04 腐れ縁
「あたしもアイリスちゃんとお泊まりしたいなー!」
玲奈がそんな風に言い出したのは、俺とアイリスが風呂場でとんだハプニングに見舞われた日の翌日のことであった。
六月の終わりがじわじわと迫ってきた、金曜日の夜である。閉店後の片付けに取りかかっていたアイリスは、「はあ?」と小首を傾げた。
「なんだよ、そりゃ? あたしは、ただの居候だぞ?」
「うん! でも、あたしが最後にお泊まりしたのって、小学生のときだからさ! だんだんアイリスちゃんのことが、羨ましくなってきちゃったの!」
世にも無邪気な顔で、玲奈はそのように言いつのった。
「そんでもって、アイリスちゃんとももっと仲良くなりたいしさ! お泊まりしたら、一挙両得! アイリスちゃんは、イヤかなー?」
「あたしはどーでもいいけど、ここはおっちゃんの家だろ?」
「そうだよね! おじさん、あたしもお泊りしていいかなー?」
「おう! なんでも好きにしてくんな!」
「やったー! じゃ、明日の土曜日にお泊まりして、そのまま日曜日はお昼から働くねー!」
そこでようやく、俺は「おいおい」と声をあげることになった。
「いちおう俺も、この家の住人なんだけどな。俺の意見は聞く耳もねえのかよ?」
「うん! 残念ながら、扶養家族のあすたちゃんには発言権がないの! あたしの目当ては、アイリスちゃんだしね!」
「そうかそうか。ひさびさにオムライスでも作ってやろうかと思ったけど、発言権がないならしかたねえな」
「わー、うそうそ! 恋愛感情はカケラもないけど、あすたちゃんのことも大好きだよー!」
俺と玲奈のしょうもないやりとりに、皿洗いを終えたアイリスが肩をすくめた。
「あんたら、マジで仲がいいよなー。最初はぜってーつきあってるんだと思ってたよ」
「あはは! だから、出会ってすぐに念押ししたんだよー! 何度も何度も言ってる通り、あたしたちは家族みたいなもんだからさ! この距離感って、何かと誤解を招きやすいんだよねー!」
「んー。そんでも、家に泊まる機会はなかったのか」
「うん! なんせご近所さんだから、わざわざ泊まる理由がなかったんだよねー! でも今は、アイリスちゃんがいるからさ!」
玲奈の屈託のない笑顔に、アイリスはちょっと照れ臭そうな苦笑を浮かべた。
「あたしなんかとカラんで、何がおもしれーんだよ? あんたも、たいがい変わりもんだよなー」
「あはは! 類は友を呼ぶの法則で、変わりものが集まっちゃったのかもねー!」
玲奈は、すっかりはしゃいでいる。週に三回はアイリスとともに働いているが、仕事中はそうそうおしゃべりをするいとまもないため、こんな話を思いついたのだろう。玲奈もまた、アイリスの人間的魅力に心をひかれているはずであった。
そんな二人が一夜をともにするというのは、俺にとっても微笑ましい限りであるが――ただ、心の片隅にはちょっと落ち着かない気分が残されている。二人はきっと同じ部屋で眠るのだろうから、俺のいない場でも親睦を深めることになるのだった。
(まあ、玲奈だったらおかしなことにはならないだろうけど……できれば、俺の恥ずかしい過去なんかで盛り上がってほしくないもんだな)
そんな思いを胸に、俺はその日の仕事を終えることになった。
◇
一夜が明けて、土曜日である。
土曜日も、アイリスはレッスンに出向く日取りとなっている。ただしレッスンの時間は午後の三時から六時までで、もっとも仕事に影響の少ないスケジュールであった。
「土曜日は先生もいないんだけど、その時間は自由稽古なんだよ。自分の好きに練習できるし、センパイからもアドバイスをもらえるってわけさ」
昼の営業を終えて遅い昼食を口にしながら、アイリスはそのように説明してくれた。これからすぐにレッスンということで、その青い瞳はいつも以上に意欲を燃えさからせている。
「イベントの日も迫ってきてるし、いよいよ気が抜けねーよ。振り付けなんかはソッコーで覚えたけど、メンバーと呼吸を合わせるのが大変でさ」
「そうか。大変そうだけど、楽しそうで何よりだね。俺たちも、本番の日を楽しみにしてるよ」
「おー。店を閉めてまで観にきてくれるんだから、責任重大だよなー」
アイリスはいよいよ力強い表情になりながら、生姜焼きの最後のひと口をかきこんだ。そうして合掌して「ごちそうさま」の形に唇を動かしたならば、すぐさま立ち上がる。時刻は、すでに午後の二時半であるのだ。
「あ、食器は俺が片付けておくから、もう出発しちゃいなよ」
「えー? でも、これだって仕事の内だろ?」
「そこは、持ちつ持たれつでいこうよ。俺も急ぎの用事があったら、君に協力をお願いするからさ」
俺が心からの笑顔を届けると、アイリスは口もとをごにょごにょさせてから、俺の鼻を指先でぴんと弾いた。
「サンキュ。じゃ、いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
事前に準備していたトートバッグをひっつかみ、アイリスは居間を飛び出していく。すると、ひと足早くソファベッドでくつろいでいた親父が笑い声をあげた。
「ようやくお前らも、油が回ってきたみたいだな。さては、裏で何かあったか?」
「そ、そんなんじゃねえよ。ゲスの勘ぐりはやめやがれ」
俺はただ、アイリスに素っ裸を見られただけのことである。しかし、あの日を境にアイリスの態度はずいぶん打ち解けたように感じられた。
(俺のほうも隠し事がなくなって、スッキリしたもんな。やっぱり隠し事なんて、するもんじゃないや)
そうして俺は三人分の食器を厨房に運び込み、アイリスの分まで皿洗いに励む。
それから居間でひとくつろぎしたのちに夜の仕込みを開始すると、早々に玲奈がやってきた。
「お疲れさまー! 今日は仕事の後もよろしくねー!」
元気いっぱいに挨拶をする玲奈は、アイリスに負けないぐらい巨大なボストンバッグを抱えている。その姿に、俺は「おいおい」と声をあげた。
「なんだよ、その大荷物は? たった一泊するだけで、ずいぶん大がかりじゃねえか」
「そりゃー寝袋だけで、けっこうかさばっちゃうしねー! あとは、夜のお楽しみアイテムも山盛りだしさー!」
「夜なんて、どうせすぐに寝ちまうだけだろ。いったい何をするつもりだよ?」
「むっふっふ。それは夜のお楽しみー! 荷物はおうちのほうに置かせてもらうねー!」
玲奈は野原を跳ね回る野ウサギのような足取りで客席を横断し、障子戸を開いて荷物を放り込む。玲奈も時には昼の営業に参加していたので、食事をするために居間までは踏み込む機会があった。
「……そういえば、店を建て替えてからは二階まで上がる機会もそうそうなかったよな」
「うん。その前から、あんまり機会はなかったけどねー」
言われてみれば、その通りである。玲奈は幼少期から『つるみ屋』に入り浸っていたが、おおよそは店内と居間だけで完結していたのだった。
そもそも俺からして、寝室というのは寝るだけの場所であったのだ。それでも昔はテレビやDVDプレイヤーなどを所持していたものであるが、焼失したのちに買い替えるほど活用していたわけでもなかった。
(つくづく、俺は無趣味な人間だからなぁ)
テレビやDVDプレイヤーも親におねだりしたわけではなく、常連客からのもらいものである。あとは学校の友人からマンガや映画のDVDソフトを借りていたぐらいで、自ら買い求めた記憶はない。当時から携帯端末も所持しておらず、ゲームの類いはからっきしであった。
だいたい俺は小学生の中学年ぐらいから厨房にこもっていたので、放課後や休日に学校の友人と遊んだ経験も数えるぐらいしか存在しないのだ。時には放課後に居残って友人たちとダベることもあったが、そこから夜遊びに出向くといった発展を見せることはなかった。
俺はそこそこ社交的な人間であると自認しているが、そのわりに交友関係はごく狭い。どんな環境でもそれなりに順応して孤立することもない代わりに、親友と呼べるような相手はひとりもいないのだ。入院中は何名かのクラスメートがお見舞いに来てくれたものの、学校を退校したのちにはすべての関係が途絶えていた。
「それはたぶん、あすたちゃんがスマホとかを持ってないからだろうねー。今ではコレが、なくてはならないコミュニケーションツールだからさー」
いつだったか、玲奈はそんな風に言っていた。
言われてみれば、確かにその通りなのだろう。余人が俺に交流を求めるには、店に電話をかけるか来店するかしかないのである。俺自身、かつてのクラスメートたちに電話を入れようなどと考えたことはないのだから、俺たちの関係は消滅するべくして消滅したわけであった。
(玲奈なんかも、中学に入ってからはちょっと疎遠になってたもんな。もしもあの時期に玲奈が『つるみ屋』に来てなかったら、そのまま縁が切れてたのかな)
時にはそんな思いに見舞われることもあるが、あまり現実味をもって思い悩むことができない。何せ俺たちはそれぞれ母親の腹にいた頃からのつきあいであるため、家族も同然であるのだ。玲奈と疎遠になるとしたら、それこそ玲奈が結婚するときぐらいだろうとしか想像がつかなかった。
(ま、俺にとって自分より大切だって思える相手は、玲奈と親父しかいなかったんだもんな)
俺がそんな想念にひたっていると、エプロンを着込んでいた玲奈がにぱっと笑った。
「あたしなんかにそんな熱い眼差しを向けて、どうしたのー? アイリスちゃんがいたら、誤解されちゃうよー?」
「う、うるせえな。いちいちあのコを引き合いに出すんじゃねえよ」
「ふふ。だって、やっとあすたちゃんに春が来たんだもん! あたしも全力で応援するからねー!」
「だから、お前に言われたくねえってんだよ。人のことより、自分の心配でもしてやがれ」
「あたしは、いいんだよ! まずは、あすたちゃんの明るい行く末を見届けないとねー!」
実のところ、俺は玲奈のことを妹のように思っているが、あちらはあちらで俺のことを弟のように思っているのだ。しかしまあ、精神年齢で玲奈に負けていることは認めざるを得なかった。
そんなこんなで午後の六時に至ったならば、夜の営業の開始である。
アイリスも、ちょうどレッスンを終えた頃合いだ。律儀なアイリスは大急ぎで帰路を辿り、三十分後には戻ってくるだろう。それを想像しただけで、俺は胸が高鳴ってしまった。
(……玲奈とあのコが仲良くなれて、本当によかったよな)
もしも玲奈とアイリスが仲違いをしていたならば、俺はとんでもない板挟みに見舞われていたことだろう。まったく方向性は異なれど、俺にとっての二人はどちらもかけがえのない存在であるのだ。どちらか片方のためにもう片方を二の次にすることなど、俺には決して不可能な話であった。
(でも……十九年来の幼馴染と出会ってひと月足らずの相手を同列に考えるってのは、どうなんだろうなぁ)
仕事に集中しながらも、俺は頭の片隅でそんな考えにとらわれてしまう。
それでついつい、玲奈のほうに目をやると――ちょうど空いた食器を運んでくるところであった玲奈と、目が合った。
玲奈はしばしきょとんとしてから、にこりと笑う。
悔しいことに、それは包容力にあふれかえった姉のごとき笑顔に見えてならなかったのだった。




