすっとばして右前腕と手の甲、背中の右半面、右腿と脛の側面――これが、すべての治療を終えた後も俺の身に残された傷痕であった。
(ま、それで親父の三徳包丁を救出できたんだから、安いもんさ)
そうしてボディシャンプーのほうに手をのばした俺は、思わず胸をどきつかせる。
そちらには、アイリスが持ち込んだ洗面用具の一式も並べられているのだ。
甘い花のような香りを有しているのは、こちらのシャンプーとなる。
ただし、このシャンプー単体の香りを嗅いでも、俺が陶然とすることはない。どうやらアイリスがこのシャンプーを使用することで、あの唯一無二の香りが生まれるようなのである。それは、アイリスがもともと有している香りとシャンプーの香りが何らかの化学反応を起こした結果であるはずであった。
(って、そんな真剣に考え込むなよ、気色悪い)
俺はひときわ過敏な嗅覚を有しているものの、異性の体臭に執着するフェティシズムなどは持ち合わせていない。しかしアイリスの香りだけは、俺の心を乱してならないのだ。アイリスの香りというものは、俺の中に眠る正体不明の懐かしさのようなものをひときわ強く刺激するのだった。
(出会って半月が過ぎても、そっちはまったく変わりないもんな。まったく、何が何やらさっぱりだぜ)
俺は雑念ごと全身の汚れを洗い流し、さっさと上がることにした。
脱衣所に出て、棚から引っ張り出したバスタオルで頭をわしゃわしゃとかき回す。シャワーの音から解放されると、また雨の音が耳につき始めた。
(今日はけっこう本降りみたいだな。午後からレッスンに向かうのが大変そうだ)
と、俺が性懲りもなくアイリスのことを考えたとき――ガチャリと硬い音が響いた。
反射的に横合いを振り返った俺は、思わず硬直してしまう。
脱衣所のドアの向こう側に、妄想ではなく現実のアイリスが立ちすくんでいたのだ。
どうやら彼女は俺よりも早起きをして、外出していたらしい。その手には、コンビニの白いビニール袋が下げられていた。
頭にかぶったお馴染みのキャップは、雨のせいで少し湿っている。ハーフトップにショートパンツという軽装の上に羽織っているのは、デニムジャケットではなくワッペンだらけのミリタリーシャツだ。ただし片方の肩をずりさげているため、上着としてはほとんど機能していなかった。
しかし、そんなことよりも何よりも――アイリスは、驚愕の表情で凍りついている。
俺は一糸まとわぬ素っ裸で、火傷の痕を余すところなくさらしているのである。しかも頭を拭いていたさなかであったため、首から下は丸出しの状態であった。
それでもアイリスより早々に我を取り戻した俺は、バスタオルで身体の前面を隠しながら「きゃー」ととぼけた声をあげてみせる。
アイリスはものすごい勢いで目を泳がせると、叩きつけるような勢いでドアを閉めた。
「ごめん! 誰かいるとは思ってなかった!」
ドアの向こう側から、アイリスの怒鳴り声が聞こえてくる。
俺はひとつ息をついてから、「うん」と答えた。
「驚かせちゃって、ごめんな。ちゃんとカギを掛けるべきだったよ。こんな朝っぱらから、どうしたんだい?」
「コ、コンビニに行く前に洗濯機をかけておいたから、乾燥機に移そうと思ったんだよ!」
どうやらアイリスは、俺の想定よりも遥かに早起きしていたようである。
そしてこちらの脱衣所はけっこう防音がしっかりしているため、洗濯機をかけても眠りを妨げられることがないのだ。それで彼女にも、いつでも自由に使ってかまわないと言い渡していたのだった。
「それは俺も気づかなかったよ。洗濯機の中身は覗いてないから、心配しないでくれ」
「そ、そんな心配、誰もしてねーよ!」
どすどすと廊下を踏み鳴らす音が遠ざかっていき、それが階段をのぼっていく足音に変化していく。それを聞きながら、俺は手早く衣類を身につけた。
(本当に、悪いことをしちゃったな。まあ、アイリスだったらきっとすぐに受け入れてくれるさ)
アイリスは、こんなことで他者に悪い目を向けたりすることはない。俺はそのような心配をして、火傷の痕を隠していたわけではないのだ。ただ、根っこが優しいアイリスに心配をかけたくなかったという一心であった。
そうしてタートルネックのインナーウェアとジャージのボトムを着込んだ俺は、ドライヤーで適当に頭を乾かしたのちに自分の部屋へと戻る。
すると、俺が腰を落ち着ける前に「おい」という声がフスマの向こうから聞こえてきた。
俺が「どうぞ」と応じると、さっき見たままの姿をしたアイリスが部屋に踏み入ってくる。
アイリスはキャップのつばで目もとを隠したまま、座布団に膝を折った。
「やあ、さっきはごめんな。てっきり君はまだ寝てるかと思ってたんだ」
「……あたしは居候なんだから、あんたが謝る筋合いじゃねーだろ。そもそも、覗き見したのはこっちなんだからな」
「うん。これが逆の立場だったらと思うと、ぞっとするよ。君はくれぐれも、カギを掛け忘れないでくれよな」
俺は努めて明るい声を返したが、アイリスのしなやかな肢体からたちのぼる重苦しい空気に変わりはない。そして彼女は目もとを隠したまま、ぽつりとつぶやいた。
「……あんたはやっぱり火傷の痕を見られたくねーから、家ん中でもそーゆーカッコをしてんの?」
「いや、自分では気にしてないつもりなんだけど……なるべく、人を驚かせたくないからさ」
「じゃ、あたしが来る前は隠してなかったの?」
アイリスの声は、明らかに真剣な響きを帯びている。
俺はどのように答えたものかと、思い悩んでしまったが――しかし、アイリスに嘘はつきたくなかった。
「……うん。店では前からああいう格好だったけど、家では隠してなかったよ。これまでは、親父しかいなかったしね」
「じゃ、やっぱりあたしに隠してたのか」
「うん。ただそれは、君を心配させたくなかっただけだよ。気を悪くさせたんなら、ごめん」
「だから、あんたが謝る筋合いじゃねーだろ」
そう言って、アイリスは少しだけ顔を上げた。
キャップのつばの陰で、青い瞳が火のように燃えている。
そしてそこには、うっすらと涙がにじんでおり――それはおそらく、悔し涙であった。
「ご、ごめん。本当に、君を信用してないわけじゃないんだ。それだけは信じてくれ」
俺が思わず膝立ちになって身を乗り出すと、アイリスは可愛らしく口をとがらせた。
「……信用って、なんだよ?」
「君はこんなことで、俺におかしな目を向けたりはしないだろうってことさ。でも、君は優しいから、こんな傷痕を見ると心配してくれるだろう? それが申し訳ないと思っただけなんだよ」
アイリスは同じ目つきと同じ表情のまま、俺をにらみつけている。
それらのすべてに心をかき乱されながら、俺はいっそう身を乗り出した。
「あ、あのさ、俺は右側からガス爆発の炎を浴びたみたいで、右耳なんかは溶けちゃったんだ。今からそれを見せるから、心の準備をしてもらえるかい?」
アイリスは軽く目を見開いたが、何も答えようとはしない。
それを了承の合図と見なした俺は、アイリスに右の横顔を見せながら髪をかきあげた。
アイリスが息を呑む気配が伝わってくる。
俺の右耳は外耳が半分ぐらいの質量しか残されていないし、失敗した餃子のようにしぼんでしまっているのだ。さらには右のこめかみあたりまで皮膚が赤黒くただれており、そこからは毛髪も生えなくなっていた。
「こんな感じだね。これでもう、君に隠してることは何もないよ」
俺はアイリスが心を落ち着けるための時間を取ってから、髪をおろして彼女のほうに向きなおった。
すると、アイリスの頭からキャップが消え失せており、悔し涙がぬぐわれていた。その青い瞳はこれまでと異なる強い輝きをたたえて、一心に俺を見つめている。
「……あんた、いきなり何やってんの?」
「うん。実は俺も、君に隠しごとはしたくなかったんだ。きっと君なら、ありのままの俺を受け入れてくれるだろうからさ」
俺は精一杯の思いを込めて、アイリスに笑いかけた。
「だからこれからは、家では好きな格好をさせてもらうよ。梅雨が明けたらもう夏だし、俺もハーフパンツが恋しくなる頃合いだったんだ」
アイリスはきゅっと唇を噛んでから、いくぶんかすれた声をあげた。
「ねえ。その耳、マジで痛くないの?」
「うん。耳だけじゃなく、どこも痛くないよ。左足首も深く曲げるとひきつるような感覚がするだけで、痛いわけじゃないんだ。走れないのは、転ぶのをさけるためだね」
「あんた……マジでひどいケガだったんだね」
「うん。退院するのは一年がかりだったし、最初の何ヶ月かは昏睡状態だったんだよ。でも、後遺症は残ってないし、今はすっかり健康体さ」
そんな俺が引きずっているのは、得体の知れない虚無感と喪失感のみである。
しかしそれもアイリスのそばにいれば、すっかり忘れることができた。
「……あんた、そんな可愛らしい顔して、すっげー強いんだな」
アイリスがしみじみと息をついたので、俺は思わず「あはは」と笑ってしまった。
「強いんじゃなくて、鈍いだけなんじゃないかな。あと、基本的に俺は調理さえできれば満足だから、あとのことはどうでもいいんだよ」
「……うん。あんた、すっげー楽しそうに働いてるもんな」
そんな風に言いながら、アイリスはちょっともじもじした。
「だから、あたしは……それがちょっと、悔しかったんだ」
「悔しい? どうして?」
「あんたは好きな道を真っ直ぐ進んでるのに、あたしは二ヶ月も足踏みしてた。だから、どうしても我慢できなくなって……あのスクールに押しかけたんだよ」
その言葉は、思わぬ勢いで俺の心を圧迫した。
そしてその圧迫感は、瞬時に充足感に変容する。俺の心はアイリスの思いで満たされて、胸が苦しくなるほどであった。
「……そっか。実は俺もダンスをしている君の姿を見ていると、もっと頑張らなきゃって気持ちにさせられるんだ。君は本当に、楽しそうに踊ってるからさ」
「んーだよ。調子のいいこと言ってんじゃねーよ」
「本当さ。君に嘘をついたりはしないよ。だって――」
虚言は、罪だろう?
そんな意味のわからない言葉を、俺は慌てて呑み下した。
「だって、そんなことをする必要はないからね。俺はいつでも、本音で語りたいと思ってるよ」
「……そのわりには、今みてーにごにょごにょ口ごもるじゃん」
「そ、それはちょっと、おかしな感覚に邪魔されるんだよ。でも、君に嘘や隠し事はしないって約束するよ」
「……あたしは隠し事だらけだけどな」
「そんなのは、必要なときに打ち明けてくれればいいさ。この前は苗字だって教えてくれたしね」
アイリスは「へん」と鼻を鳴らすと、おもむろにミリタリーシャツを脱ぎ捨てた。
不意打ちをくらった俺は、それだけで心臓を騒がせてしまう。しかしアイリスはいったい何を思ったのか、ショートパンツに巻いていたベルトのバックルに手をかけて、勢いよくしゅるりと引き抜いてしまった。
「じゃ、あたしも素っ裸を見せるから、それでチャラな」
「はあ? い、いきなり何を言ってるのさ。そんな真似をする必要はないよ」
「うっせーなー。それじゃーあたしの気が済まねーんだよ」
アイリスはべーっと舌を出してから、ショートパンツのボタンに手をかける。
半ばパニック状態に陥った俺は、大慌てでアイリスの手首をつかみとることになった。
「や、やめろってば! そんな真似をされたら、いくら何でも理性を保てないぞ?」
「へー。そしたら、どーなるんだよ?」
と、アイリスはまるでキスでもねだるかのように、俺の鼻先で小首を傾げる。
その目はいくぶん細められて、口もとにはうっすらと笑みがたたえられている。それはまるで、小悪魔のように挑発的な表情であった。
だが、その青い瞳に浮かべられているのは、母猫に甘える子猫のように無邪気で無防備な眼差しだ。
どうしてこのように相反する表情と眼差しを同時に浮かべることができるのか、俺にはまったく理解が及ばない。
そして、急接近したために彼女の甘い香りがいっそうの勢いで俺を包み込み、手首を握りしめた手の平からは彼女の温もりが伝わってきて――あらゆる方向から猛撃をくらった俺は、それからしばらく情緒がしっちゃかめっちゃかであったのだった。




