08 虚無の果て
アイ=ファとの出会いから、およそ四年後――その年の雨季に体調を崩したジバ=ルウは、床に伏せる機会が多くなった。
ジバ=ルウは、すでに八十三歳という齢であるのだ。よもや自分が八十歳を越えて生き永らえることになろうなどとは、ジバ=ルウにとっても想像の外であった。
しかしこれだけ弱り果ててもなお、ジバ=ルウは魂を返さずにいる。
いったい母なる森はどのような思惑で、ジバ=ルウを生かしているのか。寝具に横たわったジバ=ルウは、朦朧とする頭でそんな風に考えることが多くなっていた。
そんなジバ=ルウの心を完膚なきまでに叩きのめしたのは、孫たるドンダ=ルウからもたらされた言葉であった。
ファの家のたったひとりの家人となった娘が、スンの長兄と諍いを起こした――病床のジバ=ルウに、そんな言葉が届けられたのである。
これより二年ほど前、アイ=ファの母親は魂を返していた。
それで十三歳となったアイ=ファは、見習い狩人として父とともに森に入っていたのだ。そして今、十五歳となったアイ=ファは父親をも失い――さらに何故だか、族長筋のスン家と揉め事を起こしてしまったのだった。
「そのはねっ返りの娘っ子を、ダルムの嫁として迎えてやろう。そうすれば、スン家の連中も手出しはできまいし……手出しをすれば、そのときがスン家の最後だ」
ドンダ=ルウは父たるドグラン=ルウよりも勇壮な顔で笑いながら、そんな風に語っていた。
それでジバ=ルウの心は、絶望の泥濘にずぶずぶと沈んでいったのだった。
ついにアイ=ファまでもが、ルウとスンの諍いに巻き込まれてしまうのだ。
しかしきっとアイ=ファであれば、嫁入りの話を受け入れることはないだろう。アイ=ファがどれだけ強い気持ちで狩人を志していたかは、ジバ=ルウも痛いぐらいに知っている。そんな思いを打ち捨ててまで、アイ=ファがルウ家を頼るとは思えなかった。
しかしそうして嫁入りの話を断れば、ルウに庇護されることもかなわなくなる。
アイ=ファは森辺で孤立して、スン家の猛威にさらされることになるのだ。
ジバ=ルウはこの四年間で築きあげたアイ=ファとの思い出が、どろどろと溶け崩れていくのを感じた。
そして今のジバ=ルウには、アイ=ファを助ける力もない。もはやジバ=ルウは自力で起き上がることもできない、八十三歳の死にぞこないであるのだ。その事実が、ジバ=ルウの心をさらなる暗黒の奥底へと引きずり込んだ。
(あたしはまた、若い人間の死を見届けるんだ……あたしはいったい、何のために生きているのさ……?)
ジバ=ルウの親兄弟は、すべて死に絶えた。
腹を痛めて生み落とした子供たちも、すべて死に絶えた。
ともに明るい行く末を目指そうと手を携えた仲間たちも、すべて死に絶えた。
そしてこの時点で、孫たちの何人かは魂を返している。
曾孫ですら、『アムスホルンの息吹』を乗り越えられずに魂を返した幼子がいるのだ。
そして今、打ち沈んだジバ=ルウの心に希望の光を灯してくれたアイ=ファまでもが、逃れようのない破滅に呑み込まれようとしている。
ジバ=ルウは――初めて、母なる森を呪うことになった。
ドグラン=ルウがなかなか子を授からなかったときにも母なる森を恨むことになったが、これはそのときとも比較にならないほどの激情であった。
(黒き森は、あたしに生きる喜びを与えてくれた……だけど、あんたは何なのさ……? そりゃああたしはこのモルガでも、たくさんの喜びと希望を授かることになったけど……最後には、みんな悲しみと絶望に塗り潰されちまうじゃないか……)
こんなことなら、黒き森とともに燃えてしまえばよかった。
今でも家族たちに対する情愛に変わりはなかったが、その大切な家族たちにもどのような運命が待ちかまえているか、知れたものではないのだ。スン家と刀を交えれば、愛する家族たちも皆殺しにされかねないのだった。
であれば、ジバ=ルウがこれまでに成し遂げてきたことも、すべて無意味である。
なまじ喜びや希望を追い求めたから、それを失う悲しみと絶望を味わわされることになるのだ。
ジバ=ルウが黒き森とともに滅んでいれば、ルウ家はどこかで跡継ぎがいなくなり、滅んでいた。そうして早々に滅んでいれば、無駄な希望を抱かずに済んだわけであった。
家族の存在が愛おしければ愛おしいほど、ジバ=ルウの絶望も深くなっていく。
そうしてジバ=ルウが、生きる意味を見失ったとき――ふいに、一本の歯が抜け落ちた。
そしてそれから何かの数を数えるかのように、一本ずつ歯が抜け落ちていった。
そうして歯の数が足りなくなると、硬いギバ肉を噛み千切ることもできなくなった。
食事には、ぐずぐずになるまで煮込まれたギバの煮汁が供される。その獣くさい煮汁をすすりながら、ジバ=ルウは新たな感覚がわきおこるのを感じた。
希望とも絶望とも異なる、ぼんやりとした灰色の虚無感である。
明るい希望も真っ黒の絶望も、やがてはその灰色に呑み込まれていった。
(ギバの肉を噛み千切ることもできないあたしには、もう森辺の民でいる資格もないってことなんだろうさ……)
それが、灰色の虚無感の正体であった。
もはやジバ=ルウは、生きる意味を見失っている。しかしまた、自らの死を喜ぶ気持ちもなく――ジバ=ルウの心は、ひたすら虚ろであった。
(あたしは生き抜くために、ギバの肉を喰らってきたけれど……こんなもの、一度だって美味いと思ったことはなかった……黒き森では食事をするだけで、あんなに幸せな心地だったのに……モルガの森には、そんな楽しみもなかったんだ……)
そして今や、黒き森の美味なる食事の味を知る人間も、ジバ=ルウの他には存在しない。森辺の民にとっては、この獣くさいギバ肉がすべてであるのだ。
もう誰も、ジバ=ルウの痛みを理解できる人間はいない。
その事実が、いっそう濃密な虚無感を生みだした。
(こうしてあたしは、空っぽのまま死んでいくんだ……きっと家族や血族たちは、それを惜しんで泣いてくれるだろうけど……あたしには、それを喜ぶことも悲しむこともできそうにない……きっとあたしの魂は、森の外に放り出されて……どこかの荒野で、塵と化すのさ……)
そうしてジバ=ルウは、生ける屍のように日々を過ごした。
いったいどれだけの時間を過ごしたのか、それを認識することもままならない。ただ、毎日ひっきりなしに寝所へとやってくる曾孫たちは、どんどん大きく逞しくなっていった。
「今日はティノとネェノンをたくさん使ってみたよ。プラは苦いし、煮込んでもあんまりやわらかくならないからね」
「シン=ルウが、ついに一人前の狩人に認められたんだよ。きっと後で挨拶に来るから、一緒にお祝いしてあげようね」
「それじゃあ、汗をふくわねぇ……織布をお湯で濡らしてきたから、温かくて気持ちがいいわよぉ……」
「……何か食いたいものはないのか? たくさん食わねば、病魔を退けることはできんぞ」
「よー。俺もやっと、自分の手でギバを仕留めることができたぜー。次の収穫祭では勇者になってみせるから、元気になって見物してくれよなー」
心優しき曾孫たちは、みんな優しい言葉を投げかけてくれる。
しかし、灰色の虚無感にとらわれたジバ=ルウは、それを夢の中の出来事のようにぼんやり眺めることしかできなかった。
「最長老ジバよ。ついに俺たちにも、子が生まれたのだ。曾孫の子は、なんと称するものであるのだろうな」
そのように告げる長兄のジザ=ルウは、その手に小さな赤子を抱いていた。
そのかたわらに控えているのは、レイから嫁入りしたサティ・レイ=ルウだ。ついにジバ=ルウの曾孫が婚儀を挙げて、子を生したのだった。
その婚儀は、とても幸福な心地で見守っていたと記憶している。
しかし今、曾孫の子を目の前にしても、ジバ=ルウの心が動くことはなかった。
「いつかは俺が族長の座を継ぎ、さらにはこのコタが俺の跡を継ぐ。最長老ジバが紡いでくれたルウ本家の血は、俺たちが末永く残すと約束しよう」
ジザ=ルウのそんな言葉も、虚しく響くばかりであった。
喜びや希望の裏側には、必ず悲しみと絶望がひそんでいるのだ。喜びや希望が大きければ大きいほど、それを帳消しにする悲しみと絶望も肥大化するはずであった。
(だから、これは……あたしなんかが喜びや希望を求めた罰なのさ……)
ジバ=ルウはルウの集落の外に、アイ=ファという喜びと希望を見出した。だからこそ、それを失う悲しみと絶望に見舞われたのだ。それはまた、スン家を打倒しようという熱情に同調できなかったジバ=ルウの罪であるのかもしれなかった。
ただし、どれだけの時間が過ぎても、アイ=ファはなかなか破滅の運命に屈しなかった。
それを教えてくれたのは、もっとも頻繁に寝所を訪れるリミ=ルウである。
「今日もアイ=ファは元気そうだったよ! こーんなに大きなギバを担いでたの!」
「アイ=ファは、また背がのびたみたい! もうルドよりおっきいぐらいなんじゃないかなー!」
「今日はアイ=ファが木渡りの修練をしてたよ! リミたちと初めて会った日を思い出しちゃうね!」
アイ=ファがスンの人間と諍いを起こした時点で、リミ=ルウはすでに六歳となっている。それでジバ=ルウが臥したのちも、リミ=ルウはひとりでアイ=ファのもとに通っているのだった。
ただしアイ=ファは、リミ=ルウと縁を切ってしまったのだという。
アイ=ファは嫁入りの話を断ったため、もうルウの家人と関わるべきではないと判断したのだろう。そして何より、スンとの諍いをルウに持ち込まないように配慮しているはずだった。
(アイ=ファは……優しい人間だからねぇ……)
と――リミ=ルウからアイ=ファの話を聞かされるときだけ、ジバ=ルウの虚ろな心がわずかに疼いた。
それはおそらくジバ=ルウにとって、アイ=ファが最後の友であったためであるのだろう。かつての友であったレイやルティムやミンの者たちはすべて血族となったので、ジバ=ルウにとって血族ならぬ友というのはアイ=ファひとりであったのだった。
しかしけっきょくジバ=ルウは、アイ=ファのことも救うことができなかった。
アイ=ファがもっとも苦しかった時代に声をかけることもできず、ルウ家に嫁入りさせようというドンダ=ルウを止めることもできず、それ以上の妙案をひねりだすこともできず――ただこの寝具の上で、おのれの無力さを噛みしめていたのだ。
よって、多少ばかり心が疼いても、どろどろと渦巻く虚無感が消えることはない。
そんな中、リミ=ルウが奇妙な言葉を持ち帰ってきた。
「あのね、アイ=ファが不思議な男の人を家人に迎えたんだよ! それでその人が、ジバ婆のために晩餐を作ってくれるの!」
ジバ=ルウの虚ろな頭では、リミ=ルウの言葉をきちんと理解することもままならかった。
そうしてまた、のろのろと時間が過ぎていき――窓の外が暗くなった頃合いで、次姉のレイナ=ルウが寝所にやってきた。
「ジバ婆、今日はファの人たちが晩餐を準備してくれたんだよ。ちょっと大変だろうけど、広間で一緒に食べようね」
ジバ=ルウはレイナ=ルウの手を振り払うこともできず、諾々と広間に連れ出された。
広間には、たくさんの家族が待ちかまえている。そして、向かいの下座にはアイ=ファの懐かしい姿が見受けられたが――ジバ=ルウは目を伏せて、そちらを見ようとしなかった。
アイ=ファとの再会を喜べば、またその後にアイ=ファを失う悲しみに見舞われるのだ。
今のジバ=ルウはすべての希望と絶望を切り捨てて、ぼんやりとした虚無感の中で消え去ることだけが望みであった。
そうしてジバ=ルウがぼんやり床の敷物を眺めていると、やがて鼻先に木匙が差し出されてくる。
そこにきらめく透明の輝きが、ジバ=ルウの虚ろな心にわずかな違和感を抱かせた。
晩餐の煮汁が、こんな風に透明な輝きを放つことはない。何をどのように仕上げても、最後にはポイタンのどろどろとした白い色で濁ってしまうのだ。
そしてその透明の煮汁の中に、見覚えのない物体が浮かんでいた。
それこそポイタンのような色合いをした、何かの切れ端だ。しかし、ポイタンであればすぐにお湯に溶けてしまうため、こんな風に形が残ることもなかった。
(まあ……そんな話は、どうでもいいさ……)
ジバ=ルウはのろのろと首を振って、それを口にすることを拒絶した。
ファの家にまつわる食事などを口にしてしまったら、またいらぬ縁が生まれてしまうのだ。ジバ=ルウは自分ばかりでなく、アイ=ファにも無用の期待を抱かせたくなかった。
「ほら、食事だよ、ジバ婆。今日のは特別おいしいからね。お客人が、とってもおいしい食事を作ってくれたんだよ」
しかしレイナ=ルウは、なかなか木匙を引っ込めようとしない。
アイ=ファと同じ齢であるレイナ=ルウは、とても優しい人間に育ったのだ。そんな優しい曾孫にいらぬ世話を焼かせているという事実に、ジバ=ルウの虚ろな心がじくりと疼いた。
けっきょくジバ=ルウがどのように振る舞おうとも、他者に迷惑をかけてしまうのだ。
それを悟ったジバ=ルウは、大人しく煮汁をすすることにした。
(もう、何がどうでもかまいはしないさ……さっさと見切りをつけて、あたしをもとの暗がりに戻しておくれ……)
そうしてジバ=ルウは透明に輝く煮汁を飲み下し、白い何かを噛みしめた。
すると――得体の知れない感覚が、腹の底からわきあがってきた。
(え……? なんだい、これは……?)
もはや動いているかも定かではなかったジバ=ルウの心臓が、どくどくと高鳴っていく。
しかし、その理由がわからない。ジバ=ルウの肉体は何かの異変を察知していたが、ぼやけた頭では理解できなかった。
「ほら、おいしいでしょ? まだまだたくさんあるからね?」
そんな言葉とともに、また木匙が差し出されてくる。
それでもジバ=ルウが動けずにいると、レイナ=ルウの声が焦りの響きを帯びた。
「どうしたの? おいしいでしょ? わたしとリミとティト・ミン婆も、一緒に作るのを手伝ったんだよ?」
おいしい――美味しい?
その言葉が、ジバ=ルウの頭にひと筋の光明を閃かせた。
ジバ=ルウがモルガの森で暮らし始めてから、「美味しい」などという言葉を耳にした覚えがあっただろうか?
少なくとも、ジバ=ルウ自身がそのような言葉を口にしたことは一度としてない。ジバ=ルウは獣臭いギバ肉を美味しいなどとは、いっさい思ったことがないためである。
そして、ジバ=ルウの家族や血族たちも、決して食事の味に不満の声をあげることはなかったが――その代わりに、「美味い」などという言葉を口にすることもなかった。飢えに苦しむこともなく、その日の糧を口にできるというだけで、誰もが満足げであったのだ。
ジバ=ルウの心は、濁流のようなものに押し流された。
それで行き着いたのは、遥かなる昔日の光景である。
枝葉を重ねた家の中で、ジバ=ルウの家族たちが晩餐を取り囲んでいる。
まだ若い両親に、幼い兄たち、もっと幼い弟に、生まれたばかりの妹――妹は草籠で眠っていたが、他の家族たちは誰もが笑顔であった。
父親は、串焼きにされた蛇の肉をかじっている。
母親は、細かく砕いた木の実を弟に与えていた。
兄たちがすすっているのは、土鍋で煮込まれた煮汁だ。具材は名も知れぬ山菜や香草で、時には蜥蜴や魚の肉も加えられていた。
ジバ=ルウと目があった弟が、「おいしいね」と口もとをほころばせる。
弟は甘い果実ばかりでなく、香ばしい木の実も好物であったのだ。
あの頃は、食事をしているだけで幸福な心地だった。
愛すべき家族たちに囲まれて、森の収穫を口にしているだけで、心は隙間なく満たされていた。
しかしモルガの森においては、あの幸福な心地を取り戻すことができなかった。
どのような食材を買い求めても、すべては獣臭い泥水めいた煮汁に変じてしまうためである。
それでも人間は生きるために、食事を口にしなければならない。
飢えで苦しむ人間が多い中、食事の味などに頓着しているいとまはなかった。
そして、その悲しみを知る人間は、もはやジバ=ルウしか存在しなかった。
「おいしいね? それじゃあちょっとお肉も食べてみようか? このお肉も、とっても柔らかいんだよ」
レイナ=ルウが、また木匙を差し出してくる。
それを口にしたジバ=ルウは、さらに心臓を高鳴らせることになった。
何本もの歯を失ったジバ=ルウが口を頼りなく動かすだけで、肉がほろほろとほどけていく。
そしてその内側から、甘い油と肉汁がこぼれ落ちた。
黒き森で口にした蛇や蜥蜴の肉よりも、森の外で口にしたキミュスの干し肉よりも、好ましい味である。
「なんて美味しい肉だろう……これは本当に、ギバの肉なのかい……?」
そんな言葉を口にすると同時に、ジバ=ルウの目もとから熱いものがあふれかえる。
そうしてジバ=ルウが顔を上げると、愛おしい家族たちの幻影は消え去って――そこにはモルガの森で得た新たな家族と友人たちが、一心にジバ=ルウのことを見守っていたのだった。




