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挽歌  作者: 卜貝了一
6/8

第五章 敗北の先に

 1


 ――第一戦目終了からおよそ二週間後。

 ネルリたちはとある神社に向かっていた。そこは日本一の段数を誇る石段の頂上に位置している場所だった。日本一というだけあって毎年参拝客も多く、年末年始ともなると多くの人で賑わっていた。

「お、お前たち……ちょっと待つニャ……ハァ、ハァ」

 石段を登るネルリの体力は限界に近かった。

「大丈夫ですか、ネルリさん? 少し休憩にします?」

 ボル七とピロ助はネルリを気遣って足を止めた。

「そ、そうだニャ……申し訳ないが、そうして貰えると助かるニャ」

 ネルリたちは休憩を挟むことにした。何せ日本一の段数を誇る石段である。体力の消耗も半端ではなかった。

 ネルリたちは背中に背負った荷物を下ろし、魔法瓶に入れてきた麦茶を飲むことにした。

「……ふぅ。少し落ち着いたニャ」

「ネルリさん……もしよかったら、僕たちだけで行ってきましょうか?」

 ボル七は気を遣っているつもりだった。

「い、いや、オイラも行くニャ! 気難しい婆さん(・・・)だから、きっとオイラがいないと駄目ニャ」

 ネルリはチビリと茶を啜った。

「分かりました。ところで、今から会うのはどんなネコ……なのですか?」

 ボル七はチビチビと茶を舐めながら聞いた。

「それは……、一言では説明出来ないニャ。会ってからのお楽しみニャ」

 ふぅ、と息を吐いて、ネルリはコップに茶を継ぎ足した。

「――それにしても、第一戦は惜しかったですね。あの場面で囲まれなければ、あとはネルリさんの作戦通り、木の上からの奇襲で敵の数を減らして……」

 ボル七は尻尾の先をハグハグと噛んでほぐした。

「それはどうかニャ? どちらにしろ、ニホンオオカミが戦いに加わった時点でオイラたちの負けは濃厚だったニャ……それにしてもイヌのやつら、汚いニャ。オオカミなんて反則すれすれじゃニャいか!」

 ネルリは振り上げた拳を下ろす場所が見つからず、怒りの矛先を見失った。

「まぁまぁ、ネルリさん……落ち着いて下さい。過ぎたことを悔やんでもプラスにはなりませんよ」

 ボル七はネルリを宥めながら、第一戦目を振り返っていた。

「オオカミとまともに戦えるだけの戦力、か……」

 ネルリたちにとって、オオカミたちとの実力差を埋めることが出来るかが、次の戦いにおけるキーポイントだった。

「さぁ、行くニャ!」

 ネルリは麦茶をぐいっと飲み干すと、荷物を背負って立ち上がった。

「ええ、行きましょう!」

 それに続いてボル七とピロ助も荷物を背負って立ち上がった。



 2


 石段はどこまでも続いていた。ネルリたちが中間地点に差しかかったところで、ネルリは半ば後悔し始めていた。

「こ、ここまでの段数を、あともうワンセット……き、気が遠くなるニャ……」

 ネルリはクラクラする頭を抱えてその場にへたり込んだ。

「あと半分じゃないですか、ネルリさん! 頑張りましょう!」

 ボル七はネルリを鼓舞した。

「ボ、ボル七たちの法力で何とかならないかニャ~」

 ネコたちはゲラゲラと笑いあった。それから背中に背負った荷物の中からマタタビを取り出すと、三匹はそれぞれ匂いを嗅いでうっとりとした表情を浮かべた。

「……ふぅ。疲れた時はこれに限るニャ」

 ネルリは目をトロンとさせながら呟いた。ネコたちにとってのマタタビは、人間で言うところの麻薬と同等の効用を持っていた。

「ん? 何だか目の前がぐにゃぐにゃするニャ」

 普段マタタビに慣れていないネルリは、マタタビ酔いを起こしてしまった。

「ネ、ネルリさん! しっかりして下さい!」

 高野山での修行の疲れを取る目的でのマタタビの使用に慣れていたボル七とピロ助は、上手に嗜むコツを知っていた。二匹はフラフラになったネルリの両脇を抱えた。

「……ふぁっ!? ここはどこニャ? もう頂上に着いたニャ?」

 ネルリは完全に寝ぼけている。

「もう、しっかりして下さいよ、ネルリさん! まだまだ先は続――」

 ボル七がネルリを諌めようとしたその時、一陣の風と共に一匹の白ネコが物凄いスピードでネルリたちの間を縫って石段を駆け登っていった。

「あ、危ないニャ! 今のネコは一体何だったニャ?」

 ピロ助が訝しがっていると、先程までグデングデンになっていたネルリがスッと立ち上がった。

「……好みニャ」

「「えっ?」」

 ボル七とピロ助は聞き返した。

「今のネコ、滅茶苦茶オイラの好みニャ!!」

 ネルリはそう言うと、先程までの疲れが吹き飛んだかのように石段を登り始めた。

「ちょ、ネルリさん待って下さい!」

「どうされました、急に!?」

 ボル七とピロ助はネルリのあとを追いかけた。


 3


 ――三十分後。

「ッゼェ、ゼェ……ハァ、ハァ……」

 三匹は遂に石段の頂上に辿り着いたのだった。

「オ……オイラの白ネコちゃんは……?」

 ネルリは辺りをキョロキョロと見回したが、白ネコの姿はどこにも見えない。

「ハァ、ハァ……ネ、ネルリさん、ここが目的地ですよね?」

 さすがのボル七も息が荒くなっている。

「……そうニャ。遂にお社に着いたニャ!」

 ネルリはガッツポーズを振りかざした。

 ネルリたちが目指していたのは、イザナギノミコトを祭神とし、千二百年の歴史を持つ由緒正しき神社だった。ネルリがここにやって来たのは、とあるネコに会うためだった。

「登頂を祝して一杯やるニャ」

 ネルリは麦茶を取り出しコポコポとコップに注いだ。

「ネルリさん、この神社のどこかに今回の旅の目的であるネコが……?」

「そう、その通りニャ。今、紹介するニャ」

 ネルリは茶を飲み干し、背中の風呂敷包みの中に魔法瓶を仕舞った。

 その時、にわかに風が吹き、木立がざわざわとさざめき合った。

「……!! 何か来るニャ!」

 ネルリたちはとっさに身構え、臨戦態勢に入った。

「上ニャ!!」

 ネルリたちの頭上からひとつの白い影が舞い降り、鋭く光る爪がネルリの頬を素早くかすめた。

「あ、危ないニャ!」

 後ろに飛び退って間一髪で爪をかわしたネルリは、攻撃を加えてきた対象を目で捉えた。

「――!! さっきの白ネコ!?」

 それは、石段でネルリたちを追い抜いていった白ネコだった。なぜか凄い形相でネルリたちを睨んでくる。

「……曲者!」

 白ネコは牙をむき出しにして今にも襲いかかってきそうな体勢を作った。

「あ、あれは……ネコネコ拳法!?」

 白ネコの構えを見たネルリは戦慄した。それは、伝説の殺人拳であるネコネコ拳法であった。

「そんな馬鹿な……あの拳法を扱えるのは現在日本でただ一匹だけのはずニャ!」

 ネルリは訳もわからないまま身構えた。次の瞬間、白ネコの姿が消えたかと思うと、「うぎゃあ!」という悲鳴がネルリの耳に聞こえてきた。

「ボル七!!」

 白ネコは一瞬にしてボル七に飛びかかっていた。ボル七のマウントを取った白ネコは、ボル七の腋をくすぐり続けている。

「アーッタッタッタッタ!」

 ボル七は白目をむき、口から泡を吹いている。ネルリとピロ助はその場から動くことが出来ず、ぽかんと二匹の様子をただ眺めていた。

「やめなさい、ハク!」

 突然の声に、白ネコは動きを止めた。ピクピクと痙攣を続けるボル七の股間には黄色いシミが広がっていった。

 ネルリたちが声のした方を向くと、そこには古びた小さな祠があった。祠には苔がびっしりと生え、今にも朽ち果ててしまいそうな程オンボロだった。

「もしかして……婆ちゃんか?」

 ネルリが恐る恐る問いかけると、ぎぃと音を立てて祠の扉が開いた。祠の中は薄暗く、奥の様子は一目では分からなかった。

 その時、辺りを包み込む空気がにわかに変わっていった。ネコたちの周囲の温度が下がり、ネルリは身体をブルッと震わせた。

「婆ちゃん!」

 そこに現れたのは、白と黒の毛を持ち、尻尾が二本に別れたネコだった。その齢八百歳を超えるハチワレのネコは、いわゆるネコマタと呼ばれる妖怪なのであった。

「ネルリ……よく来たの」

 どうやらネルリとネコマタは知り合い関係にあるらしい。

「婆ちゃん、相変わらず元気そうで何よりニャ!」

 ネルリはネコマタに駆け寄った。

「うむ。そなたも大きゅうなったのう。して、その者たちは?」

 ネコマタはボル七たちを持っている杖で指し、静かに尋ねた。

「オイラの部下のボル七とピロ助ニャ。このネコたちに婆ちゃんの仙術を授けてもらいたくて連れてきたニャ」

 ネルリは答え、ボル七のもとへ駆け寄った。ピロ助に上半身を抱え起こされたボル七は、未だ痙攣し続けていた。

「ボル七、しっかりするニャ!」

 ネルリはピシャリとボル七の左頬を右前足で叩いた。

「……ハッ、僕は一体……?」

 ようやく気がついたボル七は辺りを見回した。

「……若者よ、そこの手水舎で身を清めるがよい」

 ネコマタに言われ、ボル七は下半身を汚してしまったことを初めて知った。

「くっ、何という屈辱……」

 ボル七は恥辱を噛み締めながら手水舎へ駆け寄った。

「その白いカワイコちゃんは……?」

 ネルリはネコマタの隣でペロペロと顔を洗っている白ネコを指差して尋ねた。

「ん……ハク、自己紹介するニャ」

 ネコマタに促されて白ネコはゆっくりと口を開いた。

「……コハクだ。ネコマタ様の身の回りのお世話をしている」

 コハクは悪びれる様子もなく凛とした態度で物を言った。

「先程はハクがとんだ勘違いをして済まなんだニャ。何しろ近頃治安が悪くてのう。賽銭泥棒なんてしょっちゅうじゃ」

 ネコマタは自分の畑を荒らされる農家のような口調で愚痴をこぼした。

「いや、いいニャ。こちらには大した被害は出てないニャ。ところで、コハクちゃんが使っていた拳法は、もしかして婆ちゃんが教えたニャ?」

 ネルリは疑問を口にした。

「……そうじゃのう。その質問に対する答えは――とりあえずメシでも食ってからにするか。お前たちも腹が減っているだろうて。上がるがよい」

 ネコマタはネルリたちを祠に招じ入れた。



 4


 ネコマタが住む祠は、中に入ってみると意外に広く、ネコ五匹分は充分に収まるスペースを確保していた。どこから持ってきたのか、カセット式の携帯用ガスコンロも完備しており、簡単な料理ならその場で作れそうだった。祠の中には、コハクがトントンと包丁を振るう音が響き渡っていた。

「ネコマンマじゃ」

 三匹の前に出されたのは、カリカリに薄味の味噌汁をぶっかけて上に煮干しをのせただけの簡易的な料理だった。

「ネコ缶に飽きたらこれじゃわい」

 ネコマタは夢中になって皿のメシをハグハグとかきこんでいる。歯の弱ってきている八百歳のネコマタにとって、通常のカリカリを食すことは難しくなってきていた。

「ふぅ……。ところで婆ちゃん、さっきの件だけど……」

 食事を終えて一息ついたネルリはネコマタに話しかけた。

「おお、そうじゃったのう。ハク、ハクや。お前もこっちに来なさい」

 祠の外で洗い物をしていたコハクは、一段落ついたところで祠の中に入ってきた。

「はい、ネコマタ様。お呼びでしょうか」

「お前も話に加わりなさい」

 コハクは「はい」と返事をすると、スッと輪の中に入ってきた。間近で見るコハクは美しく、きめ細やかな毛並みに整った目鼻立ちがその品格を表していた。ネルリは思わずゴクリと生唾を飲み込んでいた。

「あれはおよそ二年前のことじゃった――」

 ネコマタの過去話が始まった。

「――生活物資を調達するために、ある日、(わし)が下界つまり石段の下に降りていた時の話じゃ。そこへネコの親子が現れよって、どうやら野犬に追われているようじゃったのう」

 ネコマタはキセルの煙をプカプカと浮かべた。

「野犬に囲まれてしまった親子は、子どもだけでもどうしても逃がしてやりたい。そこで母親は野犬の群れにひとり突っ込んでいった。その隙に子どもを逃がすために、な」

 ネコマタはネルリの持参した麦茶を啜って話を続けた。

「野犬数匹に対してネコ一匹では当然勝ち目がない。数分後、避難していた子ネコが現場へ戻ってみると、そこには見るも無残な母親の姿があった」

 誰かがゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。ネコマタは少し間を置いてから話を続けた。

「……子ネコには何が起こったか分かるはずもなく、ただただその場で鳴き続けることしか出来なかった。現場に居合わせた儂は、親ネコを手厚く葬ってやった」

 ネルリたちは息をすることも忘れてネコマタの話に聞き入っていた。

「親ネコの墓標を立て、立ち去ろうとする儂の足元にすがりつく者がおった――先程の子ネコじゃ。母を失っては生きてゆけるはずもない程の幼子で、残酷だが儂にはどうすることも出来なかった」

 ネコマタは麦茶をぐいっと口に含むと、ゆっくり喉に流し込んだ。

「お前たち、もう気づいておろう――石段に向かう儂のあとをついてくるその子ネコは、名をコハクと言った。コハクは懸命に儂のあとについて石段を登ってくる」

 コハクはすまし顔で話を聞いている。

「そのうち諦めるだろうと思いながら、儂が石段の半分に到達した頃、後ろを振り返るとコハクはまだついて来ている。そしてとうとう最上段のお社まで登り切ってしまったのじゃ」

 ネルリたちは「お~」と歓声を上げた。

「そこでコハクが言うには、『婆様、どうかあたしを婆様の側に置いてやって下さい。飯炊き・掃除、何でもやります』ときた。儂は言ってやったのさ、『これからはネコマタ様と呼びな』ってな」

 ネコマタはキセルの煙を口からフゥーと吐き出した。

「それから儂は暇を見つけてはコハクにネコネコ拳法を仕込んでやった。いつか野犬に仕返し出来るその日のために、な。この子は既に師範代にまで上達しおった」

 コハクはネコマタに向けてそっと頭を下げた。

「そ、それじゃあ僕たちも……!」

「そのネコネコ拳法を是非……!」

 ボル七とピロ助は喜色満面でネコマタの方へ一歩にじり寄った。しかしながら、ネコマタは無表情のままキセルをふかしている。

「婆ちゃん、オイラたち、どうしてもイヌたちとの戦いに勝ちたいニャ! それには今の戦力では不十分ニャ。どうしても婆ちゃんの力添えが必要ニャ!」

 ネルリは真剣な眼差しでネコマタに訴えかけた。

「……ふむ。誰も教えんとは言っておらん。ネルリにはネコネコ拳法を教えるし、ボル七と、ピロ助……じゃったかの? お前たちにはしっかりと仙術を教えるつもりじゃ」

 三匹は目を輝かせて顔を見合わせた。

「やったー!!」

「――ただし!」

 歓喜に湧く三匹の声をネコマタの一言が遮った。

「……タダでとは言っておらん。報酬はいただく」

 ネコマタは三匹に釘を刺した。三匹は計算通りであると言わんばかりにニヤッと笑った。


 5


 ハチツーは滝に打たれながら考えていた。

(次の戦いも勝てるだろうか……僕たちイヌだけで)

 初戦では、オオカミを呼ぶために大量のホネを用意した。それは、それぞれのイヌが自宅で隠し持っていた秘蔵のホネであった。そのため、イヌたちの手元にはもうホネがない。つまり、第二戦はオオカミ抜きで戦わなければならないことを意味していた。

(不安だ……こうして滝行することぐらいしか僕には出来ることがないワン)

 ハチツーの主人であるサトルは未だ見つかっていない。このまま決戦の日まで見つからないとなると、ハチツーとしてはどうしても勝たざるを得なくなってくる。

(くそっ、いくら考えても答えが見えてこない)

 ハチツーは滝行を終了することにした。ザバザバと陸地へ上がったハチツーを待っていたのは現地のガイドだった。

「はい、お客さん滝行お疲れ様でした! 今、白装束を脱がしますねー」

「オ願イシマス」

 ハチツーはバウリンガルを使って現地ガイドの人間とコンタクトを取っていた。

「お客さん、律儀にお金を払って滝行しにいらっしゃるなんて、人間以外では昨今お珍しいですよ。何かよっぽどの理由がおありなんでしょうね」

「オ恥ズカシイ限リデス」

ハチツーはブルブルと身体を振って水を跳ね飛ばした。

「エ、エ、エギシ!」

 どうやらハチツーは風邪をひいてしまったらしい。

「……エギシ! ヒッギシ!!」

 ハチツーはガタガタと震え出した。

「お客さん、どうしました? これは……すごい熱だ! 大丈夫ですか!? 今、麓の村まで運びますから!」

「カタジケナイ」

 ハチツーは現地ガイドの運転する車で麓の診療所まで運ばれることとなった。


 6


「今、流行りのタラレバ風邪ですね」

 麓の診療所に詰める獣医師は、症状を見て即診断した。

「タラレバ風邪デスカ」

 バウリンガルを通してハチツーは獣医師と意思の疎通を図った。

「二週間程ベッドで安静にしていれば治るでしょう」

 それを聞いたハチツーは驚いて目を丸くした。

「ニ、二週間!? ソンナニカカルモノナノデショウカ?」

「診療所のベッドがひとつ空いていますので、そちらを使って下さい」

 ハチツーはストレッチャーにのせられて病室まで運ばれていった。

(くっ、滝行の向こうに悟りか何かが見えることを期待して、わざわざエリカさんにお金まで借りて山奥にやってきたのに、何という体たらく……)

 ハチツーは自分の情けなさに泣けてきてしまった。

 病室にはベッドが四つあり、残り三つには人間が二人とイヌが一匹横たわっていた。

「あら、新人さんね。仲良くしてちょうだい」

 唐突に話しかけられ、ハチツーはドギマギした。見ると、そこには美しいロングヘアーのゴールデンレトリバーがベッドの上でくつろいでいた。

「あたしはキャサリン。キャシーって呼んで」

「ど、ども、ハチツーです。昔はアルベルトという名前でした」

 キャサリンには、キャニスにはない大人の魅力があった。

「キャシーさんはどんな病気でここに?」

 その質問をした途端、キャサリンの表情は一瞬にして陰りを帯びた。

「……あなた、ここがどんな病室か知らないの?」

 突然のキャサリンの変貌ぶりに、ハチツーは困惑を隠せなかった。

「えっ……ど、どんな病室……?」

 自身がこの病室に入れられたこともあり、ハチツーは混乱してしまった。

「本当に知らないようね。じゃあいいわ、教えてあげる。この病室はね……」

「この病室は……?」

キャサリンとハチツーはじっと見つめ合った。その状態が十秒続くか続かないかして、キャサリンは突然「ぷっ!」と吹き出した。

「アハハハハ! おっかしい! クククッ」

 ハチツーはキョトンとして目をパチパチと瞬かせた。

「……ふふっ、冗談よ、冗談! あー、おっかしい」

「じょ……冗談?」

 ハチツーはまだ状況を飲み込めないでいる。

「そ、冗談。ジョークよ、ジョーク。あなた、きっと真面目なのね」

「じ、じゃあその病気って、つまり……?」

「何でもないのよ。何でもないただのビョーキ!」

 キャサリンは腹を抱えて笑いを堪えている。ハチツーはようやく理解したらしく、ホッと胸を撫で下ろした。

「も、もう……冗談キツいんですから! ビックリしましたよ……」

 文句を言いながらも、ハチツーは満更でもない様子だ。

「あっはは……ところで、ハチツー君はどんな病名なの? よかったら教えてよ」

 キャサリンは笑い泣きで流した涙を前脚で拭きながら尋ねた。

「僕の病名……えっと、タラレバ風邪です」

 その瞬間、キャサリンの顔が凍りついた。

「タ……タラレバ風邪……」

 ハチツーの発言で、またしても二匹の間に妙な空気が流れた。

「こ、この病気が何か……?」

 ハチツーは恐る恐る尋ねた。

「あなた……知らないの? タラレバ風邪にかかったイヌは二週間後に……」

「に、二週間後に……?」

 ハチツーはゴクリと唾を飲み込んだ。

「二週間後に……大体治っちゃうのよ!」

 キャサリンの言葉にハチツーはガクッとずっこけた。

「も、もう、冗談ばっかり!」

「アハハ、ビックリした? あなた、からかい甲斐があるのよ。おっかしい」

 キャサリンは「ククク」と腹を抱えた。ハチツーは悪い気はしないまでも、からかわれるのは初めての経験だったため、戸惑いを隠せなかった。

(面白いひとだなぁ)

 このキャサリンとの出会いが後のハチツーの人生観を大きく変えようとは、ハチツーは知る由もなかった。


 7


「ほう……お前たち、よい心がけじゃ」

 ネルリたちは持参したマタタビ一年分をネコマタに献上した。

「これだけ持って石段を上がるのには苦労しました」

「ふむ、よろしい! 修行を認めよう」

 ネコマタはマタタビを嗅いでうっとりしている。ネルリたちは顔を見合わせガッツポーズした。コハクはマタタビに興味がないらしく、我知らずといった顔をしている。

「では早速……お前たち、このマタタビを担いで石段を一往復してくるのじゃ」

 それを聞いたネルリたちは驚いてネコマタの方を向き、口をあんぐりと開いた。

「ほれ、何をしておる。食後の運動だと思ってさっさと行ってくるのじゃ」

「婆ちゃん、そんな……」

 ネルリは今にも泣き出しそうな顔でネコマタににじり寄った。

「……お前たち、修行したいのか? したくないのか? どっちなんだい?」

 ネコマタは二本の尻尾をゆっくり振りながら静かに問いかけた。

「わ……分かったニャ。行ってくるニャ」

 ネルリたちは渋々マタタビを担いで石段に向かった。

「……ハク、お前もついていってやりなさい」

 ネコマタの言葉にコハクはコクンと頷いた。


 8


 ネルリたちは先程登ってきた石段を一歩ずつ下り始めた。

「ちぇっ、婆ちゃんは一体何を考えているニャ。さっさとネコネコ拳法と仙術を教えて欲しいニャ」

 ネルリはブツブツと文句を言いながら歩を進めている。

「そうですねぇ、帰りの日数を考えると、修行出来るのはせいぜいあと二週間ぐらいのものですもんね」

 ボル七はネルリに話を合わせた。

「あのお婆さん、もしかして僕たちからマタタビだけ奪って何も教えてくれないつもりじゃ……?」

 ピロ助は恐ろしいことを言う。

「大丈夫ニャ。たしかにがめつい婆さんだけど、約束はしっかり守ってくれるはずニャ。何せオイラの婆ちゃんなんだしな!」

 ネルリは胸を張って答えた。

「……ところで、ネルリさんとネコマタのお婆さんは血のつながりはあるのですか?」

 ボル七はかねてから疑問に思っていたことを口にした。

「オイラと婆ちゃんは遠い親戚関係にあるらしいニャ。小さい頃からあの神社には母ちゃんに連れられてよく遊びに行ったニャ。そのたびに婆ちゃんにはいろんなことを教えてもらったニャ」

 ネルリは昔を思い出しながらノスタルジックな気持ちになった。

「……ただ、婆ちゃんは八百歳だから血のつながりがあるかどうかは確証がないニャ。でも、どんなことがあっても婆ちゃんはオイラの婆ちゃんニャ! それが証拠に、こうして修行を引き受けてくれた訳だしニャ」

 ネルリは得意満面で断言した。それを聞いていたコハクが話に加わった。

「……家族がいるって、羨ましい。あたしは天涯孤独だから」

 ネルリはコハクの言葉を否定した。

「たしかにコハクちゃんは血の繋がった家族はいないかもしれない。でも、婆ちゃんがいるじゃないか! 誰よりもコハクちゃんを理解し、誰よりもコハクちゃんのことを最優先に考えてくれる強い味方、それが婆ちゃんさ! ……と、オイラ思うなぁ」

 それを聞いて、コハクはクスクスと笑った。

「……あなた、お婆ちゃんが大好きなのね。ネコマタ様には感謝しているわ。あたしがこうしてここまで大きく育つことが出来たのもすべてネコマタ様のおかげ。これからも一生ネコマタ様に尽くしていくつもり」

 コハクの献身ぶりを思い、三匹はウルウルと涙腺を緩ませた。

 上りと違い、下りはネコたちの足も軽やかだった。あっという間に中間地点に辿り着いた。

「中間ニャ! 休憩するニャ」

 ネルリは荷物を下ろし、麦茶の魔法瓶を取り出した。

「ネルリさん、休憩を取るタイミング、少し早くないですか?」

 ボル七は荷物を下ろしながらネルリに問いかけた。

「そうですよ。いくら時間制限がないからといって、頻繁に休んでいてはその分ネコマタ様から修行を受ける時間も減ってしまいますよ」

 ピロ助もボル七に同意した。

「そ、そうかニャ……でも誰も見てないし、何回休んでも……あ」

 三匹はコハクの存在に気がついた。

「……そのために一緒にいるのか」

 ネルリはようやく思い至った。コハクは素知らぬ顔でペロペロと顔を洗っている。

「行きましょう、ネルリさん。もう一往復やり直しさせられたらたまりませんよ」

 ボル七は居ても立ってもいられない様子でネルリを急かした。それに合わせるようにピロ助も口を開いた。

「そうですよ、ネルリさん。早く戻るに越したことはないですよ」

 コハクも賛同した。

「……早く戻った方がネコマタ様の心証も良いはずよ」

 三対一となってはネルリも動かざるを得なかった。

「……仕方ない、先に進むニャ!」

 ネルリたちは休むことなく石段を下り続ける決意をした。


 9


 四匹が最下段に辿り着いたのは、日も傾き始めた頃だった。

「ちょ、ちょっと休むニャ!」

 他の三匹に比べて体重の重いネルリにとって、下り階段は前脚に負担が大きかった。

「ネルリさん、大丈夫ですか?」

 ボル七は荷物を下ろしながらネルリを気遣った。

「ひ、肘が笑っているニャ……」

 ネルリの前脚はプルプルと震えていた。

「仕方ありませんね。少し休みましょう」

 ピロ助も背中の荷物を下ろした。

「コ、コハクちゃんは毎日この石段を往復しているニャ……?」

 ネルリの問いかけにコハクは涼しい顔で答えた。

「ええ、そうよ。ネコマタ様の食事の買い出しに最低でも二往復はするわ。それが?」

「に、二往復!?」

 ネルリは目玉が飛び出る思いだった。

「ネ、ネルリさん、コハクさんは毎日のルーチンワークとしてやっていて慣れている訳ですから、あまり気にしない方が……」

 ボル七は意味もなくフォローを入れた。

「そ、そうですよ。それにネルリさんよりコハクさんの方が体重も軽い訳ですから……」

 ピロ助の言葉がネルリに突き刺さる。

「オ……オイラもダイエットしなきゃいけないニャ~」

 ネコたちはゲラゲラと笑いあった。それから麦茶を取り出して一息ついたあと、下りてきた石段を今度は登るために立ち上がった。

「よし、行くニャ!」

 ネルリを先頭に、四匹が再び頂上を目指そうとした時だった。

「いっただきぃ!!」

 ボル七が担ごうとしていた荷物を、突如現れた黒ネコたちが奪って逃げてしまった。

「えっ!?」

「マズい! 追うんだニャ!!」

 突然の出来事に反応出来たのはネルリだけだった。

「コハクちゃん、オイラとピロ助の荷物を頼むニャ!!」

 ネルリは駆け出しながら叫んだ。ボル七とピロ助もそれに続いて黒ネコたちのあとを追った。


 10


「兄ちゃん、マズいよ! やつら追いかけて来るよ!」

 黒ネコたちのうち、最も後ろを走っていたネコが叫んだ。追いかけるネルリたち三匹に対し、黒ネコたちも三匹だった。

「荷物を持ちながらじゃ分が悪い! ケニー、バディ、お前たち足止めするニャ!」

 黒ネコたちのうち、後ろの二匹が振り返って臨戦態勢に入った。

「ネルリさん! ここは僕とピロが引き受けました! あの荷物を持ったネコをお願いします!」

「ガッテン! 引き受けたニャ!」

 ボル七・ピロ助対黒ネコ二匹、荷物を持つ黒ネコを追うネルリという図が出来上がった。

「くっ、しつこいやつだぜ!」

 先頭を走っていた黒ネコは、ピタッと走るのを止めた。これは前脚に疲労を残しているネルリにとっては好都合だった。

「とうとう逃げるのを諦めたニャ! 覚悟するニャ!」

 ネルリは黒ネコと対峙した。荷物を下ろした黒ネコは、「シャー」という威嚇をしながら臨戦態勢を作った。ところが、黒ネコは急にふらついたかと思うと、その場に横倒しになってしまった。

 ネルリが恐る恐る黒ネコに近づいてみると、黒ネコはピクピクと痙攣しながら目を回しているようだった。

「……何だ、まだ子どもじゃニャいか」

 ネルリは黒ネコの上半身を抱え起こすと、喝を入れた。

「うっ……ゴホッゴホッ」

 黒ネコは意識を取り戻し、苦しそうに咳き込んだ。

「気がついたようだニャ」

 ネルリに抱え起こされていることに気づくと、黒ネコは素早く横転し逃げようとした。しかし、ネルリに尻尾を掴まれて逃亡は失敗に終わった。

「逃がさないニャ!」

 ネルリは黒ネコの尻尾をぐいっと引っ張り、その場で組み伏せた。

「ネルリさぁん!」

 ちょうどそこへボル七とピロ助がやってきた。

「お前たち、無事だったニャ?」

「ええ、大丈夫です。こいつが首謀者ですね?」

「どうやらそのようだニャ」

 ネルリは黒ネコをボル七に預け、奪われた荷物を背中に背負った。

「連行するニャ」

 ボル七は上手に後ろ脚で立つと、黒ネコの尻尾を掴みながらもと来た道を歩き出した。

「は、離すニャ!」

 黒ネコは抵抗を試みたが、ボル七が黒ネコの尻尾を持つ前脚に力を込めると幾分おとなしくなった。

「どうしてこんなことをしたニャ?」

「……」

 ネルリが問いかけても、黒ネコは口を閉ざしたまま答えようとしなかった。

 三匹と黒ネコが歩いていくと、麻縄で前脚と後ろ脚を縛られた残り二匹の黒ネコが横たわっていた。

「ア、アルファ兄ちゃん!」

 二匹の黒ネコたちは荒縄から逃れようと必死にもがいたが、一向に縄が解ける気配はなかった。

「さて、お前ら……どうしてこんなことをしたのか正直に白状するニャ!」

 ネルリは三匹を前にして凄んだ。黒ネコたちは我関せずといった風で、目をそらし口笛を吹いている。

「……オイラたちも修行の途中で時間がないから、少々荒っぽい手を使わせてもらうニャ……覚悟はいいニャ?」

 ネルリは前足の指をぽきぽきと鳴らし、アルファと呼ばれた黒ネコに近づいていった。

「ネコネコ拳法もどきニャ!」

 ネルリはアルファを仰向けに倒し、マウントポジションを取った。アルファは何をされるか分からない恐怖に怯え、ガクガクと顎を震わせた。

「アーッタッタッタッタ!」

 ネルリはアルファの腋をくすぐり始めた。最初は恐怖に震えていたアルファも、そのうち腋の刺激に耐えられず白目をむき、口から泡を吹き出した。

「や、やめるニャ! 分かった、話すニャ!」

 脚を縛られている黒ネコのうちの一匹が叫んだ。ネルリはピタッと攻撃の手を止め、叫んだネコの方を向いた。

「ようやく話す気になったニャ?」


 11


「俺たち黒ネコ三兄弟は、石段周辺を根城にしているコソ泥集団さ。金目の物を探してきては換金し、生活の足しにしている」

 長男のアルファはビロードのような体毛をペロペロと毛繕いした。

「どうして金が必要なんだい? 食べていくだけならそのへんの民家や飲食店で賄えるだろう?」

 ボル七が尋ねた。

「実は……俺たちの母さんが身体を壊しちまって、薬がいるのさ。薬を買うためにどうしても金が必要で、それでこうしてコソ泥を繰り返しているって訳さ」

 黒ネコ次男のケニーが答えた。

「あんたたちの荷物を奪おうとしたことは謝るよ。オイラたちも生活と母親の命がかかっていた……相手と手段を選んではいられなかったのさ」

 アルファは目を伏せて言葉のトーンを落とした。

「そうだったのニャ……事情は分かったニャ。ボル七、ピロ助、どうにかなるニャ?」

 ネルリは二匹のロシアンを振り返って尋ねた。

「はい、病状によってはどうにかなるかもしれませんが……修行はよろしいのですか?」

「多少は遅れても構わないニャ。困っているネコを前にして素通りは出来ないニャ。ましてやアルファたちはまだ子ども……なおさら放ってはおけないニャ」

 ネルリの決意は固かった。

「お前たち、母親のもとへ案内するニャ。このロシアンブルーたちが母親の病気を治せるかもしれないニャ」

「ほ……本当かい!?」

 アルファたちは目を爛々と輝かせた。

「ボル七、ピロ助、一旦石段まで荷物を取りに戻って、コハクちゃんに伝えてくるニャ。『事情が変わって寄り道してくる』ってニャ」

 ボル七とピロ助はコクンと頷き、石段の方へと駆けていった。



 12


 ネルリたちは黒ネコたちの先導で街を歩いていた。やがて一件の民家に辿り着き、縁の下へと入っていった。

「ただいま、母さん! 具合はどうだい?」

 アルファは横たわっていた母ネコに声をかけた。

「あら、おかえり……ゴフッゴフッ……相変わらず良くはならないねぇ」

 母ネコは苦しそうに咳払いをし、上体を起こした。

「母さん、今日はとんでもないお客さんを連れてきたよ。もしかしたら母さんの病気が治るかもしれない」

「病気が……治る? ゴフッゴフッ」

 母ネコは状況が飲み込めず、訝しがった。

「やってみれば分かるさ。だよね? ネルリさん」

 アルファはネルリたちの方を向き、同意を求めた。

「その通りニャ。ボル七、ピロ助、早速準備するニャ」

 ネルリに促され、二匹のロシアンは準備を整えた。山伏姿に身を包んだ二匹は真言を唱え始めた。

「……オンコロコロセンダリマトウギソワカ……オンコロコロセンダリマトウギソワカ……」

 護摩壇の火は赤く轟々と燃え上がった。

「……黒ネコ・アルファの母を苦しめる病魔よ、たちどころに母ネコの身体から立ち消えよ……オンコロコロセンダリマトウギソワカ、御!!」

 するとどうだろう、用意した薬壺がカタカタと震え出し、一瞬宙に浮いたかと思うと、その瞬間に護摩壇の火が消え、辺りは静寂に包まれた。

 最初に異変に気づいたのは、母ネコだった。突然ガバッと起き上がると、胸に前脚を当てて自分の身体に問いかけた。

「胸が……苦しくない……もしかして治ったの?」

 母ネコの毛並みはつややかで、見るからに元気そのものだった。

「「「母さん!」」」

 三匹の黒ネコたちは、我先にと母のもとへと駆け寄った。ネルリたちはその様子を見届け、帰り支度を始めた。

「なかなか手強い病気でしたね、兄さん」

「ああ、宿主の体力が残っていて助かったな」

 二匹のロシアンは山伏衣装を脱ぎ、その他の道具も荷物入れに仕舞いこんだ。

 ネルリたちが民家をあとにしようとした時、アルファが縁の下から駆け出してきた。

「ネルリさん、ボル七さん、ピロ助さん、このご恩は一生忘れないよ!」

 ネルリは前脚を振って応え、振り返ることなくその場をあとにした。


 13


 石段に戻ってきたネルリたちは、再び体力との勝負が待っていることを思い出しゲンナリした。

「……遅い。これじゃあ減点ね」

 コハクが待ちかねた様子で三匹を出迎えた。

「ごめんごめん、さぁ、行くニャ!」

 ネルリたちは石段を登り始めた。それから十五分もしないうちに、ネルリは音を上げ出した。

「ハァ、ハァ……オ、オイラ、たぶん糖尿病ニャ。だから太っているし、体力もないニャ。オイラのことは放っておいて、みんな先に行くニャ」

 とうとうネルリは被害妄想に取り憑かれてしまった。

「ネルリさん、もう少しで中間地点です。それまで頑張りましょう!」

 ボル七は半ば呆れつつも、ネルリを励ました。

「……ハッ、そうだ。ネルリさんの荷物をコハクさんに持ってもらえばいいんじゃないでしょうか?」

 ピロ助は提案したが、コハクは首を横に振った。

「それじゃあ意味がないわ。ネコマタ様はあなたたちを鍛えるために荷物を持たせたまま石段に向かわせたのよ。あたしが代わりに荷物を持っては効果半減だわ」

 コハクの言い分はもっともだった。ネコマタからネコたちに課せられたのは、荷物を抱えたままの石段往復である。

「……仕方ないですね。ネルリさん、僕たちも同じ条件です。一緒に頑張りましょう」

 ボル七とピロ助はネルリの方を向いてネルリの様子を伺った。ネルリはハァハァと肩で息をしていたが、やがてスクッと立ち上がった。

「……行くしかないニャ。やるしかないニャ。オイラ負けないニャ!」

 ネルリの士気は復活していた。ネルリとしては、コハクの前でこれ以上だらしない格好を見せる訳にはいかなかった。

「うおー!!」

 ネルリは石段を二段飛ばしで駆け上がり出した。

「ま、待って下さい、ネルリさぁん!」

 ボル七たちはネルリのあとを追いかけた。


 14


 四匹は石段の登り中間地点に辿り着いた。

「ハァ、ハァ……ようやく中間地点ニャ……ハァ、ハァ」

 ネルリは大の字になって寝転んだ。

「ネ、ネルリさん……飛ばし過ぎですよ……ハァ、ハァ」

 さすがのボル七も肩で息をしている。

「だらしないわね。この程度でへばってちゃ、先が思いやられるわよ」

 コハクはひとり涼しい顔をしている。

「コ……コハクちゃんが凄過ぎるのさ。オイラたちとは大違い……ふぅ」

 ネルリは荷物から麦茶を取り出し一息ついている。

「あら……あなたたちと同じネコだけど? 少し大袈裟なんじゃないかしら?」

 コハクは嫌味たっぷりに口上を述べた。

「いや、どうしても疑ってしまうニャ。コハクちゃんの筋肉には乳酸が溜まらないようになっているのでは? ってニャ」

 ネコたちはゲラゲラと笑いあった。それからマタタビを取り出すと、三匹はひとしきり匂いを楽しんだ。

「……そうか、そうだったニャ」

 ネルリは何かに思い至ったようである。

「ネルリさん、どうかしたのですか?」

 ボル七は問いかけた。

「黒ネコたちに荷物を奪われて、長男のアルファと対峙した時ニャ。なぜかアルファはフラフラしたかと思うと、卒倒したニャ。こちとら戦う手間が省けてラッキーだったけど、どうして倒れたか分からなかったニャ。その答えがこれニャ」

 ネルリはマタタビを鼻先に持ってきて示した。

「……そうか、なるほど。子ネコにとってマタタビは刺激が強過ぎる……すると自然、走っている最中にアルファはマタタビの中毒症状を起こしていた訳ですね」

 ボル七の分析に対してネルリは相槌を打った。

「その通りニャ。オイラでさえ嗅ぎ過ぎるとクラクラしてしまう程の代物ニャ。アルファにとっては心地よい刺激を通り越して害になってしまったニャ」

 ネルリたちの荷物がマタタビでパンパンだったことが不幸中の幸いに繋がったカタチとなったのだった。

「石段の昇り降りには邪魔でしょうがない大量のマタタビも、時と場合によって少しは役に立つってことが分かったニャ」

 ネルリは麦茶とマタタビを交互に味わった。

「……さ、解析が済んだら先を急ぐわよ。ネコマタ様もきっとお待ちかねだわ」

 コハクは相変わらずクールな物言いだ。

「も、もうちょい休ませてよ、コハクちゃん……」

 ネルリは懇願したが、ボル七もピロ助も既に荷物を背負って立ち上がっている。この場で動こうとしないのは、ネルリと冬枯れた参道の景色だけだった。

「先に行くわよ、のんびり屋さん」

 コハクたちはとうとうネルリを置いて歩き出してしまった。

「いかん、置いていかれるニャ」

 その様子を見てようやくネルリの尻にも火がついた。


 15


「やっと着いたー!!」

 ネコたちが石段頂上のお社に辿り着いたのは、日も陰り始める頃だった。ネルリは登頂を祝して麦茶を一杯飲もうとしたが、既に魔法瓶は空っぽだった。

「あう……遂に麦茶が底をついたニャ」

「ネルリさん、僕の麦茶をどうぞ」

 ボル七はネルリに自分の麦茶を差し出した。

「かたじけないニャ」

 ネルリは遠慮なく受け取って麦茶をコップにたっぷりと注いだ。その時、木々がざわめいて辺りの空気がにわかに変わっていった。

「……遅い。お前たち、一体何をしておったのじゃ?」

 ネコマタがどこからともなく現れた。

「婆ちゃん!」

 ネルリはコップ片手にネコマタの方へ駆け寄った。

「実はカクカクシカジカで……」

「ほう。それでは下界でネコ助けをしておったという訳か」

 ネコマタは右前足でヒゲを整えながら話に耳を傾けた。

「うん、そうそう。コハクちゃんに聞いてもらえれば分かるよ」

 ネルリは麦茶を啜った。

「左様か。まぁそれは良い。それではお前たちに本格的な修行を授けるとするか」

 それを聞いて、三匹の表情は一様に明るくなった。

「ほ、本当!? やったー!!」

 ネルリは喜びのあまりその場で飛び跳ねた。

「うむ。今日は日が暮れるまで時間もあまりない。ネルリはハクとの自由組手、あとの二匹には儂が仙気の練り方を教えてやろう。ボル七とピロ助はこっちへ来るのじゃ」

 ネコマタは社の側道を奥へと歩いていった。ネルリはコハクとの組手と聞いて、内心複雑な気持ちだった。

「コハクちゃん、本気でかかってくるニャ。さもないと怪我するニャ」

 それを受けてコハクも口を開いた。

「あら、どうかしら。これでもネコネコ拳法の師範代なのよ? あなたこそ遠慮は要らないわ」

 二匹の間に火花が散った。

「それではネルリさん、僕たちはネコマタ様のもとで修行して参ります。また後程」

 ボル七とピロ助もネコマタのあとを追って社の側道を歩いていった。

「さ、始めましょう。日暮れまであまり時間がないもの」

 コハクは後ろ脚だけで器用に立ち、前脚で構えを作った。

「女の子をいたぶる趣味はないニャ。早めにケリをつけさせてもらうニャ」

 二匹はジリジリと間合いを詰めていった。辺りは静まり返り、風さえも鳴りを潜めている。その空気に耐えかねたかのように飛び立ったムクドリが試合開始の合図となった。

「行くぜ!!」

「行くわよ!!」

 二匹は同時に飛びかかった。



 16


「よいか、お前たち。仙術とは、チャクラで練られる仙気を体内で循環させ、体中の仙穴を開いて仙気を身に纏うことで初めて使用可能となる高等な術式じゃ。お前たちの潜在仙気を引き出すことによって術の力は何倍何十倍にも増幅させることが出来る」

 ボル七たちはネコマタの話に聞き入っている。ネコマタは黒板に図を書き込みながら講義を続けた。

「仙気を練るには通常三年以上の修行が必要と言われておるが、お前たちは運が良い。既に高野山で仙術の基本を学んできておる。儂が教えるのは、潜在仙気の引き出し方とその使い方じゃ」

 ネコマタは杖の頭で顎の下を掻いた。

「ネコマタ様、潜在仙気というのはどういったものなのでしょうか?」

 ボル七は質問をストレートにぶつけた。

「うむ。今から説明しようとしとったところじゃ。仙気には二種類ある。ひとつは顕在仙気、もうひとつは潜在仙気じゃ。さらに潜在仙気には二種類あっての。ひとつは表層仙気、もうひとつは深層仙気で、我々が引き出すことが出来るのは表層仙気までと言われておる」

 ネコマタはコホンと咳払いを挟んだ。

「……ネコの表層仙気の量を決めるのは深層仙気の量と言われており、深層仙気の量を増やすには、日々鍛錬を積むしかない……今回の修行は期間にして二週間が関の山じゃ。その間に深層仙気の量を増やすのはちと難しい。お前たちには表層仙気を自在に引き出せるよう訓練を施す」

 ネコマタは黒板を離れると、二匹のロシアンに歩み寄った。

「まずはお前たちの仙穴を開く。上半身を起こしたら両目を閉じ、胸の前で上下に肉球を重ねるのじゃ」

 ボル七とピロ助は言われた通りの姿勢を作った。

「……次は精神を統一し、丹田に仙気を集める。これはヘソの辺りに意識を集中し、小腸の中を内容物が回転しているイメージを作るのじゃ」

 二匹は意識を集中させ、ヘソを中心に気を集めるイメージを練った。

「――最後に儂の合図で目を開くと共に肉球を離し、丹田に溜まった仙気を一気に解放するのじゃ!」

 ネコマタは息を大きく吸い込むと、「今じゃ!」と二匹に声を浴びせかけた。二匹はカッと目を見開き、丹田にかぶせていた蓋を一気に開くイメージで、仙気を解放した。その瞬間、三匹の間に見えない上昇気流のようなものが生まれ、一陣の風と共に森の上空へと消えていった。

「……成功じゃ。お前たち、なかなか筋が良いわい。高野山では仙気の練り方は教わっておったのか?」

 ネコマタは満足顔で問いかけた。

「いえ、簡単な術式を覚えることで精一杯でした」

 ボル七は謙遜を交えつつ照れながら答えた。

「そうか、そうか……それではお前たち、仙気を練って解放するプロセスは今日中にマスターさせるのじゃ。反復練習じゃよ。行くぞ!」

 ネコマタは右前足に持っている杖を振りかざした。

「「はい!」」

 二匹のロシアンたちは気合十分といった表情で返事をした。



 17


「ハチツー君、好きなひととかいるの?」

 キャサリンは唐突に質問をぶつけてきた。

「えっ、す、好きなひとですか!? それは……」

 ハチツーの頭の中には最初にキャニスが浮かんできた。

「あー、やっぱりいるのね。いいなー、恋愛って」

 キャサリンは遠い目をして独り言のように呟いた。

「まぁ、好きというか何というか……そういうキャシーさんは好きなひとは……?」

 ハチツーは質問を返した。

「あたしはハチツー君が好き! カッコいいもん」

 突然のパンチにハチツーは不意をつかれてダウンしそうになった。

「えーっ!? そ、そんな急に言われても……弱ったなぁ」

 まともな恋愛経験がないハチツーだったため、こんな時どう切り返して良いか対応に困ってしまった。

「うっふふふ。じょ・う・だ・ん! ハチツー君、今日も面白いわね」

 キャサリンお決まりの冗談攻撃が始まった。ユーモアに耐性のないハチツーにとって、キャサリンの相手をすることは良いトレーニングとなった。

(今日こそキャシーさんに笑われるのではなくて笑わせてやる!)

 ハチツーの決意は固かったが、ハチツーにはそのセンスと方法論がない。今日もキャサリンにからかわれて終わる一方的な展開は目に見えていた。

「ハチツー君はどうしてハチツーっていう名前なの?」

「それはですね、僕の主人が毎日パチンコばっかりしていて、散歩の途中でしょっちゅう待たされてて。そうしたら自然と周りから『忠犬ハチ マークⅡ』ってガンダムみたいなあだ名がついて、それが縮まってハチツーになった訳ですよ」

 ひとしきり話し終えたハチツーは、今の話に笑いどころが一切なかったことに気がついた。

「……」

 キャサリンは無言でハッハッと息をしながらハチツーの目を見つめた。

(ど、どんなリアクションが返ってくるのかな……)

 ハチツーはドキドキしながらキャサリンの言葉を待った。

「……やっぱりあたし、ハチツー君のこと大好きになっちゃった。あたしのこと、お嫁さんにしてくれる?」

 キャサリンはこの期に及んでハチツーをたぶらかそうとしている。

「もう、騙されませんよ! 僕はそんなに安いオスじゃない!」

 ハチツーの怒りがプチ爆発を起こした。

「あら……そんなに怒ることないじゃない。それに、たしかにあなたには冗談ばかり言っているけれど、どんな冗談にも真実は含まれているものなのよ?」

 キャサリンはアメリカのパンクバンドの歌詞を引用してハチツーに訴えかけた。

「ジョンなドウダン……?」

「どんな冗談にも、よ。こっちだって、あなたなら受け止めてくれると思っているから安心してからかっているのよ。それは分かってちょうだいね」

 キャサリンの言い分は正しいようでいて多分にエゴを含んでいた。しかし、ハチツーを丸め込むには充分な論理だった。

「そ、そうか。熱くなってしまって申し訳ないワン。許して欲しいワン」

「あら、こっちは別に怒ってないわよ。あなたのことは好きだって言ったじゃない。これからも仲良くしてくれればそれで充分よ」

 キャサリンの言い草はどこか胡散臭さが嗅ぎ取れるものだったが、ハチツーはこの際あまり気にしないことにした。

「……ところで、キャシーさんはいつ頃退院の予定なの?」

「そんなの……決まってるじゃない。病気が治ったらよ。そんなにあたしと一緒の病室にいるのが嫌なの?」

 キャサリンはイタズラっぽくハチツーを横目で見た。

「そ、そんな……嫌な訳ないじゃないか! お互い病気が治るまで、僕はキャシーさんと仲良くしたいワン!」

 ハチツーは取り乱しながらも本音を言った。

「へぇ、そうなの……もしかしてハチツー君、あたしのことが好きなの?」

 またしてもキャサリンからハチツーへ爆撃が飛んだ。

「え!? そ、それは……」

「ねぇ……どうなのよ!?」

 キャサリンは自分のベッドを右前脚でタシンと叩いた。

「キ、キャシーさんのことはもちろん好き……ワン。だけど、キャシーさんひとりを選ぶことは僕には出来ないワン。決して一匹のメスに縛られたくないとかそうゆう訳ではないワン」

 ハチツーはあたふたと答えたが、なぜか言い訳がましくなってしまった。

「そう……そうなの……あたしだけを見てくれる訳じゃないのね。分かったわ、どうもありがと」

 キャサリンはそう言ってベッドから下り、部屋から出て行こうとした。

「キ、キャシーさん? どこへ行くの?」

「……お手洗いよ。ついてこないでね」

 テクテクと出て行くキャサリンを、ハチツーはただ見ているしか出来なかった。

(キャシーさんって、難しいワン……)

 それから一週間後、ハチツーは別の病室に移ることになった。次の病室にはベッドは二つだけで、ハチツーの他は人間の子どもが一人いたのだった。

(キャシーさん、どうしているかな……)

 初めは小さかったハチツーのキャサリンに対する想いは、今やキャニスと同等にまで膨れ上がっていた。

(もうすぐ退院だ。その時にまた会えるのが待ち遠しいワン)

 ハチツーとキャサリンは、互いに退院する時が来たら、互いの病室に顔を出しに行くと約束をしていた。つまり、ハチツーにとってキャサリンと会えるチャンスは最低でもあと一回は残っていた。

(いろいろ考えても仕方ないワン、もう寝よう)

 時には深く考え過ぎないところがハチツーの長所だった。たとえ訪れるのがハチツーにとって辛い日であったとしても、夜の帳はハチツーを優しく眠りに誘っていくのであった。


 18


「アイタタタ……」

 ネルリは左目の上に出来たたんこぶを優しくさすった。

「ネルリさん、大丈夫ですか? 薬師の印で治癒させましょうか?」

 ボル七はネルリの負傷を気遣って声をかけた。

「いや、大丈夫ニャ。オイラが弱いのがいけないのさ」

 ネルリは強がりを言った。本当はコハクにボコボコにされて言葉を話す元気もなかったが、夕飯を食べることでかろうじて会話が出来る程度にまで回復した。

「どうじゃ、ハクと自由組手をしたことで今の自分の立ち位置が大体分かったのではないか?」

 ネコマタの問いかけにネルリは正直に答えた。

「そうだニャ。オイラまだまだニャ。コハクちゃんと組手をしたことで、それが良く分かったニャ。コハクちゃんが強過ぎる訳じゃない、オイラが弱過ぎるニャ」

 ネルリは半ば自暴自棄になりかけていたが、向上心だけは忘れていなかった。

「あと二週間でありったけ強くして欲しいニャ。婆ちゃん、コハクちゃん、どうかひとつよろしく頼むニャ」

 ネルリはペコリと頭を下げた。

「うむ、その意気じゃ。心がけ次第でお前はどれだけでも強くなれるわい。安心せい」

 それを聞いていたコハクも口を開いた。

「……たしかにあなたはあたしの足元にも及ばない程に弱いわ。だけど、ポテンシャルだけは人一倍の高さを持っていることはあたしが保証する。あなたはまだまだ強くなれるわ」

 淡々と話すコハクの言葉がネルリの頭にゆっくりと浸透していった。

「……ところでお前たちの方は順調ニャ? 婆ちゃんの修行は厳しくないニャ?」

 ネルリはネコ缶をがっつきながら二匹のロシアンに尋ねた。

「ええ、おかげさまで順調です。仙気について基本だけは教わりました」

 ボル七は精悍な顔つきで答えた。そこへネコマタも口を挟んだ。

「こやつらは非常に筋が良いわい。今日で仙気の練り方はマスターじゃ。明日からは中級仙術を教えてゆく」

 ネコマタは木の実で作った自家製の酒を満足顔であおった。

「お前たち、すごいじゃニャいか! オイラも負けてられないニャ~」

 ネコたちはゲラゲラと笑いあった。それから食器を片付け、五匹でUNOをしている時に、ネルリはふと気になったことをネコマタに訊いた。

「婆ちゃんは普段何をしているニャ?」

 ネコマタは静かにゆっくりと答えた。

「……春は鶯の声で目を覚まし、夏は蝉の声の中に命の炎を感じ、秋は鈴虫の声で酒を呑み、冬は雪の声を聞きながらこたつでみかんを食べる。そうして季節が一巡りして、儂もひとつ歳を取る……それを八百回も繰り返してきた。イエネコと違ってテレビを観ることもないが、こうして四季折々を楽しむことによって、分かってきたこともある」

 ネコマタはワイルドカードを場に出し、一口酒を呑んだ。

「――それは、巡る命こそ美しい、ということじゃ。儂なんぞ、醜い、醜い。森羅万象、すべてのものは移りゆく。その中にこそ、本当の美は宿るのじゃ」

 ボル七はカードをまとめて出して場を上がった。

「はい、UNOって言ってないー!」

 ネコマタは得意気にボル七を指差した。そして何事もなかったかのように話を続けた。

「……この世に生を受けた命は、現し世での修行を終えて、また常世に帰ってゆく。輪廻の中で使命を果たした命は、やがて解脱し無へと昇華される。……おっと、少し話が難しかったかの」

 ネコマタはドローツーを出した。

「そっか……婆ちゃんぐらい長く生きていると、オイラたちには分からない世界も分かってくるものなのかニャ~」

 ネルリはスキップを出した。次の番だったコハクは「チッ!」と舌打ちをした。

「お前たちにも分かる日が来る。ネコは最も解脱に近い存在じゃ。何もせずとも、今のままで充分なのじゃよ」

 ネルリはリバースを出した。コハクはまたしても「チッ!」と舌打ちをした。

「……ネコネコ拳法の修行が終わった頃には、少しは婆ちゃんに近づけているかニャ~」

 麦茶をチビチビと舐めながら、ネルリは呟いた。

「それはあなたの心がけ次第よ。ネコマタ様を超えることは出来ないまでも、少しは心身共に磨きをかけることは可能でしょうね」

 コハクがドローフォーを出しながら言うと、ネコマタもそれに賛同した。

「その通りじゃ。大事なのは、一歩でも近づこうという気持ちなのじゃ。その気持ちがある限り、お前たちは成長を続けることが出来るのじゃ」

 ネコマタは場にカードを出し「UNO!」と叫んだ。

「なるほど……気持ちか。オイラまだまだやるニャ!どうか見守っていて欲しいニャ」

 ネルリは「UNO!」と叫びながら複数枚を場に出し、そのまま上がってしまった。

「あっ! く……悔しい……も、もう一回! もう一回じゃ!」

 ネコたちの夜はまだまだ終わりそうもなかった。


 19


 ハチツーが入院してから二週間が過ぎようとしていた。

(明日はいよいよ退院か……結局キャシーさん来なかったけど元気かな?)

 ハチツーの頭の中はキャサリンのことでいっぱいだった。キャサリンと会えないことがなおさらハチツーの気持ちを高ぶらせていたのだった。

(キャシーさんに聞いてもらう冗談も考えてある。僕だってユーモアぐらい持っているぞってところを見せてやる)

そして翌日。

「キャシーさん! 僕だよ、ハチツーだよ!」

 ハチツーはキャサリンの病室を訪れた。だが、そこにはキャサリンの姿はなく、ベッドメイクをする病院スタッフと、キャサリンより幾分か若いメスのゴールデンレトリバーが佇んでいるだけだった。

「……キ、キャサリンさん……じゃないですよね……?」

 ハチツーは恐る恐るゴールデンレトリバーに話しかけた。

「……あなたがハチツーね。私はキャサリンの妹、シャーロットよ。姉はよくあなたの話をしていたわ。面白いひとがいるって」

 シャーロットは目を潤ませながらハチツーに話しかけてきた。

「姉はね、膵臓がんだったのよ。余命宣告されても、それ以上に長く生きたわ。延命措置はすべて拒否していた。だから体中蝕まれていたに違いないわ。それでも姉は強く、明るく生きていたの。きっとあなたと出会って幸せだったはずよ」

 シャーロットは一通の手紙をハチツーに差し出した。

「……姉があなたへしたためたものよ。姉はきっと、面と向かってあなたに伝えるのが恥ずかしかったのね。姉の最後のメッセージよ。どうか受け取ってちょうだい」

 ハチツーが手紙を受け取ると、シャーロットは静かに病室をあとにした。ハチツーが手紙を開くと「親愛なるハチツー君へ」という書き出しで手紙は始まっていた。

「これを読んでいるということは、きっとあたしはハチツー君のところにはいないのだと思う。ハチツー君とあたしが出会ったのは……覚えているかな? ハチツー君があたしの病室に運ばれてきて、あたしから声をかけたのよね。ハチツー君ったら、あたしの冗談を真に受けて、しどろもどろになっちゃって……可愛かったわ。それから、恋愛トークもしたわよね。ハチツー君には結局、振り向いてもらえなかったな。それだけは少し淋しかった。あたしは、本当にハチツー君のことが好きだったのよ。お嫁さんにはしてもらえなかったけど……それでも幸せだった。ハチツー君と同じ病室で、隣同士のベッドで毎日おかしな話で盛り上がって……病気については最後まで本当のことを話せなかったけど、許してちょうだいね。だって、本当のことを言ったら、ハチツー君に気を遣わせちゃうじゃない? それだけは嫌だったの。あたしは、同情のつきまとう余命を生きるぐらいなら、いっそ死んだ方がマシだった……でも、あたしは、ハチツー君と出会ったことで、幸せな一週間を過ごすことが出来ました。タラレバ風邪にも感謝しなくちゃ! ……なんてね、冗談よ。これが最後の冗談になるのかしら。ハチツー君、きみは強く生きてね! あたしみたいに病気に負けちゃ駄目よ。いい? 約束だからね。あの世だかどこだか知らないけど、あたし、ちゃんとあなたのことは見ているからね。辛いことがあればすぐに飛んで行くから。それまで少しの間、お別れね」

 ハチツーは涙と鼻水でグジュグジュになった鼻を啜りながら、二枚目を見た。

「追伸 おせっかいかもしれないけど、ハチツー君の好きな女の子、ちゃんとつかまえるのよ! あたしみたいに青春を逃しちゃ駄目だからね。約束! あなたのキャシーより」

 嗚咽を漏らしながら、ハチツーはその場で号泣した。病室にいた誰もが彼に声をかけることは出来なかった。


 20


 キャサリンの葬儀は、家族だけで行われた。いや、正確には家族に加えてハチツーも顔を揃えていた。

「……」

ハチツーは無言でキャサリンの棺に手紙を入れた。唯一の形見ではあったが、読むとまた号泣してしまうので、ハチツーは辛さを我慢して処分することにした。葬儀場には棺の奥に遺影が飾ってあり、笑顔のキャサリンが皆を見上げていた。

「もう、姉ともお別れね……」

 シャーロットが声をかけてきた。

「……キャシーさんは僕にとって特別なひとだったワン。手紙を読んでそれが良く分かったワン。キャシーさんと同じ病室になれて僕は幸せ者だったワン」

 ハチツーの涙腺はまたほころび始めていた。

「そう……そう言ってもらえると姉もきっと喜んでいるわ。だってハチツーも姉にとって特別なひとだったもの。臨終の時もね、ずっとハチツーの名前を呼び続けていたわ。でも苦しんでいる姿をハチツーに見せたくなかったのね。『最後のお別れにはハチツー君は来てくれるかしら』って、亡くなるまで心配していたの。願いが叶って、きっと姉も満足しているわ」

 シャーロットは自分の濡れた鼻をペロペロと舐めた。

「僕にとって……親しいひとが亡くなったのは初めてワン。こんなに悲しいものだとは及びもつかなかったワン。もし僕が死んだ時も、誰かに悲しんでもらえたら幸せだろうなぁ」

 ハチツーの鼻は既に涙でずぶ濡れになっていた。

「そうね……もしその時が来ても、胸を張って姉に会えるように私たちも頑張らなきゃ! ほら、ハチツーも姉を見送ってくれるのよね?」

 キャサリンを荼毘(だび)()す時間が近づいていた。斎場にはアンドレ・ギャニオンの「めぐり逢い」だけが静かに流れていた。


 21


「お前たち、忘れ物はないか?」

 ネコマタの言葉でネルリたちは身の回りを確認した。

「うん、大丈夫ニャ!」

 マタタビの分だけ軽くなった荷物を背負って、三匹は立ち上がった。

「……もう行ってしまうなんて、せっかちなのね。もっとゆっくりしていったら良いのに」

 コハクは残念そうに別れを惜しんでいる。

「なーに、また来るよ。その時は五匹で温泉でも行くニャ!」

 ネルリはコハクの前に右前足を差し出した。

「……あら、少しはマシな顔になったじゃない、のんびり屋さん」

 コハクはガッチリとネルリの右前足を掴んで握手した。

「コハクちゃんも戦いに参加してくれればいいのに……」

 ネルリは以前から思っていたことを口にした。

「それは無理じゃないかしら。初戦でもメスはいなかった……ということは次戦もオスだけで雌雄を決するのがセオリーだと思うけど?」

「コハクちゃんなら男勝りだからオスに混じっていてもみんな気づかないのではないかニャ~?」

ネルリは軽口を言った。コハクは無言でぽきぽきと前足の指を鳴らした。

「……しょうがないわね。本当にピンチになったら助けに行ってあげる。約束よ」

 コハクとネルリは見つめ合い、目と目で友情を確かめあった。

「さ、ネルリさん。そろそろ行きましょう」

ボル七に促され、ネルリは右前脚を振った。

「そんじゃあなー! 婆ちゃん! コハクちゃん! また来るから元気にしていろよ! 絶対だぞ!」

 ネコマタとコハクはそれぞれ右前脚を振ってそれに応えた。こうして三匹の過酷な修行は幕を閉じたのであった。

「ネルリさん、二週間お疲れ様でした。おかげさまで仙術のいろはを教わることが出来ました。ありがとうございました」

 ボル七は丁寧に謝辞を述べた。

「なに、礼を言われる程のことじゃないニャ。今度の戦いは絶対に負けられないニャ。お前たちには更に強くなってもらう必要があっただけニャ」

 石段を駆け下りながらネルリは横を向いて話した。

「……まさかあれから石段の昇り降りを毎日やることになるとは思わなかったけど、おかげで体力・脚力ともにレベルアップ出来たニャ。あの苦節を思い出せば、イヌたちなんかには絶対に負けないニャ!」

 ネルリたちは一気に中間地点まで石段を駆け下り、そのまま休まずに歩を進めた。

「……ところでネルリさんの方はネコネコ拳法の修行はいかがでしたか? あの様子ですと相当コハクさんにしごかれていらしたようですが……」

 ボル七は斜め前を行くネルリに問いかけた。

「ああ……バッチグー、ニャ。コハクちゃんったら、ほとんど手加減なしなんだもんニャ~……でも、そのおかげでかなり実力がついたことは間違いないニャ」

 ネルリたちは話をしながらでも問題なく石段を駆け下りる術を身に着けていた。ボル七たちは修行中に二匹で相談していたことをネルリに持ちかけた。

「ネルリさん、僕たち、家に帰ったら試したいことがあるのです。おそらくですが、僕たちの今の潜在仙気なら、父の病態をかなりのところまで治すことが出来ると思うのです。元々ネコが勝ったらお釈迦様に何をお願いするか……ネルリさんは父の身体を治すことを第一に考えていらっしゃったはず。今回の修行で、もうその必要もなくなった……ですからネルリさん、もう気負わないで下さい。勝ち負けなど気にしないで、思いっきり戦いましょう!」

 それを聞いたネルリは、無言で前を向いて走った。ピロ助も兄に追従してネルリに進言した。

「そうですよ、ネルリさん。きっと僕たちの力だけで父を回復させてみせます。ネルリさんのお手を煩わせるまでもありませんよ。僕たちの力を信じて下さい!」

 ネルリは十一ヶ月前のニャホニャホ団襲撃を思い出していた。あの時の自分の過ちが許される訳ではないことはネルリ自身よく理解していたが、ボル七とピロ助が提案してくれたことでネルリの気持ちは幾分か楽になった。

「ボル七、ピロ助……気を遣わせてしまってすまないニャ。でも大丈夫ニャ。オイラ元からイヌたちとは思いっきり戦うって決めていたニャ。お釈迦様の報酬については、それならオイラに考えがあるニャ」

 ネルリは話しながらもまっすぐ階下に向かって駆け下り続けた。

「考え……ですか? 一体どんな?」

 ボル七は問いかけたが、ネルリは首を横に振った。

「その時までのお楽しみニャ」

 やがて、石段の最下段が見えてきた。

「ゴールが見えたニャ!」

「……! ネルリさん、あれを見て下さい!」

 ボル七が指差す先には、三匹の野犬が待ち構えていた。

「で、でかい……!」

 野犬の大きさはネルリたちの倍以上あり、まともにやりあっては明らかにネルリたちの分が悪いように見えた。

「このまま突っ切るニャ!」

 ネルリは止まる気配がない。

「ネ、ネルリさん……しかし……」

「兄さん、僕らも行こう! 修行の成果を見せてやろう!」

 ボル七たちも臨戦態勢を作った。

「ワン、ウォン! ワォン!」

 野犬たちは威嚇を続けている。

「跳べ!!」

 ネルリは号令をかけた。ネルリはクルクルと回転し、そのまま二匹の野犬の頭の上に立つと、「コォォォォ」と特殊な呼吸法を使った。

「ネコネコ地裂棍!!」

 ネルリは叫ぶと野犬の頭めがけて両拳をぶつけた。二匹の野犬は「キャインキャイン」と鳴きながらネルリの目の前から姿を消していった。

「南無大聖不動明王……」

 ボル七とピロ助は跳び上がると同時に仙気を練り始め、そのまま残りの野犬に向かっていった。

「ネコネコ仙気掌!!」

 ボル七とピロ助は仙気を集めた前足を野犬の顔面にぶちかました。野犬はガクリと右前脚を折り、そのまま倒れてしまった。

 三匹はそれぞれハイタッチをして健闘を称え合った。三匹の実力は本物だった。

「……お前たち……強くなったニャ」

「……ネルリさんには及びませんよ」

 ニヤリ、と笑みを交わし、ネコたちは決戦の地へと向かった。


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