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異世界料理道 --外伝集--  作者: EDA
異伝 魂の片割れ

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44/57

第2章 01 相談

2026.6/15

今回の更新は全6話です。

 俺がアイリスという不思議な少女と出会ってから、あっという間に十日ばかりの日が過ぎ去った。


 その期間、彼女は毎日『つるみ屋』で働いている。そうして日が過ぎるごとに、彼女は『つるみ屋』の従業員としてめきめきスキルアップしていった。

 まあ、彼女が為すべきは料理の配膳と注文取りと皿洗いぐらいのものであったが、その手際がぐんぐん向上していったのである。これで接客の仕事は初めてであるというのだから、大したものであった。


 彼女はもともと何につけても能力の高い人間であるように見受けられるが、さらに物怖じしない性格と旺盛な生命力が大きな武器となっているのだろう。一見のお客に色目を使われても軽くあしらっていたし、メニュー表にない注文を受けても慌てることなく厨房に確認を取ってくるし、どれだけ店が混雑しても疲れた顔を見せることも手元を狂わせることもなかった。


 さらに言うならば、彼女はきわめて不愛想な人柄であるが、その下に親切な本性を隠し持っている。耳の遠いお年寄りのお客がまごまごしていても決して急かすことなく相手のペースに合わせて対応していたし、小さな子供がうっかりグラスを割って泣き出してしまったときも「気にすんな」と頭を撫でて上手い具合にあやしていた。


(子供の相手も上手いなんて、意外だったなぁ)


 俺は時おりそんな風に、違和感にとらわれることがある。

 俺は彼女に正体の知れない懐かしさを覚えてやまないのだが、そこに時おり違和感が割り込んでくるのだ。俺が知っている彼女と、どこか違う――などという、まったくもって理不尽な感覚である。


 しかし俺はそれよりも、深い充足を手にすることができていた。

 彼女のそばにいるだけで、俺の心は満たされてやまないのである。


 彼女を前にしていると、俺は悪夢を見た直後のように心臓が騒いでしまう。

 しかしその反面、悪夢によって引きずりだされるおかしな感覚――得体の知れない虚無感や喪失感といったものが、彼女の存在によって払拭されるのだ。俺は心に空いた大きな穴を、彼女の存在によってすっぽり満たされているような心地であったのだった。


 しかしまあ、そんなものは俺個人の勝手な思惑に過ぎない。

 そんな話をさっぴいても、彼女はとびきり魅力的な人間であり、『つるみ屋』にとっては重要な戦力であった。正直なところ、ここ最近は目に見えて客足がのびており、俺と親父の二人きりではずいぶん回転が悪くなっていたのだ。頼りの玲奈は週に三日ていどしか働けないため、アイリスの存在は心からありがたかったのだった。


「本当に、あの嬢ちゃんは救いの女神だな。お前もおかしなちょっかいをかけて、女神さまの機嫌を損なうんじゃねえぞ?」


 ついには、親父がそんな軽口を叩くほどであった。

 しかしもちろんアイリスのいない場の発言であったので、俺があの魅惑的な青い瞳でにらみつけられることもなかった。


 ともあれ、この十日ばかりは賑やかながらも平穏に過ぎ去っていったわけであるが――そこでちょっとした波紋が生じたのは、アイリスが来てから二度目の定休日の夜のことであった。


                 ◇


 その日、アイリスは昼から出かけていた。

 前回の定休日は長時間にわたってダンスの稽古に励んだり、それに疲れて子猫のように居眠りをしていたり、頼みもしないのに家の大掃除に取り組んでくれたりと、ずっと家の中にこもっていたのだが、本日は行き先も告げずにふいっといなくなってしまったのだ。

 俺としてはこのままアイリスが戻ってこないのではないかという不安な心地にさせられてしまったが、大きなボストンバッグは寝室に残されていたので、なんとか平静を保つことができていた。


 いっぽう俺は、定休日でも厨房にこもっている。

 俺にとっては、週に一度の定休日こそが腕を磨く稽古の時間なのである。もちろん毎日の仕事も修行そのものであるが、思いのままに包丁を振るうことのできる自由な時間は定休日にしか存在しなかった。


 そうしてその日もさまざまな課題に取り組んだのち、夕食の支度に取り掛かったところでアイリスが戻ってきた。

 店側の出入り口はシャッターを下ろしているため、勝手口から家に入ったアイリスは障子戸を開いて厨房を覗き込んでくる。アイリスが無事に戻ったことにこっそり安堵の息をつきつつ、俺は「おかえり」と笑顔を届けた。


「ちょうど夕飯の支度をしようとしていたところだよ。あと三十分ぐらいで仕上がるから、もうちょっと待っててくれ」


「うん」とうなずいたアイリスは、仕事用のデッキシューズに足を通して厨房の入り口まで近づいてきた。


「……ねえ。ここから見物しててもいい?」


「え? 別にかまわないけど……でも、どうして?」


「うるせーなー。文句があるなら、ひっこむよ」


 アイリスがたちまち口をとがらせたため、俺は慌てて「いやいや」と答えた。


「べつに文句があるわけじゃないよ。何も面白いことはないだろうけど、好きに見物してくれ」


 そうして俺はアイリスに見守られながら、作業を開始した。

 今日の夕食は、ハンバーグである。修練の流れでパテは仕上げておいたので、まずは付け合わせの下準備であった。


 必要な食材を作業台に並べながら、俺はアイリスの様子を横目でうかがう。

 今日も彼女はハーフトップにショートパンツという格好であったが、どちらも初めて目にするデザインだ。とにかく彼女はハーフトップにショートパンツという組み合わせがお気に入りであるらしく、ボストンバッグの中に何着も取り揃えていたのだった。


 ようやく六月の中旬に差し掛かったところであるのに、まるで夏の盛りのような軽装だ。外出時にはキャップとデニムジャケットも加えられるが、屋内における彼女はこの組み合わせかタンクトップとスウェットパンツかの二択である。すらりと長い手足も引き締まった腹部も煽情的な胸の谷間もあらわにして、十九歳の健康な男子には目の毒という他なかった。


 しかしまた、露出の多いそういった格好が、彼女にはしっくり馴染んでいる。

 その美しさと色香には、なかなか慣れることもできなかったが――それ以上に、俺は正体不明の懐かしさに心を満たされていた。


(冬場は、どんな格好なんだろうな。まあ、どんな格好でもきっとばっちり着こなすんだろうけどさ)


 そんな思いを胸に、俺は作業を進めていった。

 茹でたジャガイモはマッシュポテトに仕上げて、にんじんはグラッセ、ホウレンソウはバターソテーだ。そうして俺が冷蔵庫から三人前のパテを取り出すと、視界の端でアイリスがぴくりと身を震わせた。


「……なー、まかないでハンバーグは出さねーって話だったよな?」


「うん。でも、今日は定休日だからさ。この前の定休日も、少しは凝った料理を出してただろう?」


「……そんな豪勢な料理でも、二百円でいいのかよ?」


「いいんだよ。材料費には十分だし、調理は俺の修行なんだから手間賃も不要だしね」


「ふーん」と言いながら、アイリスは可愛らしく身を揺すっている。俺は彼女がトマト煮込みのハンバーグを口にしていたときの嬉しそうな目の輝きを忘れていなかったし、まかないでハンバーグを出すことはないと知らせたときの残念そうな表情も見逃していなかったのだった。


(俺にとっても、ハンバーグは特別な料理だしな)


 実はアイリスと出会った日に出したトマト煮込みのハンバーグこそ、俺が『つるみ屋』で初めて一任されたメニューであったのだ。


 それは『つるみ屋』が災難に見舞われる少し前の出来事であった。調理に関しては一切妥協のない親父が、まだ高校二年生になったばかりであった俺の料理を夏季限定の特別メニューとして採用してくれたのだ。


 しかし残念ながら、その計画は実現しなかった。

 例の火災で『つるみ屋』が焼失し、俺も親父も入院する羽目になったためである。


 そうして『つるみ屋』が再建された現在、俺は日替わりメニューの何品かを任されており、トマト煮込みのハンバーグもその中に含まれている。

 それでもやっぱり俺にとって、最初に特別メニューとして認められたトマト煮込みのハンバーグは格段に思い入れのある料理であったのだった。


(そんなハンバーグを美味しいと思ってもらえたら、やっぱり嬉しいもんだ)


 そうして調理を完了させた俺は、アイリスの手も借りて親父の待つ居間へと移動した。

 親父はテレビをつけっぱなしにしたまま、だらしなくいびきをかいている。今日は午後から病院の検診に出向き、その後はずっと居間でくつろいでいたのだ。いまだ松葉杖をついている身であれば静養するに越したことはないものの、親父は元気な頃から定休日はだらしなく過ごすのが常であった。


「親父、メシだぞ。あんまりだらしない姿を見せるんじゃねえよ」


「んん……もうメシか……うたた寝のつもりが、ぐっすり眠っちまったなぁ」


 寝ぼけた声をあげながら、親父はソファベッドの上に身を起こす。そうして親父は一人用のミニテーブルで、俺とアイリスは座卓で夕食をいただくことにした。


 アイリスは合唱すると、他者には聞こえないように「いただきます」という形に唇を動かす。出会って十日が過ぎても、アイリスのそんな姿は俺の心を温かくしてやまなかった。


 そうしてグレイビーソースで仕上げたハンバーグを口にすると、アイリスの青い瞳が明るく輝く。

 それを目にしたいがために、俺はハンバーグを準備したのだ。差し向かいでアイリスと同じものを口にしながら、俺は感無量であった。


 アイリスはめったに笑顔を見せないが、その瞳の輝きにあらゆる感情が表れるのだ。俺にとっては不機嫌なときの鋭い眼光ですら魅力的であったが、やっぱり喜びの輝きにまさるものはなかった。


「……で、検診の結果はどうだったんだよ? ちっとはよくなってんのか?」


 アイリスにばかり気を取られているとまたにらみつけられてしまうため、俺は親父に水を向ける。親父は遠慮なくハンバーグを頬張りながら、「ああ」と応じた。


「まだ筋力が戻ってないんでしばらくは松葉杖が必要だが、骨や靭帯はじわじわ回復してるとよ。……しかし、何年かしたらまた手術が必要だってんだから、面倒な話だよなぁ」


「今は鉄板やらボルトやらで骨を固定してるんだから、しかたねえだろ。歩けるようになっただけ、お医者さんに感謝しやがれ」


「ふん。お前こそ、本当に手術をしなくていいのかよ?」


 親父の何気ない言葉に、アイリスがぐっと身を乗り出してきた。


「手術って何だよ? あんた、どっか悪いのか?」


「あ、いや。左足首がちょっとおかしいけど、そんな大した話じゃないんだよ」


「でも、手術をすりゃあまた走れるようになるってんだろ?」


 親父が余計な口をはさむと、アイリスの目がいっそうの切迫感を帯びる。

 俺はその鋭い眼光から逃げるようにして、親父の呑気な顔をにらみつけた。


「料理人が走る必要なんざねえだろ。俺はもう、手術とか入院とかはこりごりなんだよ」


「ふん。金の心配をしてるなら、いらねえ気遣いだぞ?」


「そんな心配はしてねえよ。また入院なんざしたら、しばらく店にも出られなくなっちまうしな」


「それこそ、いらねえ心配だ。ま、お前の好きにすりゃいいけどよ」


 親父は何事もなかったかのように、食事を再開させる。

 そうして俺が溜息をつきながら、アイリスのほうに向きなおると――アイリスの鋭い眼光は、心配そうな眼差しに変じていた。


「……あんた、足が悪かったのかよ。なんかちょっとぎこちない歩き方だなとは思ってたけど……走れないぐらい、ひどかったんだな」


「いや、痛みとかはないから大丈夫だよ。普段は走る必要もないしさ」


 俺は何とかアイリスをなだめるべく、精一杯の笑顔を届けた。


「君はダンスをやってるから、足が不自由とか聞くと心配になっちゃうんだろうね。でも俺は、何の不便もなく暮らしてるからさ。本当に、気にしないでくれ」


 アイリスはきゅっと眉をひそめながら、いっそう一心に俺の顔を見つめてきた。

 そんな真っ直ぐな眼差しを向けられると、俺はどうしようもなく心臓を揺さぶられてしまう。そして彼女がこれほどまでに俺の身を案じてくれることが、嬉しくてならなかった。


 しかしおそらくアイリスも、俺が本当に思い悩んだりはしていないということを察してくれたのだろう。それ以上は言葉を重ねずに食事を再開させると、やがてその青い瞳は最前までの明るい光を取り戻し、俺を幸せな心地にしてくれたのだった。


 そうして食事を終えた後は、新しいお茶を入れてしばしのくつろぎタイムである。

 アイリスの美麗な顔が鋭く引き締まったのは、そのタイミングであった。


「おっちゃん。実は今日は、折り入って相談があるんだ」


「うん? あらたまって、どうしたんだい? 明日太が何か迷惑でもかけたか?」


「いや、そうじゃねーんだ。これだけ世話になっておいてこんなお願いをするのは、本当に心苦しいんだけど……迷惑をかけるのはこれっきりって約束するから、どうか聞いてもらえる?」


 アイリスはどんどん真剣な面持ちになっていくが、こういう際に深刻ぶらないのが親父の真骨頂である。親父は熱い茶をすすってから、「おう」と気安く応じた。


「聞くだけなら、なんぼでも聞いてやるさ。無理なお願いならお断りするだけだから、遠慮なく言ってみな」


「ありがと。その前に、まずはこっちの状況を伝えなきゃなんだけど……あたしはさ、目的があって千葉に出てきたんだよ。実は昔から憧れだったダンサーが、千葉でダンススクールを開いてるんだ」


「ほうほう。もしかして、今日もそのスクールとやらに通ってたのかい?」


「うん。通うっていうか、初めて覗きに行ったんだよ。この二ヶ月はその日暮らしでそんなゆとりもなかったから、おっちゃんたちのおかげでやっと最初の一歩を踏み出せたんだ」


 きちんと膝をそろえたアイリスは、身体ごと親父のほうに向きなおっている。俺はアイリスの端麗な横顔を見つめながら、その真剣な言葉を聞いていた。


「それで今日は無料体験レッスンっていうのをやってたから、あたしも参加してみた。そしたら、その先生が……ぜひスクールに通ってみないかって言ってくれたんだ」


「へえ、そいつはめでたい話じゃねえか」


「うん。でも……スクールにきちんと入会するには、やっぱり住所や連絡先が必要になるんだよ。十八歳なら保護者や保証人は必要ないし、下宿先の住所でも問題ねーって話なんだけど……会員登録するのに、住所と連絡先を提出しねーといけねーんだ」


「ああ、そういう話かい。俺はべつだん、かまわねえよ」


 親父があっさりそう言うと、アイリスは愕然と身を震わせた。


「ちょ、ちょっと待ってよ。住所や電話番号を借りたいって話なんだから、もうちょっと真剣に――」


「うん? ハンコを貸せだの保証人になれだのって話なら、俺もちっとは慎重になるけどな。お前さんは実際にこの家で暮らしてるんだから、そいつを申告するだけのこったろう? それで何か、俺に面倒でもかかるのかい?」


「いや、だけど……あたしらは、まだ十日ていどのつきあいだし……」


「そもそもお前さんを信用してなかったら、居候させたりしねえよ。これで俺が損をかぶったら、人を見る目がなかったってだけのこった」


 親父はいつも通りの陽気さで、にっと白い歯をこぼした。


「住所でも連絡先でも、好きに使ってくれ。……あ、でも、それでうちの仕事をやめるなんて言わねえよな?」


「う、うん。ちょっと変則的な時間割になっちゃうだろうけど、そもそもきちんと働かないとレッスン代も払えねーし……」


「それなら、言うことはねえよ。仕事もレッスンとやらも頑張ってな」


 アイリスは表情が崩れるのをこらえるように唇を噛むと、畳に両手をついて深々と頭を下げた。


「ありがとう。このご恩は、一生忘れません」


「やめてくれよ。そんなにかしこまられたら、こっちのほうが落ち着かねえや」


 親父はぷらぷらと手を振ってから、俺のほうに向きなおってきた。


「住所やら何やらは、お前が教えてやれ。なんか、手頃なのがあったろ」


「ああ。店で配ってるマッチに住所と電話番号が書いてあるから、それでいいだろ。あとで渡しておくよ」


 すると、アイリスがおもむろに身を起こして、いくぶんかすれた声を発した。


「……ヴォルゴード」


「うん? なんだい?」


「アイリス・ヴォルゴード。……それが、あたしのフルネームだよ。会員登録するには苗字も伝えなきゃいけねーから、それより前におっちゃんたちに伝えなきゃって思ったんだ」


「へえ?」と、親父は目を丸くした。


「親御さんは、日本に帰化したってんだろ? でもべつだん、日本らしい苗字になるわけじゃねえのか」


「うん。帰化するときに、自分で選べるらしい。英語とかは使えねーみたいで、正式な表記はカタカナだけどさ」


「そいつは勉強になったよ。ま、俺はカタカナに弱いもんで、すぐに忘れちまうだろうけどな」


「うん。名前だけ覚えてもらえたら、あたしには十分だよ」


「了解。じゃ、後片付けはよろしくな」


 親父は気安く笑いながら、両手で右足をソファベッドに持ち上げる。

 それを尻目に、俺とアイリスは空いた食器を厨房に運び込んだ。


 洗い物をしている間も、アイリスは無言のままである。

 そうして後片付けを終えたのち、ともに階段を目指して廊下を歩き始めたところで、俺は店先からくすねておいたマッチを手渡した。


「じゃ、住所と電話番号はこれに書いてあるからさ。……スクールに通うことができて、よかったね?」


 アイリスは無言のまま、俺の手の平から小さなマッチをつまみあげる。

 そして――いきなり、俺に抱きついてきた。


「ど、ど、どうしたんだ?」


 薄着のアイリスに抱きつかれた俺は、一瞬で惑乱の坩堝に叩き込まれてしまう。

 何せアイリスは異国の血筋ということもあってか、とんでもなくスタイルがいいのである。俺の薄っぺらい胸もとに押しつけられてくる凶悪な弾力の感触だけで、俺を悶死させるには十分であったし――さらには花のごとき甘い香りが鼻腔から脳髄まで蹂躙してくるのだ。俺の心臓は加速度的に暴れ狂い、全身の血が沸騰してしまいそうだった。


 そんな俺の惑乱も知らぬげに、アイリスはとんでもない腕力で俺の身をしめあげてくる。

 その容赦のない圧迫が正体の知れない懐かしさをも増幅させて、俺をいっそう陶然とさせた。


「……絶対に、あんたたちに迷惑はかけない。約束を破ったら、腹を切っておわびする」


 かつてなかったほどの至近距離から、アイリスは魅力的なハスキーボイスで囁きかけてくる。嗅覚と触覚に続いて聴覚まで浸食された俺は、もはや息も絶え絶えであった。


「そ、そんな物騒なことを言わないでくれよ。俺も親父も、君のことを信用してるからさ」


 俺はそのように答えるだけで、精一杯であった。

 アイリスのやわらかいが引き締まっている肢体の感触と、あばらをへし折らんばかりの怪力――そして、花のように甘い香りが、三方向から俺の心臓を翻弄しているのだ。しかも俺たちは二、三センチの身長差であるために、アイリスのなめらかな頬が俺の頬に密着しているのだった。


「……悪い。嬉しすぎて、我を見失ったわ」


 俺の意識が朦朧としかけた頃合いで、アイリスはようやく身を離した。

 そしてその顔に浮かべられていたのは、子供のようにあどけない笑顔である。それがまた、とてつもない破壊力で俺の心臓を脅かした。


「抱きつくんなら、おっちゃんのほうだよな。悪いけど、あんたが間接ハグしておいてくれる?」


「や、やだよ。そんな、気色の悪い」


「へへ。冗談だっての」


 アイリスはちょっと前屈みになり、俺の顔を下からすくいあげるように見つめながら、また無邪気に笑う。

 それで俺はしばらく寝つけなくなるほどに、血圧を上昇させてしまったのだった。

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― 新着の感想 ―
あれ?日本国籍ならば『アイリス・ヴォルゴード』ではなく、苗字が先で『ヴォルゴード・アイリス』では?『ダルビッシュ有』とか『ケンブリッジ飛鳥』みたいに…。
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