第六章 ネコたちの逆襲
1
二月二十二日。決戦当日、早朝。
「雪ワン……」
ハチツーは呟いた。決戦の地、港町では深々と雪が降り始めていた。
(ネコたちは寒さに弱い。きっとキャシーさんが振らせてくれたに違いないワン)
真っ白な上空からチラチラと舞い落ちる雪は、街をひとり歩くハチツーの心を優しく包み込んでいった。
(もし……もし今日、勝つことが出来たら、ご主人様は帰ってくる……でも……)
ハチツーのモチベーションは、高いようでいて、そう単純ではなかった。戦いに勝利し、仮に願ったとしても、おそらく肉体のないキャサリンは帰ってこない。そのことがハチツーの闘争本能に鈍りを与えていた。
「隊長……おはようございます」
後ろからハスキー犬のタロが声をかけてきた。
「タロか……おはよう」
「隊長、今日はオオカミを呼べなくて、その……申し訳ありません」
「いや、別に構ワンよ。それにタロが謝ることじゃないワン」
タロは謝らなくて良いことでも謝る律儀なイヌだった。
「……隊長、何があったかは知りませんが、元気を出して下さいよ! 今日だけでも構いませんから。隊長がそんな調子じゃ、隊員の我々だって士気が上がりませんよ……我々に出来ることがあれば何でも言って下さい。力になりますから」
そう言ってタロは三白眼を向けてくる。ハチツーとしては士気を上げたいのは山々だったが、心理的要因からくるふさぎ込みに対しては、手の打ちようがなかった。
そうこうしているうちに、集合場所の空き地が見えてきた。既に数多くのイヌたちが集まり、綺麗に縦横に整列していた。
「隊長!」
ハチツーが姿を現すと、イヌたちは口々にハチツーに声をかけた。ハチツーは無言でイヌたちの前に立つと、静かに語り始めた。
「お前たち……聞いて欲しいワン。実は、私の大切なひとが亡くなったワン。私にとって、初めての経験だった――分かってはいるけれど、そのひとはもう帰ってこない。どんなにホネを積んでも、どんなに懇願しても。失うことの辛さは、もう充分だワン」
ハチツーは静かに両目を閉じて顔を斜め上に向けた。すると、一枚の牡丹雪がハチツーの鼻の頭に舞い降りた。その瞬間、ハチツーはキャサリンの手紙の一文を思い出した。
「あの世だかどこだか知らないけど、あたし、ちゃんとあなたのことは見ているからね」
ハチツーは、ハッと目を開けた。そして、心に強く念じた。
(キャシーさん……見ていて欲しいワン! 今日はあなたの弔い合戦ワン!)
ハチツーは、すぅっと思い切り息を吸い込んだ。
「お前たち、今日が本当の勝負の日ワン! イヌの意地にかけて絶対に負けられないワン!」
ハチツーの話に同情してウルウルしていたイヌたちは、ハチツーの言葉で奮起した。
「……よし、時間だ。行くぞ! ワン、ワン、ワォーン!!」
ハチツーは鬨の声を発した。それに続いて他のイヌたちも「ワン、ワン、ワォーン!!」と雄叫びを上げた。
2
――同時刻、真魚公園。
「お大師様、オイラにチカラを貸して欲しいニャ――」
ネルリは空海上人像に手を合わせ、必勝祈願をしていた。
「ネルリさん、いよいよ決戦ですね」
ボル七が声をかけてきた。
「ああ、オイラたちの実力を見せる時が来たニャ」
ネルリは「南無大師遍照金剛」と書かれた鉢巻を額でギュッと結び直した。
「ネルリさん、今日の作戦は……?」
ピロ助が尋ねた。
「前回と同じニャ。GG班とボル七班は攻めを担当、それから――そうか、スケコマ四郎はオイラが病院送りにしたのだったニャ……」
ネルリは頭を抱えた。
「……それについて提案があるのですが、僕と兄は同時に真言を唱えることで本当のチカラを発揮出来る……いわばセットで使うべきだと思うのです。それも、僕たちが覚えた『不動の印』で、味方の攻撃力を徐々に上げることが出来ますから、補助系に回った方が得策かと思うのです」
ピロ助は一気に説明し終えると、ネルリの反応を待った。
「ふむ、なるほど。ではその作戦で行こう! ボル七、ピロ助、GGの三匹に加えて、今回はタマを四天王とする。ボル七班とピロ助班は守り・補助を、GG班とタマ班は攻め・撹乱を担当する。良いニャ?」
ネコたちは「良いニャ~!!」と賛同の声を上げた。その時、遠くからイヌたちの雄叫びが聞こえてきた。
「……時間ニャ! オイラたちも応戦の狼煙を上げるニャ!」
ボル七とピロ助は用意してきたクサヤを七輪で焼き始めた。
「今度は臭くて盗られないはずニャ……」
二匹が団扇でパタパタと七輪を扇ぐと、公園中にクサヤの匂いが充満した。
「くっさ!」
「くさくさ! くっさ~!」
クサヤの匂いを嗅いだネコたちはバタバタと倒れていってしまった。あとには当初のおよそ半数のネコだけが残った。
「……兄さん、薬師の印で皆を起こします?」
「いや、余計な仙気は使わないでおこう……」
倒れたネコたちの上には深々と雪が積もっていった。
3
「な、何だって!?」
サトルは取り乱しながらソファから立ち上がった。
「落ち着け、サトル。興奮してもどうにもならない」
タイタンはゆっくりとコーヒーを啜った。
「……これが落ち着いてられっかよ……」
サトルはドカッとソファに座ると、両拳を強く握ってブルブルと震え出した。
「……カモミールティーだ。神経を落ち着かせる作用がある。飲みたまえ」
「これが落ち着いてられっかよ!!」
サトルはテーブルの上のカモミールティーを右手で払い除けた。床にぶちまけられたカモミールティーは、割れたカップやソーサーの破片と共に飛び散った。
「……」
タイタンは無言で割れた破片を集めると、部屋の隅にあったゴミ箱に入れた。
「……きみの気持ちは良く分かる。だが、思い出して欲しい。未来の世界を救うことが出来るかは、きみの行動次第だということを」
「御託はもう沢山なんだよ!!」
サトルは目の前のテーブルをドンと右拳で叩いた。タイタンの飲んでいたコーヒーが揺れてソーサーにこぼれた。
「サトル……きみの期待に応えられなくて本当に申し訳ない。だからといって、変な気を起こさないで欲しい。きみの希望にはなるべく応えられるようケアはしていくつもりだ」
タイタンは両手を組み、サトルの目をじっと見つめた。
「……もう一度……」
「……ん?」
タイタンは聞き返した。
「もう一度、会いたい人がいる。その人に会わせてくれ」
サトルの目は下を向いていながらも血走っているのが分かる。タイタンは無言のまま何事かを考え、ゆっくりと口を開いた。
「分かった、いいだろう。ただし、我々のことや未来のことを話すことは許されない。それだけは守って欲しい。さもないと、きみは更に傷つくことになるだろう」
それを聞いて、サトルの目に一条の光が戻った。
4
「――!! ネコたちの狼煙が上がった! 行くぞ! 先手必勝ワン!」
ハチツーは軍配を振りかざし、イヌたちを扇動した。
「うおー!!」
「やってやるぜ!!」
イヌたちは一丸となって空き地を飛び出していった。一方その頃ネコたちは、クサヤの匂いでの自爆で戦力の半数を失いつつも、イヌたちの到着を待っていた。
「――! この地鳴り、イヌたちニャ! 来るぞ、みんな! 迎え撃て!」
ネルリは残った五十匹で公園の出口に詰めかけた。
「南無大聖不動明王……」
ボル七とピロ助は仙気を解放し始めた。
「来る!!」
ネルリたちは身構えていたが、一向にイヌたちが現れる気配はない。次第に地鳴りも小さくなり消えてしまった。
「……?」
ネコたちが訝しがっていると、場の空気が次第に変わっていった。
「マズい、来るニャ!」
ネルリがそう叫び終わるか終わらないかのタイミングで、それは起こった。
「かかれぇー!!」
ハチツーの号令で、イヌたちは公園に飛び込んだ。
「囲まれているニャ!」
ネルリが気づいた時にはもう遅く、イヌたちは公園を取り囲んでいたのだ。もちろん出口にもイヌは数匹立ちはだかり、ネコたちは退路を絶たれた格好となった。
公園内のあちこちで戦いが始まった。ネルリを囲んで守備担当のネコが二十五匹、その周りで攻撃担当のネコ二十五匹とイヌ四十数匹とが戦う構図が出来上がった。
「みんな、もうしばらくの間だけ持ちこたえるニャ!!」
ネルリのかけ声も虚しく、ネコたちは徐々に数を減らしていった。このままネコたちはジリ貧のまま終わってしまうかに見えた。
「――おかしい……陣形的にも数的にも我々が有利なはず……なのにさっきからネコたちの数が減ってないワン!」
最初に異変に気づいたのはハチツーだった。
「間に合ったニャ!」
先程から明らかにネコ一匹あたりの攻撃力が上がっている。これは、ボル七とピロ助の法力が効力を発揮し、ネコたちにチカラを与えていたためだった。
「……ノウマクサンマンダバザラダンセンダンマカロシャダヤソハタヤウンタラタカンマン……」
二匹のロシアンは真言を唱え続けている。
「うぉりゃー!!」
法力でチカラを得たネコたちは少しずつイヌたちを押し始めた。その時、公園内で更に異変が起こった。
「う……あいたたた」
「うう……さ、寒い」
なんと、クサヤの匂いでダウンしていたネコたちが一匹また一匹と復活し始めたのだ。そして、イヌたちを取り囲むカタチで戦闘に加わっていった。
「みんな、大丈夫か!?」
ネルリが問いかけると、法力のせいだろうか、幾分威勢のよい返答が返ってきた。
「てやんでえ、こちとらクサヤごときでダウンしてちゃネコやってられっかっつーの!」
ネコたちは以前よりも元気になってしまった。
「う、くっさ!!」
「くっせぇ!!」
イヌたちの悲鳴が公園内にこだまし始めた。
「GG、タマ!」
見ると、四天王の二匹が団扇を扇いでクサヤを焼いている。
「ネルリの親分、イヌって鼻が利くんですよね!?」
クサヤの効果は抜群だった。イヌたちは為す術なくその場で転げ回った。
「て、撤収、撤収ぅ~!!」
ハチツーの号令でイヌたちは撤退を余儀なくされた。しかし、イヌたちにとって状況は最悪だった。気づいてみるとイヌたちはネコたちとネコたちに挟まれるカタチとなっており、今度は逆にイヌたちが逃げ場を失っていた。
「チャンスニャ! 一気にたためぇ!!」
ネルリが号令をかけたその瞬間、イヌたちに文字通り追い風が吹いた。
「吹雪だ!!」
イヌネコたちを吹き飛ばすかのような大雪と強風が吹き荒れ、クサヤを焼いていた七輪の火も消えてしまった。ネコたちは我先にと遊具などの物陰に隠れ、風雪をしのごうとした。
「隊長、どうします!? 今のうちに態勢を立て直します!?」
ハスキー犬のタロが提案してきた。
「……この吹雪は我々にとっての神風ワン! 逃げ道を作ってくれたに違いないワン! 一旦引いて態勢を整えるワン!」
ハチツーを先頭に、イヌたちは公園の外へと脱出した。それを見送るかのように吹雪いていた空も、イヌたちがピンチを脱すると同時に晴れ間を覗かせた。
「くっ、イヌたちが逃げたニャ! 追いかけるニャ!」
ネコたちはネルリを先頭にイヌたちを追いかけた。
「……隊長、いつまで逃げるおつもりです? そろそろやっちまいましょうよ!」
クサヤの匂いから脱した地点で、タロが提案してきた。
「……よし、反撃開始だワン!」
イヌたちは立ち止まり、ネコたちの方を向いた。
「――!! イヌたちが反撃態勢に入ったニャ! みんな、構えるニャ!!」
ネコたちはネルリの号令で構えを作った。イヌたちとネコたちは再び相見えることとなり、互いに威嚇を行なった。まさに一触即発といった状況が数十秒続き、突如事態は動いた。
「行っけぇー!!」
ネルリが叫ぶと同時に、ネコたちはイヌたちに飛びかかっていった。
5
「ハチツーったら、またどこかへ行っちゃった……」
エリカはキャニスを連れて散歩に出ていた。先程の降雪で、道路の隅や家々の屋根には僅かながら雪が積もっていた。
「うう、それにしても今朝は冷えるわね……」
エリカはダッフルコートの襟を両手ですぼめ、顎の回りを包み込んだ。
(これだけ冷えてるせいかしら、今日はお散歩中の人、誰とも出会わないわね)
街はしんと静まり返っていた。電線の上で鳴くスズメの声だけがチュンチュンとエリカの耳をくすぐっていた。
「そういえばサトル君、どこ行っちゃったんだろ。大学はとっくに春休みに入っちゃったし……旅行にでも行ってるのかしら」
エリカの予想は当たらずも遠からずといったところだった。サトルは大きな大きな時間旅行に出ようとしている。
エリカは下を向いて歩いていた。ブーツの先でコツンと小石を蹴ったところ、思いの外遠くへ転がっていった。それを目で追いかけていくと、見覚えのあるスニーカーとジーンズが目に入った。
「……サ、サトル君!?」
そこに立っていたのは、正真正銘本物のサトルだった。
「やあ、エリカ……ちゃん」
サトルははにかんだ笑みでエリカに右手を上げた。エリカはすぐさまサトルに駆け寄っていった。
「もう! 今までどこほっつき歩いてたのよ!? 心配してたんだから! ハチツーのこともほったらかしで……かわいそうに、いっつもあたしん家の玄関先でサトル君のこと待ってたのよ!?」
エリカは一気にまくし立てると、サトルの身体をまじまじと見つめた。
「……サトル君、少し痩せた? 会ってない間にもしかして筋トレでもしてたの?」
サトルは拉致されてからというもの、ろくに食事を摂っていなかった。タイタン側から食事の提供は充分になされていたが、どれもサトルの喉をまともに通らなかったのだ。
「……エリカちゃん、話があるんだ。ちょっと歩かない?」
サトルはくるりと後ろを向くと、ゆっくりと歩を進めた。
「え? いいわよ。どこへ行くの?」
エリカとキャニスは小走りにサトルを追いかけ、サトルと横並びで歩き出した。
6
「ネルリの親分、マズいです! イヌたちに押されてます!」
GGはネルリに報告した。
「おかしい……ボル七たちの法力で攻撃力は上昇しているはず……」
ネルリの疑問ももっともだった。しかし、ボル七たちは先程の吹雪で公園の物陰に避難したまま、一歩出遅れていたのだった。
「ネルリの大将! 守備隊のボル七たちは公園で暖を取ってます」
タマが状況を報告した。
「くっ、あいつら……ロシア原産のくせに低温耐性ないのかよ……」
ボル七たちの法力がないことに加え、いつもならイヌ一匹倒すのにネコ二匹の被害だったが、寒さのせいでネコの被害は三匹に増えていた。
「いかん、このままだとジリ貧ニャ! 一旦撤収! 撤収ぅー!!」
ネルリの号令で、今度はイヌたちがネコたちを追いかけるカタチとなった。
「ネルリの親分、何か策はあるんで!?」
GGが走りながら尋ねてくる。
「ある! ここは我らがホームタウン、港町。地の利を上手く活かすニャ!」
ネルリは先頭に立ち、とある場所を目指していた。
「見えた! 八百屋さんニャ!!」
坂を少し登った先に、青果店が見えた。
「くっ、でも……作戦を実行するには、イヌを足止めする必要があるニャ!」
ネルリが思案していると、どこからともなく不穏な空気が流れてきた。
「こ、この不吉な予感は何なのニャ……!?」
その時だった。ニャーニャーという声と共に黒ネコの集団が現れ、イヌたちの目の前を横切っていった。
「あれは……アルファ! ケニー! バディ!」
黒ネコを指揮していたのは、誰あろうアルファ三兄弟だった。
「ネルリさん、恩返しに来たよ!!」
長男のアルファはネルリの方に顔を向けてニヤリと笑った。
「かたじけない! みんな、今のうちニャ!」
ネルリは青果店の軒先でネコたちにとある作戦を仕込んだ。
「た、隊長……私はもう駄目です……あんなに黒ネコに過ぎられては……」
「ば、馬鹿野郎!! しっかりするワン! 今が攻める良いチャンスなんだ! 黒ネコがなんだ! 古い迷信なんかに惑わされちゃ駄目ワン!」
イヌたちは黒ネコたちに横切られて士気を下げていた。
「な、長い……いつまで続くんだ、この黒ネコの波は……」
黒ネコたちの横切りは優に二十秒は続いた。そして、すべての黒ネコたちが通り過ぎたあと、イヌたちが坂を見上げると、そこには武装したネコたちが立っていた。
「あ、あれは……長ネギ!?」
ネコたちは一斉に二十数個の玉ネギを坂の下へ転がした。
「イヌは、ネギ類が大敵ニャ!」
ネルリが長ネギを振りかざすと、ネコたちは玉ネギを追いかけるように坂を下り、イヌたちに突っ込んでいった。
「行っけぇ! ネッギネギにしてやるニャ!」
イヌたちはネコたちの奇襲作戦に度肝を抜かれ、次々と倒れていった。
「ぬおりゃ!!」
GGの攻撃はエグかった。両の前脚に抱えた長ネギと玉ネギで相手の鼻の穴と口を塞ぎ、強制的に匂いを嗅がせるというものだった。
「つおりゃ!!」
タマは長ネギを槍のように操って敵をなぎ倒していった。その様はまるで鬼神か修羅の如くであった。
「……この調子で行けば勝て……ん? 何だか様子が変だニャ」
ネルリの観察眼は正しかった。ネコたちに異変が起こったのだ。
「――ん? 何だかクラクラするニャ」
「おかしい……め、めまいがするニャ」
ネコたちは突然、戦いの最中であるにもかかわらずフラフラとよろめき出してしまった。
「……そうか、しまった! 食べたことなかったから分からなかったけど、ネコもネギ類が苦手なんだニャ!」
ネルリは失策に気がついた。
「みんなー!! ネギを捨てろー!! 素手で戦うのニャ!!」
坂の上から叫ぶネルリのもとに、群衆から抜け出したイヌが二匹駆け寄って来た。
「おい、敵の大将がガラ空きだ!」
「おう、いっちょ頂くとするか!」
二匹のイヌはネルリを左右から挟むようにジリジリと距離を詰めてくる。ネルリは溜め息をつくと、二匹に苦言を呈した。
「……お前たち、悪いことは言わない。止めとくニャ」
ネルリは後ろ脚だけで立ち上がると、両前脚を腹の前で交差させ「コォォォォ」と白い息を吐き出した。
「おっと、へっへっへ。こっちは二匹だぜ? 逃げるなら今のうちだと思うがなぁ」
二匹は目と目で合図を出し合い、ネルリに向かって一斉に飛びかかった。
「ネコネコ双璧掌!!」
ネルリは肩の関節を外し、前脚を百八十度に開いて左右に掌底を放った。二匹のイヌは顎に掌底を受け、道路脇の塀まで飛んで行った。
「「ゲブ!」」
二匹のイヌは見事に失神してしまった。
「だから言ったのに……止めとくニャ、って」
7
エリカたちは初戦でイヌたちが集まっていた公園のブランコに座っていた。
「会えなくなる!? どういうこと!?」
エリカは驚いて大声を出した。
「……そのままの意味だよ。僕はもうすぐこの街からいなくなる」
「嘘……そんな……大学も辞めちゃうの?」
エリカは両手で口と鼻を覆って目を潤ませている。
「大学には一応休学届けを出しておく。もしまた戻って来れた時のために……」
サトルはエリカの方を見ずに前を向いて話した。
「そんな……急過ぎるよ……せっかくサトル君とお友だちになれたと思ったのに、もうお別れだなんて……」
エリカは泣き出してしまった。
「しょうがないよ。出会いがあれば別れもある。それに今生の別れとは限らないんだから……また会える日が来るさ。お互い生きてる限りはね」
サトルはポリポリと頭を掻いた。
「……そうだ、ハチツーは? ハチツーも連れてっちゃうの?」
想定外の質問を受けてサトルは困惑した。
「え? あ、うん。ハチツーね。ハチツーは親戚の家に預ってもらおうかな」
しまった――サトルはエリカに見えない角度で苦い顔をした。ハチツーのことをどうするかは本当に考えていなかったのだ。
「ふぅん……そうなんだ。何ならあたしが預ってあげよっか?」
エリカはサトルの顔を覗き込んだ。
「い、いや、いいよ。迷惑だろうし……」
「あら、そんなことないわよ。キャニスだって喜ぶだろうし、それに一匹飼うのも二匹飼うのも同じことよ」
どうやらエリカの口調は本気らしい。
「わ、分かった。考えておくよ。ありがとう」
サトルはこの話題を早く終わらせたかった。
「……それで? いつ引っ越すの?」
「今週中には。大学に届け出して、それから諸々の雑用が済んだら、かな」
サトルは適当に答えた。それを聞いていたエリカは下を向いて足をブラブラとさせた。
「今週中、か。この街でやり残したこととかってないの?」
エリカは遂に核心を突いてきた。
「やり残したこと……あるよ。いっぱい」
「どんな?」
エリカはサトルの方を向いた。
「……初詣で大吉を引くこと。コンビニのおでんと肉まんを腹いっぱい食べること。ゲーセンのシューティングゲームでハイスコアを出すこと。あと……」
サトルが言い淀んでいると、エリカは立ち上がってサトルの脇に手を入れた。
「じゃあ、今から一緒にしよ? やり残したこと」
「ちょ、ちょっと! おいおい……」
エリカに引っ張られ、サトルは公園の外へと出て行った。
8
「お待たせしました、ネルリさん!」
ボル七とピロ助がようやく現場に駆けつけた。
「遅いニャ! ……まぁ、今回だけは特別ニャ。次からは気をつけるニャ」
ネルリは、怒るよりも優先すべきことがあることを知っていた。
「早速、不動の印を唱えます。行くぞ、ピロ!」
「はい、兄さん!」
二匹のロシアンは後ろ脚だけで立ち上がり、前足で指印を組んだ。
「南無大聖不動明王……ウ、ウプ!? な、何だ、この匂いは!?」
ボル七は長ネギの匂いにむせ返ってしまった。先程までのネコたちとイヌたちの戦いで多くの長ネギが折れ、目に見えないネギ汁が飛沫となって浮遊していたのだった。
「マズい……手持ちのネギを捨てれば条件はイヌもネコも同じ……そうなればネコの数が急速に減っていってしまうのは自明の理!」
ネルリが気づいた時には、ネコは最初の四分の一にまで数を減らしていた。
「ネルリさん、とにかく不動の印が唱えられないのはこちらにとって不利です! 一旦場所を変えましょう!」
ボル七はネルリに進言した。
「くっ、長ネギ農家さんごめんなさい……作戦失敗ニャ! 引け、引けぇー!!」
ネルリの号令でネコたちはさざなみのように坂を登ってきた。
「ネ……ネコたちが逃げた! 追え、追えぇー!」
ハチツーも負けじと号令を出す。十五匹まで数を減らしたイヌたちは、皆涙目でネコたちを追いかけた。
必死で坂を登るネルリに、タマが並走しながら話しかけて来た。
「ネルリの大将、少しだけ時間を稼げませんか?」
「ハァ、ハァ……どうしたニャ!?」
タマはどこからくすねてきたのか和牛らしき物を持っている。
「へへ……さっき肉屋の前を通った時にいただいて来たんですよ」
「その肉でどうする気ニャ!?」
タマは不敵な笑みで何かを企んでいるようだ。
「あっしにどうかおまかせを。おっ、ちょうどいいのがあった」
タマは道路脇に停めてあった軽四自動車の下に入っていった。
「ちょっくら拝借するニャ」
どうやらカチャカチャと自動車部品を集めているようだ。
「何をするかは知らないが、ここはひとつタマに賭けてみるニャ! ボル七! ピロ助!」
「はい、ネルリさん!」
ボル七とピロ助はネルリの横に戻ってきた。
「時間を稼ぐ! 援護を頼むニャ!」
ネルリはそう言い放つと急ブレーキで立ち止まり、くるりと後ろを向いた。
「コォォォォ!」
ネルリは二足で立ち腹の前で前脚を交差させ、特殊な呼吸法を使い始めた。
「南無大聖不動明王……ノウマクサンマンダバザラダン……」
ボル七とピロ助も二足で立ち、前足で指印を組んで仙気を解放し始めた。
「チャンスだ! 敵の大将回りが手薄だワン! かかれぇ!!」
ハチツーは軍配を振りかざし、イヌたちに号令をかけた。
「殊勲賞はいただきぃ!!」
ハスキー犬のタロが一番手でネルリに襲いかかった。
「ネコネコグーパン拳!!」
ネルリは腰の入った正拳突きをタロの鼻先に突きつけた。その瞬間タロの身体を一陣の突風が吹き抜けた。
「うおお!?」
タロはそのまま後ろに飛び退った。
「あいつ、ただのネコじゃないぞ!」
「気をつけろ、奴は何か持ってる!」
イヌたちの間にどよめきが起こった。敢えて寸止めしたネルリの攻撃は効果抜群で、イヌたちに迂闊に手を出せないという印象を強く与えることに成功した。
「来るなら来い!」
ネルリは右後ろ足でダンと地面を踏みしめた。
「それならこれでどうかな!?」
イヌたちは三匹まとめて飛びかかった。
「ネコネコ肉球掌・鳳凰の型!!」
ネルリは鳳凰の羽根のように前脚を広げ、三匹のイヌを捌いた。
「くっ、無傷だと!? ネコの情けは要らねぇ!」
「……次、来るなら容赦しないニャ」
ネルリは据わった目で脅し文句をかけた。ボル七とピロ助は印を解いて仙気を集め始めた。
「これならどうよ!? 覚悟しろ!」
今度は五匹が飛びかかってきた。ネルリと二匹のロシアンは一気に闘気と仙気を解放した。
「ネコネコ拳乱舞!!」
「ネコネコ仙気掌!!」
ネルリたちは容赦なくイヌの顔面に技をぶつけた。イヌは五匹共倒れ、これで一気に残りのイヌは十匹となった。
「やってやったニャ! ハァ、ハァ」
さすがにネルリの消耗も激しくなってきた。
「ネルリの大将、お待たせしやした!」
タマの用事が済んだようだ。
「終わったのニャ!?」
ネルリが見ると、タマは何やら箱のような物を持っている。
「出来ましたぜ、名付けて『タマ手箱』でさぁ! これでイヌたちもイチコロっすよ!」
タマは箱を前脚で持ってトタトタとイヌたちの前に持ってきた。そして一言イヌたちに言い放った。
「開けるなよ? 絶っっっ対、開けるなよ?」
イヌたちの頭の上には「?」マークが浮かんでいる。
「ネルリの大将、今のうちに逃げましょう! さぁ早く!」
タマに言われるがまま、ネルリたちは坂を登っていった。
「……さっきの箱は一体何だったのニャ? タマ」
ネルリはタマに問いかけた。
「爆弾ですニャ」
タマはしれっと答えた。
「ば、爆弾!?」
ネルリたちは驚いてタマを取り囲んだ。
「箱を開いたら爆発する仕組みで……イヌたちが開きやすいように牛肉を入れました」
「マ、マズいニャ! そんなエグい攻撃をしたらお釈迦様に怒られるニャ!」
ネルリの心配はもっともだった。事実、初戦では爪と牙を使っただけで雷が落ちそうになったのだ。爆弾などもってのほかであることは火を見るより明らかだった。
「……あれ? 空がゴロゴロ言わないニャ……?」
前回と同様、雷に扮した釈尊の怒りが雷鳴のように響き渡るかと思われたが、そうではなかった。イヌたちは、あまりに従順過ぎたのだ。
「中から牛肉の良い匂いがするけど、開けちゃいけないワン……?」
イヌたちはいつまでもタマ手箱の前で立ち尽くしていた。
9
「あは、サトル君ったら、ひょっとこみたい!」
エリカとサトルはゲームセンターでプリクラを撮っていた。
「そ、そうかな……エリカちゃんはかわいいよ、すごく……」
サトルはドギマギした。女神のようなエリカの笑顔に、心底一緒に居たいと思った。
「サトル君、次は何するの?」
エリカは小首を傾げてサトルの顔を覗き込んだ。
「そうだな……お腹、減らない? ちょっと早いけどお昼にしようよ」
サトルの提案にエリカは二つ返事で了承した。
「うん、そうしよう! サトル君、何食べたい?」
「そうだなぁ……やっぱりモックかな! ハンバーガー食べに行こうよ」
サトルは人生の最後に食べるとしたら何が良いか聞かれたら必ず挙げる程好きなハンバーガーショップの名を告げた。
「モックね。よし、行こう!」
エリカはサトルの腕を取って彼をゲームセンターの外へと引っ張っていった。
「うう、やっぱり外は寒いわね……」
エリカは外気に触れてその寒さに震えた。
「……しょうがないなぁ」
サトルは思い切ってエリカの手を握り、自分のポケットへ突っ込んだ。
「……!」
エリカは驚いてサトルの横顔を見た。
「……実は、これもやり残したことのひとつなんだ」
サトルは顔を赤らめながらもエリカに本当のことを話した。
「え……それって、もしかして……」
エリカはサトルの横顔をじっと見つめ、徐々に高鳴っていく胸の鼓動を感じていた。
「……」
「……」
二人の気持ちは、たしかに通じ合っていた。だが、言葉に出してしまうと壊れてしまうような、そんな儚さも同時に持っていた。
「……このまま、時間が止まってしまえばいい……」
「えっ?」
サトルはエリカの手をポケットから出し、掴んだまま走り出した。
「ちょっ、ちょっと! サトル君どこ行くのよ!?」
エリカはサトルに手を引かれ、そのまま駆け出した。
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十匹のイヌたちは、ネコの集団を探していた。
「くそっ、あいつら一体どこへ……」
ハチツーはしびれを切らし、遂に分散して探すことを決意した。
「よし、この十字路を三匹ずつ手分けして探すワン!」
この作戦がイヌたちにとって致命的となった。十分後、交差点の中央で待つハチツーのもとに、イヌたちの「キャイン!」という断末魔が次々と飛び込んできたのだ。やがてイヌたちの悲鳴が止むと、今度はネコたちの走る地鳴りが聞こえてきた。
「隊長! マズいです!!」
タロがネコたちに追われてこちらに向かって走って来る。
「……! 何が起こっているワン!?」
ハチツーの疑問ももっともだった。通常、分散したイヌ三匹に対してネコたちが勝つには、ネコ九匹以上を要する。単純計算ならばイヌがほぼ全滅すると同時にネコの生き残りもほぼゼロとなる計算なのだ。
「ご覧の通りです!!」
「な、なんじゃこりゃあ!?」
ハチツーは状況が飲み込めないながらも、タロと一緒に逃亡を始めた。
「戦況はどうなっているワン!?」
「現在、我々二匹以外は全滅の模様!!」
ハチツーは目玉が飛び出る思いだった。
「は、八匹全員やられたのか!?」
「どうやらその模様!!」
ハチツーとタロは必死の形相でネコたちから逃げ、やがて港に出た。
「港だ!!」
ハチツーたちは港にぶつかると直角に折れ、そのまま海と並走した。それを追い落とすようにネコたちは二匹を海へ海へと追い詰めた。
「隊長! 明らかにネコたちの数が多いです!!」
最初に真魚公園でクサヤの匂いにノックアウトされたネコたちもすべて回復し戦線に加わっており、ネコは総勢三十匹に及んでいた。
「くっ、万事休すか……」
ネコたちは港の角で小さく怯えるハチツーとタロを取り囲み、勝利を確信した。
「「「さかなさかなさかニャ~!」」」
ネコたちは高らかに勝利の歌を歌った。ネルリは、ネコたちの中から進み出て二匹のイヌに言葉をかけた。
「お前たち、降参する気はあるニャ?」
タロはそれを受けて、どこから取り出したのか白旗を小さく掲げている。ハチツーは歯を食いしばり、両前脚を上に挙げた。
「……よし、それでは交渉開始ニャ」




