06 破局
その後、森辺にはじわじわと暗い影が広がっていった。
それはひとえに、新たな族長ザッツ=スンがもたらした影響である。ザッツ=スンはこれまでの族長とまったく異なる厳しさで、森辺の家長たちを叱咤していたのだった。
「弱き人間に、生きる資格はない。このモルガの森で生き抜くには、誰もが強さを求めるべきであるのだ」
要約すると、それがザッツ=スンの主張であった。
その言葉に、大きな誤りはないのだろう。森辺においては誰もが自分を律しながら、力を尽くして明るい行く末を目指しているはずであった。
しかし現状、貧しさにあえいでいない氏族はごく一部である。
もっとも豊かであるのはスンとルウの血族であり、ラッツとサウティの血族がそれに次ぐ豊かな暮らしを誇っている。それ以外の氏族は、のきなみ飢えに苦しんでいるのだという話であった。
そしてラッツとサウティにしてみても、なんとかダビラの薬草を手にできているていどである。
ザッツ=スンは、それずらも脆弱であると切って捨てているのだという話であった。
「ジェノスの貴族との会合においては、またギバによる畑の被害が増え始めたのだと言い渡されている。あの脆弱なる貴族どもに、森辺の民は脆弱呼ばわりされているも同然であるのだ。その屈辱を、力にかえるがいい」
ザッツ=スンは、そのように語っていたらしい。
しかしまた、貴族などというものと対面しているのはスンの人間のみであるし、ジバ=ルウよりも上の世代はおおよそ魂を返している。現在の森辺の民が町の人間と聞いて思い浮かべるのは、宿場町で見かける市井の人間のみであるはずであった。
もちろん市井の人間たちも、森辺の民を忌避している。
しかしそちらは森辺の民をギバと同等の恐ろしい存在と見なしており、脆弱呼ばわりなどというのはもっとも縁遠い所業であった。
「族長の言葉は決して間違っていないし、俺も余所の氏族の家長たちはあまりに脆弱であると感じている。だが……あのように叱咤するだけで明るい道が開けるとは、とうてい思えんな」
ドグラン=ルウはそんな言葉で、新たな族長ザッツ=スンの言動に異を唱えていた。
しかしジバ=ルウも、もはや余計な口を出す立場ではない。ドグラン=ルウは非の打ちどころもない立派な家長に育ったのだから、ジバ=ルウはひたすら家の仕事を果たすしかなかった。
それにまた、ルウの血族はかつてなかったほど豊かな暮らしを手にすることができたため、族長ザッツ=スンの苛烈な言葉に脅かされることもなかったのだ。
それでジバ=ルウはどんどん大きくなっていく孫たちの姿に心を温かくしながら、静かに日々を送っていた。そうしてジバ=ルウが六十歳になる頃には、ついにラー=ルティムとルミア・ルウ=ルティムの間に生まれた長兄ダン=ルティムが婚儀を挙げることになり、さらに翌年にはダン=ルティムの子が生まれ――それと時を同じくして、ドンダ=ルウと次兄も続々と婚儀を挙げることになったのだった。
六十の齢まで生き抜いたジバ=ルウは孫の婚儀を見届けるばかりでなく、曾孫を抱くことまでかなったのである。
ルミア・ルウ=ルティムはルティムに嫁いだ身であるが、ジバ=ルウの娘である事実に変わりはない。それがダン=ルティムという孫を生み、そのダン=ルティムがガズラン=ルティムという曾孫を生したのだ。ジバ=ルウが知る限り、このような喜びを授かれるほど長生きした人間はルウの血族に存在しなかった。
(あたしの親兄弟は、みんな四十になる前に魂を返しちまった……あたしばかりがこんな幸福を授かるだなんて、あまりに不公平だよねぇ……)
孫たちの婚儀を見守る際にも、曾孫を腕に抱いたときも、ジバ=ルウはそんな思いにとらわれた。あまりに幸福すぎて、いっそ恐ろしいほどであった。
だが――それは決して根拠のない恐怖ではなかった。長きの時を生きたジバ=ルウは、幸福の裏にいつも別なる不幸がひそんでいることを知っていたのである。
大きな脅威の予兆があらわれたのは、孫のドンダ=ルウが婚儀を挙げた翌年であった。
レイの分家から嫁を娶ったドンダ=ルウも、すぐに子を生すことができた。ガズラン=ルティムに次いで生まれた曾孫となる、ジザ=ルウである。そうしてルウの血族が喜びにわきたつ中、家長会議から戻ったドグラン=ルウが重苦しい話を持ち帰ったのだった。
「スンの分家のミギィ=スンという若衆が、町でおかしな騒ぎを起こしているらしい。そして、家長会議の場でそれをたしなめたベイムの家長を叩きのめしてしまったのだ」
そんな言葉を聞かされたドンダ=ルウは、父にも負けない勢いで青い目を燃えさからせた。
「なんだ、それは? そもそも、町でどのような騒ぎを起こしたというのだ?」
「本人いわく、森辺の民を愚弄した町の人間を叩きのめしたらしい。それは町の人間にも非があったということで、罪には問われなかったようだが……その風聞を聞き及んだベイムの家長が自重するようにうながすと、今度はそちらにまで手をあげたということだ」
「……よくわからんな。だいたいどうして分家の若衆が、家長会議に加わっていたのだ?」
「名目上は、族長の供だった。ミギィ=スンは年の頭に十三歳となって初めて森に入ったが、その日の内にギバを仕留めて一人前の狩人と認められたのだ。十三歳とは思えぬ見てくれで、俺よりもでかい図体をしている」
ドンダ=ルウの伴侶となったミーア・レイ=ルウやドグラン=ルウの伴侶であるティト・ミン=ルウは「まあ」と目を見開く。いっぽうドンダ=ルウは、いよいよ炎のごとき眼光になっていた。
「初めて森に入った見習い狩人がその日の内にギバを仕留めるなど、聞いた覚えもない。家長ドグランから見ても、そのミギィ=スンというのはそれほどの狩人であるのか?」
「うむ。むろん、族長ザッツ=スンには遠く及ぶまいが、ルウの血族でも勇者に匹敵する力量であろうな」
「十三歳の若衆がか。それは、聞き捨てならん話だな。それで、族長はどのような裁決を下したのだ?」
「うむ。軽々しく荒事に及ぶミギィ=スンを、厳しくたしなめていた。ただし、町の人間が森辺の民を愚弄することは許されないし、ベイムの家長も余所の血族にうかうかと文句をつけるべきではないとたしなめられていた。あとは形ばかりにミギィ=スンが頭を下げて、話は終わった」
「ふん……苛烈と名高い族長も、血族にはずいぶん甘いようだな」
「うむ。それ以上に族長ザッツ=スンは、力と誇りを重んじているのだ。またその危うさが垣間見えたようだな」
四十一歳となったドグラン=ルウは、十九歳となったドンダ=ルウを厳しい眼差しで見つめた。
「ザッツ=スンは、俺よりも六歳ほど若い。俺がお前に家長の座を譲り渡したのちにも、ザッツ=スンは族長として猛威を振るっていることだろう。お前も心して、心身を磨きぬくがいい」
「うむ。もとより、そのつもりだ」
その夜は、不穏な問答もそれで終わりを迎えた。
しかし、その一件はジバ=ルウの胸に深い不安の影を落とし――それはミギィ=スンの悪名とともに、どんどん勢いを増していった。ドグラン=ルウが家長会議に出向くたびに、ミギィ=スンの悪い逸話が増えていったのである。
そして最後の破局を迎えたのは、初めてミギィ=スンの悪名を耳にしてから三年後――ジバ=ルウが六十五歳、ドグラン=ルウが四十四歳、ドンダ=ルウが二十二歳の年であった。
ドンダ=ルウには二人目の子が生まれ、ルウはムファという新たな眷族を迎えることになった。そんな祝いの年が、ミギィ=スンの魔手によって真っ黒に染めあげられたのだ。
ミギィ=スンが、ルウに嫁入りするはずであったムファの女衆をかどわかし、殺めたのである。
ジバ=ルウとしては、とうてい信じ難い話であった。
「あの忌まわしき男衆は愚にもつかない虚言を並べたて、罪はムファの女衆にあるなどと言いたてていた! あやつは、人の心を持っていない! どうして森辺にあのような存在が生まれついたのか、俺にはまったく理解できんぞ!」
ルウの本家でそんな怒声を張り上げたのは、ジバ=ルウの孫にしてルティムの長兄たるダン=ルティムであった。ドグラン=ルウの判断で、ルウの血族の次代の家長たる若い狩人たちがスン家に押しかけて、事情を問い質してきたのである。
「スンの分家の家長、ミギィ=スン……最近のスン家がおかしくなったのは、すべてあやつのせいであろうと考えていた。よって、あやつが取り返しのつかぬ罪を犯せば、族長ザッツ=スンも処断するしかなく、スン家の道も正されようと考えていたのだが……ザッツ=スンはこれだけの事態に至っても、ミギィ=スンを処断しようとしなかったのだな?」
ドグラン=ルウが重々しい声で問いかけると、レイの長兄が「その通りだ!」と応じる。こちらはルウ分家の女衆を母とする、真っ赤な髪の若き狩人である。
「むしろザッツ=スンは、ミギィ=スンと一緒になって俺たちを嘲っていたのだぞ! そのそばに控えていたザザやドムの連中も、すっかりあやつらの言い分を信じ込んでいるようだった! もはやあのような者どもを、族長筋として認められるものか!」
「そうだ! あのような暴虐を許すことはできん! 森辺の族長に相応しいのはザッツ=スンではなく、ドグラン=ルウであろう!」
ダン=ルティムが、そのように言葉を重ねる。彼はきわめて明朗な気質であり、何名もの子を持つ父とは思えないほど可愛らしい面立ちをしていたが、今は誰よりも猛烈な怒気を発散させていた。
いっぽうドグラン=ルウやドンダ=ルウは同じぐらいの殺気を漂わせながら、決して声を荒らげようとはしない。ただその重々しい迫力は、ダン=ルティムをも凌駕していた。
「しかしザッツ=スンは森辺でもっとも力のある狩人であり、ザザやドムもスンに負けぬほどの力を備えている。お前たちも、それはその目で見届けたな?」
「うむ! しかし、そのようなことで怯む俺たちではないぞ!」
「おう! たとえこの身を引き換えにしてでも、あやつらを叩き斬ってくれよう!」
「そう。俺たちがスンとその血族を滅ぼすには、同じだけの血を流すことになろう。スンの血族が滅ぶとき、ルウの血族もまた滅ぶのだ」
ドグラン=ルウはその内に渦巻く激情をねじ伏せるようにして、重々しくそう言った。
「俺や眷族の家長たちは、何年も前からその事実を思い知らされていた。しかし、本家の長兄たるお前たちは家長会議の際にも家を守る役割があったため、その目でやつらの力を見定める機会がなかった。それでこのたびは、お前たちをスン家に送りつけたのだ」
「うむ? それはどういう――」
「俺たちは、必ずやスン家を討ち倒す。しかし、ともに滅ぶことは許されんのだ。血族の狩人が死に絶えてしまえば、残される女衆や幼子も魂を返すことになるのだからな」
ドグラン=ルウの静かな気迫が、さしものダン=ルティムたちを黙らせた。
「俺たちは、スンとその血族を圧倒できるほどの力をつけなければならん。それには、長きの時間がかかることであろう。そうして俺やお前たちの父親は、すでに力の盛りを過ぎているのだから……お前たちの成長こそが、何より重要であるのだ」
「そ……それではみすみす、スン家の罪を見逃そうというのか?」
「見逃すのではない。スン家を確実に滅ぼせるだけの力を、手中にするのだ。まずお前たちは、それぞれの父親を越えてみせろ。それだけの力を身につけなければ、愛する家族を守ることもままならんと知れ」
ドグラン=ルウはそんな思いで、この三年ばかりの日を過ごしていたのだ。
それを初めて知ったジバ=ルウは、心から打ちのめされることになった。
(ドグランは……あたしが呑気に過ごしている間に、スンを滅ぼす算段を立てていたんだ……)
スンがそれほどに暴虐な氏族に成り果ててしまったことを、ドグラン=ルウは胸に秘めていたのである。それはおそらく、血気盛んな若い狩人たちが暴走しないように――そして、女衆や幼子に不安を与えないようにという配慮であったのだろう。いまやジバ=ルウも、家長のドグラン=ルウから守られる立場であったのだった。
しかしジバ=ルウは、底のない沼の底に沈んでいくような心地であった。
ルウとスンの道は、そうまでくっきりと分かたれてしまったのだ。今後その道が重なることは決してありえないという確信が、ジバ=ルウの心を重くふさいだのだった。
しかも、ザッツ=スンはダナヴィン=スンの子であり、ミギィ=スンはザッツ=スンの姉の子――つまりはダナヴィン=スンの孫であるという話であるのだ。
あの涼風のごとき気配を持ったダナヴィン=スンの血族が、ルウに牙を剥いたのである。ジバ=ルウは、若かりし頃の思い出までもが泥濘に沈んだような心地であった。
(もしかしたら、ザッツ=スンは……族長という身分に魂を絡め取られてしまったのかねぇ……)
自分が生まれたことによって母を失ったザッツ=スンは、誰よりも力を欲していたのだと聞き及んでいる。ジバ=ルウもまた、彼が九歳という幼き身で熾火のように双眸を燃やすさまを見届けていた。
そうして父たるダナヴィン=スンが刀を置き、族長の座を受け継いだ長兄が魂を返したことにより、末弟のザッツ=スンが新たな族長として君臨した。それから十二年という歳月で、このような事態に至ったのだった。
たとえどのような身分になろうとも、人としての心や情けを忘れてはならない。そうして人としての喜びと家長としての喜びを重ねることができなければ、血筋は祝福ではなく呪いと化す。ジバ=ルウはそんな思いでもって、ドグラン=ルウを育てあげてきた。
しかしザッツ=スンは人としての情けを失い、ひたすら森辺の族長として力を求め――そうして族長としての血に呪われて、人ならぬ何かに変貌してしまったのかもしれなかった。




