02 新たなサイクル
その翌日、アイリスはダンススクールの入会手続きをするために朝から出かけていった。
そのダンススクールとやらは、ふた駅離れた場所に存在するのだという。よってアイリスも以前はそちらの駅周辺を根城にしていたが、こちらの駅の近くにティッシュ配りのアルバイトの事務所があったため、その給料を受け取った帰りがけに俺と出くわしたのだという話であった。
そのティッシュ配りの連中はアイリスを不当な薄給でこき使っていたのだから腹立たしい限りであるが、そいつらがアイリスを雇っていなければ俺たちも出会うことがなかったのだから、俺はすべての運命に感謝しなければならなかった。
「ただいま。無事に入会できたよ。あたしがおかしな騒ぎでも起こさねー限りは電話が入ったりもしねーはずだから、心配しないでね」
勤務開始の十分前に戻ってきたアイリスは、いつも通りの凛々しい面持ちでそんな風に告げてきた。
ただしその青い瞳は、いつも以上に明るく輝いている。そうしてアイリスが喜びの思いをあらわにしていれば、俺も幸福な限りであった。
「おつかれさん。でも、レッスン代とかは本当に大丈夫なのかい?」
親父が気安く声をかけると、アイリスは同じ面持ちのまま「うん」とうなずいた。
「入会金は一万円で、月のレッスン代も一万二千円だからさ。それを払えるのも、このお店のおかげだよ」
その給料を計算しているのは俺なので、彼女の経済状況は把握している。彼女はこの十日ばかりで八日働き、総支給額は73440円、食費と住居費をさっぴくと手取りは64440円であった。
「で、この先はちょいちょい仕事を休むことになるわけだよな?」
「うん。でも、あたしが目当てにしてるレッスンは夕方がメインだからさ。空いてる時間は、いつでも働けるよ」
「それなら、言うことはねえさ。じゃ、今日もよろしく頼まあ」
「うん。それじゃあ、着替えてくんね」
アイリスは山猫を思わせる足取りで、戸板の向こうに引っ込んでいく。
すると、オニオンコンソメスープの味を見ていた親父が愉快げに笑った。
「すました顔して、子供みてえにはしゃいでやがるな。あんなに喜んでもらえたら、こっちまで嬉しくなっちまうよ」
「まったくだね。……親父があのコのお願いを聞き入れてくれて、俺も感謝してるよ」
「お、偉そうに身内づらか? だったらさっさと、籍でも入れちまいな。そうしたら、あの娘さんも堂々とこの家の住人になれるんだからよ」
「ふ、ふざけたことばっか言ってんじゃねえよ。あのコの前でそんなこと言ったら、ぶっとばすぞ」
そうして俺たちが騒いでいると、アイリスが早々に戻ってきた。
「何を騒いでんのさ? あんたら、ほんと仲がいいね」
アイリスはすっかりお馴染みになったタンクトップとスウェットパンツの姿で、頭にはバンダナを巻いている。厨房に入ると油や煙がしみてしまうため、お気に入りのキャップから変更されたのだ。そして靴だけは、こちらで支給したデッキシューズであった。
「調理着だったら余ってるけど、この先もその格好でいいのかい?」
アイリスはエプロンを装着しながら、「うん」とうなずいた。
「これはどっちも部屋着だったから、汚れたってかまわねーよ。それに、みんなとおんなじカッコをするのは、恐れ多いからさ」
「はは。こんなもんは作業着なんだから、恐れ入る必要はねえよ」
「でも、あたしは料理を作ってるわけじゃねーし、やっぱ恐れ多いよ」
アイリスは手早くバケツと雑巾の準備をして、客席のほうに回っていく。開店前の、テーブルの雑巾がけだ。もはやアイリスは何の指示を送らなくとも、すべての業務を把握していた。
(本当に、すっかり馴染んだよな)
自分の仕事に集中しながらも、俺は時おり大きな喜びに心を満たされる。自分にとってもっとも大切な空間である『つるみ屋』でアイリスが働いているというだけで、俺にとっては至上の喜びなのであった。
勤務九日目ともなれば、もう常連のお客とはすっかり顔馴染みである。しかしアイリスはお客に対して一線を引いているようで、どれだけ気安い言葉をかけられても親父や玲奈に対するように気安い態度を返すことはなかった。
かといって失礼な態度を取ることもなく、食堂の従業員としてきっちり対応しているように見受けられる。彼女はずいぶん派手な外見をしているし、性格もなかなかに荒っぽかったが、きっと根っこは実直なのだろう。それがまた、親父や玲奈の評判を上げると同時に、俺を幸福な心地にさせるのだった。
「アイリスちゃんって、ほんといいコだよねー。あすたちゃん、逃がしちゃダメだよー?」
夜の部で合流した玲奈は、アイリスに聞かれないタイミングでそんな言葉を俺に届けてきた。
「だから、そんなんじゃねえって言ってるだろ。お前こそ大学に入って、なんか浮いた話はないのかよ?」
「うーん。今のところは、同性の交流を広げるので手一杯かなー。なんせ、若い殿方とふれあうのは三年ぶりだしねー」
玲奈は私立の女子高校に通ったのち、四年制の大学に進学したのである。いったいどのような職業を目指しているのか、外国語学部とやらを専攻しているとのことであった。
「そういえば、アイリスちゃんって日本語以外は使えたりするの?」
と、仕事の切れ間にはアイリスにそんな疑問をぶつけていた。
アイリスは気を悪くした様子もなく、「いんや」と肩をすくめる。
「こんなツラだから誤解されっけど、あたしは日本生まれの日本育ちって言ったろ? 英語もなんも、からっきしだよ」
「そっかー。あわよくばレポートを手伝ってもらいたかったけど、残念!」
「あたしも英語の歌詞とか聞き取りてーんだけどな。もうちっと、真面目に勉強しとけばよかったわ」
出会って十日ばかりも経過したことで、アイリスと玲奈もいっそう気安い関係になっている。二人がおそろいのエプロンをつけて仲良く働いている姿というのも、俺にとっては心の弾む一因であった。
そして、その翌日からはアイリスの勤務シフトが不規則になる。
週に五日はダンスのレッスンを入れて、空いた時間に『つるみ屋』で働くという形態になるのだ。
ただしその内の一日は定休日の木曜日であったし、火曜日は午後八時まで、月曜日と金曜日は午後七時まで、土曜日は午後六時までという日取りで、出陣するのはいずれも昼の営業を終えた後となる。あまり詳しくは聞いていないが、目当ての先生が直接レッスンしてくれる時間と自由稽古の時間にフルで参加して、こういったスケジュールになるようであった。
まあ、こちらとしては昼の部に毎日出てもらえるだけでありがたい限りであったし、夜の部も完全に休む日は一日もなかったので、これまたありがたい限りである。『つるみ屋』における夜の部の後半戦は半分がた居酒屋のごとき様相を呈し、それはそれで忙しいのだ。また、人手が増えれば俺が調理に関われる時間が増えるため、もっともありがたいのは俺自身であった。
なおかつ、アイリスがレッスンから戻ったのちに働く際などは、疲れた姿を見せるどころかいっそうの活力をみなぎらせている。きっと心の充実が、アイリスにいっそうの力を与えているのだ。それで俺の幸福な心地も、上昇するいっぽうであった。
ちなみにアイリスは昼の営業の前にも、毎日二時間は自主稽古をしている。津留見家の庭先で、思うさま生命力を爆発させているのだ。なおかつ先日の定休日にはダンススクールの帰りがけに大きなビニールシートを購入しており、それを庭に敷くことでいっそう本格的な稽古をすることが可能になったのだ。それをこっそり見物させてもらうのが、俺のひそかな楽しみになっていた。
ただし六月の中旬を過ぎると、いよいよ梅雨入りして天候の悪い日が多くなってくる。それでアイリスが気落ちしていると、親父がいつもの調子で声をかけた。
「だったら、家の中で稽古すりゃいいじゃねえか。俺はちっともかまわねえぞ」
「えー? でも、二階でバタバタ騒ぐのは申し訳ねーし、床が抜けるんじゃねーかって心配になっちゃうなー」
「だったら、一階の部屋を使えばいいじゃねえか」
親父はそのように言っていたが、一階には居間と仏間しか存在しない。居間はソファベッドやテーブル類でいっぱいであるし、仏間も母親の仏壇が新調されていた。
「仏壇を蹴っ飛ばしたりしなきゃ、仏間でかまわねえよ。四畳半じゃ、狭苦しいかい?」
「んなこたねーけど、仏壇の前でダンスのレッスンって不謹慎じゃね?」
「はは。あいつだったら、面白いもんが見物できて大喜びだろうさ」
斯様にして、親父は自分のルールの中で生きているのである。
それでアイリスが困惑の表情を見せていたため、俺がフォローすることにした。
「俺も問題ないと思うよ。よかったら、母さんにも君のダンスを見せてやってくれ」
そうして雨の日には、一階の仏間でダンスの稽古が行われることになった。
畳がすりきれてしまうことを懸念して、今度はヨガマットなるものが持ち込まれる。普段は丸めて仏間の片隅にひっそりと保管して、稽古の際には足もとに敷き詰めるのだ。そうして津留見家にアイリスの私物がじわじわと増えていくことに、俺はそこはかとない喜びを噛みしめることになった。
そしてその日をきっかけに、アイリスも毎日仏壇に線香をあげてくれるようになった。アイリスはこういう日本式の作法に馴染みがなかったそうなので、俺が手順を教えた次第である。
そうしてアイリスがかしこまった面持ちで線香をあげている姿を目にすると、俺は何だか胸が詰まってしまった。
仏壇には、玲奈が新しく準備してくれた写真が遺影として設置されている。俺と親父はいっさいの家財を焼失してしまったが、玲奈の家には思い出の写真がどっさり残されていたのだ。写真の中の母親は、俺の記憶にある通りのやわらかな笑みを浮かべていた。
「……あんた、母親似だよな」
「うん、まあ、ここまで顔立ちは整ってないけどね」
「よく言うよ。女みてーに可愛いツラしてさ」
アイリスはいつも通りの素っ気ない口調であったが、それでまた俺は胸を詰まらせることになった。アイリスの口調はとても自然であり、俺の顔の火傷の痕などはまったく意識していないような様子だったのである。
(まあ、十日以上も一緒に過ごしてれば、さすがに見慣れるか)
そんな風に考えても、俺の胸は詰まったままである。
俺は火傷の痕などまったく気にしていないつもりであったが、やっぱりありのままの自分を受け入れてもらえるというのはありがたい限りであったし――その相手がアイリスであれば、いっそうの喜ばしさであったのだった。
◇
そうしてその後も賑やかに日々が過ぎていき、週が明けて火曜日のことである。
アイリスがダンススクールに入会してから、五日目のことだ。その日もレッスンに出向いたアイリスは午後の七時半頃に戻ってきて、閉店時間までしっかり働いてくれた。
ただしそういう日は夜の部の勤務時間が短くなるため、食事は営業終了後となる。俺が余った具材で麻婆豆腐とチャーハンを仕上げると、アイリスはそわそわしつつ頭をかいていた。
「なんか、あたしひとりのために申し訳ねーよなー。あんたとおっちゃんは、いっつも晩メシを食わねーしさ」
「俺たちは、適当なつまみ食いですませちゃうからね。もうそういうサイクルになってるから、気にしないでくれよ」
親父のくつろぎタイムをお邪魔するのは申し訳ないということで、こういう日のアイリスは客席で遅い夜食を口にする。それを差し向かいで見物できるのは、俺の新たな楽しみとなっていた。
どんなときでも食前の挨拶を忘れないアイリスは律儀に合唱して、「いただきます」という形に唇を動かす。それから麻婆豆腐を口にすると、その青い瞳がたちまち明るく輝いた。
「美味いな、これ。あんた、中華もいけんのかよ?」
「親父は我流だし、俺も見様見真似だけどね。気に入ってもらえたんなら、何よりだよ」
「うん、美味いよ。あたし的には、もうちっと辛くてもいいけどなー」
意外なことに、アイリスは辛い料理も好んでいるようである。
ただ、それがどうして意外であるのかは、俺にもわからない。俺は彼女が玲奈のガトーショコラに瞳を輝かせていたときにも、同じ違和感を覚えていた。
(でもそんなのは、俺の勝手な思い込みだからな)
俺は雑念を振り払い、話題の転換を試みた。
「今日のスクールはどうだった? まあ、素人の俺が聞いてもよくわからないだろうけどさ」
「うん。今日も先生がチョクで面倒見てくれる日だったから、めっちゃ充実してたよ」
と、アイリスはいっそう瞳を輝かせた。
「ま、あたしなんかはそれこそ我流の素人だけど、運動神経にはそこそこ自信があっからさ。バネやバランスや反射神経が並じゃねーって、先生にも感心されてるよ。それで今度、ステージに立たせてもらえることになったんだ」
「え? こんな入会してすぐ、ステージに?」
「うん。なんか、スクール同士の交流会みたいな、身内のイベントなんだけどさ。初級者のチームが前座に出る予定があって、あたしもその中に組み込まれたんだよ」
どうも今日はひときわ機嫌がいいように思えたのだが、そんな裏事情が存在したわけである。アイリスの青い瞳は星のように輝いており、俺は何だか涙ぐんでしまいそうだった。
「それはすごいね。俺なんかでも、観に行けるのかなぁ?」
「えー? あんた、ダンスなんか興味ないっしょ?」
「そんなことないよ。君の稽古だって、いつも見学させてもらってるだろ?」
「あれはだって、エロ目的じゃん」
「そ、そんなんじゃないよ! ダンス中は、そんなことも忘れてるさ! ……あ、いや、普段からそういう目で見てるわけじゃないけど……」
俺が存分に取り乱すと、アイリスは悪戯な子猫のように笑った。
「悪い。あんたのリアクションが面白いから、ついからかっちまうんだよ。でもマジな話、交流会は七月頭の土曜だからさ。あんたは、仕事っしょ」
「土曜日か。それじゃあ、臨時休業にしてもらおうかな」
「はは。あんた、ジョークが下手だねー。……え? 冗談っしょ?」
「いや。そうやって好きなときに休めるのが、個人経営の強みだからね。きっと親父や玲奈なんかも見に行きたがるんじゃないかな」
アイリスはきょとんとした顔で、俺の顔をまじまじと見返してきた。
「……あんた、マジで言ってんの?」
「うん。何かおかしいかな?」
「あー、あんたがおかしなやつってことを忘れてたよ」
と、アイリスは猫がくすぐったがっているような仕草で自分の顔を撫で回した。
ただその青い瞳は、いっそう明るくきらめいているように感じられる。それで俺も、先刻の羞恥心を幸せな気持ちで払拭することができた。
「まあ、あんたの好きにすりゃいいけどさ。そんなことで店の評判が落ちても、責任取れねーぞ?」
「これぐらいでうちの屋台骨は揺らいだりしないよ。ステージ、楽しみだね」
「マジで身内のお披露目会みたいなもんなんだから、あんま期待すんなよなー? なんせ、あたしがいきなり出場できるようなレベルなんだからさ」
「いやいや。君のダンスは、本当にすごいと思ってるよ。あれで我流だなんて、信じられないぐらいさ」
「あんなん、大したことねーって。それこそ、素人の動きをフィジカルでカバーしてるだけさ。だから、レッスンできちんと技術を学べるのが、楽しくってさ」
と、アイリスはふいに無防備な笑顔をさらす。これは俺にとって数日の一度の、至福の瞬間であった。
「そんで、これならプロも夢じゃねーって、そこまで言ってもらえたんだよ。ま、半分がたはお世辞だろーけどさ」
「そんなことないよ。君が尊敬する先生だったら、そんな軽はずみなお世辞は言わないんじゃないか?」
「そんなん、わかんねーさ。どっちみち、あたしは死ぬ気で頑張るだけだしね」
そうしておひやで咽喉を潤せたのち、アイリスはふっと息をついた。
「ただ、プロを目指すんだったら見た目を気にするべきだとかとも言われちったわ」
「見た目? 君の見た目は、完璧――あ、いや、なんでもない」
俺が慌てて本音を呑み込むと、アイリスは珍しく苦笑した。
「そーじゃなくって、肌のことだよ。今どき黒ギャルなんざ流行らねーから、プロとして活動するにはデメリットになりかねないってさ」
「ええ? そんなの、自分ではどうしようもないじゃないか。そんなことで人を差別するなんて、許されないよ」
俺が一瞬で頭に血をのぼらせると、アイリスは可愛らしく目をぱちくりとさせた。
「あんた、いきなりナニをキレてんの? こんなもん、あたし次第っしょ」
「え? だって……肌の色のことだろう?」
「うん。あたしは好きで焼いてんだから、そんなもん自分次第じゃん」
今度は、俺がきょとんとする番である。
ただし、アイリスもきょとんとしたままであった。
「えーっと……いちおー確認しとくけど、あんた、あたしが地黒だと思ってたの?」
「う、うん。親御さんは海外の生まれだって聞いてたから、てっきり生まれつきかと思ったんだよ」
「でもあたし、この髪とこの目だよ? まさか、ブリーチやカラコンだとか思ってた?」
「あ、いや、それも全部、生まれつきかと……」
「えー? あたしも世界中の人間を知ってるわけじゃねーけど、金髪に青い目で褐色の肌なんてありえんのかなー?」
俺は、ありえると思ってしまったのだ。
ただし、その思いに根拠は存在しなかった。
「……あんた、やっぱ変わってんな」
アイリスはまた少しくすぐったそうな顔で言いながら、新たなチャーハンを頬張った。
「ま、ぶっちゃけると、始まりはただの嫌がらせだったんだよ」
「い、嫌がらせ?」
「うん。あたし、見た目が母親にそっくりでね。で、クソ親父が何かにつけて母さんと比べやがるがら、頭に来て真っ黒に焼いてやったのさ。あんときの親父の顔は、見ものだったなー」
そんな風に語りながら、アイリスは褐色のなめらかな頬を左手で撫で回した。
「でも、今じゃあけっこう気に入っててさ。だから家を出た後も、ない金をしぼって日サロに通ってたんだよ」
「うん。俺もすごく似合ってると思うよ」
俺が思わず身を乗り出すと、アイリスは笑った目つきで怒った顔をした。
「んーだよ。やけにムキになると思ったら、ただの黒ギャル好きかよ」
「い、いや、そういうわけじゃないよ。ただ、君には似合ってると思うから……」
「へいへい。セーヘキのゴカイチョー、お疲れさん」
アイリスは褐色の肩をすくめて、食事を再開させる。
俺としては、なんとも整理のつかない心持ちであったが――ただ、アイリスはどこか嬉しそうな様子に見えなくもなかったので、それで胸をなだめるしかなかった。




