(12)大江戸トイレ事情 (13)僕はトイレ恐怖症 (14)バキュームカーがやって来た
12]大江戸トイレ事情
狸狐庵山荘でのトイレのアクシデントの前に、便所に関する閑話を少々。
子供の頃の僕にとって便所というのは、恐ろしくて汚いところでしかなかった。
母屋からは10㍍以上離れた別棟にあり、多くは風呂場と隣り合わせになっていた。
大のほうは粗悪な板でできた開き戸があり、床には抜け落ちそうな板の中央部にポッカリと大きな穴が開いている。
しかもそこには便器などはなく、前方に金隠しとして四角い板切れが打ち付けてあるのみだ。
一方の小のほうには開き戸すらなく、コンクリートで固めた大きな穴が掘ってあるか、あるいは口の広い大きな瓶が一個置いてある。
つまり男子はそれに向かって放水し、汚物が溜まったら大きな柄杓で肥桶に汲み取ってから、天秤棒にぶら下げて野菜畑や水田に運ぶ。一方の大のほうも、便所の裏側に汲み取り口があって、そこから柄の長い柄杓を差し込んで汲み取る。
お百姓さん達はそれら全てを農作業の一貫として自分でやるのは勿論だが、作物の肥としてはそれだけでは足りず、他の家のものまで野菜と交換したりして汲み取っていく。
これら肥汲みと呼ばれる作業は、江戸時代より以前の昔から続けられていることで、金持ちの家の肥にはおかみさんや娘さんが過って落とした高価なかんざしなんかが混ざっていたこともあったらしい。
そいつは勿論、ラッキー! でしょう。
いや、中には正直な人もいて、きれいに水で洗って元の持ち主にお返ししたお百姓さんなんかも、勿論いたようですよ。
なかなか、世の中捨てたもんじゃない。
ところで江戸時代の話が出たから、もう少し脱線ついでに言いますと、お江戸の長屋なんかでも共同の井戸や厠が一つずつしかなかったみたいで、しかも厠は、壊れかかった板の戸の向こうは便槽の上に二本の柱が渡してあるのみで、その前に数人の行列ができることもあったらしい。
なかには下痢の人や便秘に悩む人もいただろうに、プーとかピチピチーとかが並んでる人達みんなに聞こえるわけで、特に若い娘さんたちだったら冷や汗ものだったにちがいない。
また大家さんとしたら肥が溜まるほど野菜や米などの作物がもうかるわけだから、長屋の住人たちは出来るだけ長屋の厠で用を足すようにと、うるさく言われたそうである。
今から考えると想像しにくい環境だったようだ。
ちなみに江戸方面では便所のことは厠ではなく後架と言ったらしい。
閑話休題。
狸狐庵山荘の『トイレが大変だ』に話を戻そう。
いや、ちょっと待った!
山荘に雨が降りだした。
どうやら秋雨前線が山荘の上をうろちょろしているようだ。家が古い上にトタン葺だからパラパラチョボチョボとうるさくて仕方がない。
そのうえ知人から貰った、とてつもなく脱水音のうるさい洗濯機で洗った洗濯物が、今、外の草むらに干してある。
ダメダメー! やばっ! それじゃまたー!
[13]僕はトイレ恐怖症
つくつく法師や蜩の鳴く狸狐庵山荘でもまだまだ残暑が厳しい。
今日はよく晴れてはいるが、大気はやはり熱気と湿気を含んでいて、ここから見える太平洋も白っぽく霞んだままである。
水平線が見えないから空と海との区別がつかない。
前回、狸狐庵山荘の『トイレが大変だ』という話をしたが、実は簡易水洗のパッコンの動きが悪くなった次第のこと。つまり用足したものが弁の上に載っかっても、スムーズに弁が開いて落下しにくくなった。それを水で流そうとすると一応流れはするものの、だらーっと開いた弁はゆっくりと元の位置に辛うじて戻るかあるいは開きっぱなしとなる。
鹿おどしのような心地いい響きは二度と聞かれなくなったのだ。そして弁の直ぐ下には流れきれずにいる水がのぞきはじめていた。
「ねえ、便槽の中覗いて見てくれん?俺、そんなことすると悪い夢見てうなされるから。どうやら便槽がいっぱいになって流れが悪くなったみたいや」
「えー?!仕方ないわねえ」
妻も呆れ顔だ。
「イヤー、本当申し訳ない。こればっかりはいつも言ってるように、しょっちゅう汚いトイレが夢の中に出てきてうなされるのよ」
仕方ないと言いながらも妻は意外とあっさりと便槽のマンホールの蓋を開けた。
僕は情けない男を絵に描いたように、遠くからその妻の様子を伺っていた。
妻は便槽の中を暫く凝視していた。
取り敢えずは嫌な顔とかしかめっ面だけはしていない。
どちらかといえば不審気だ。
「ねえ、ちょっと来て来て」
「ダメだって、俺。勘弁して。どう?いっぱい溜まっちゅう?」
「いや、それ程いっぱいって感じじゃない。まあちょっと来てみて」
「ダメダメ 」
「それ程、そんな汚いって感じじゃないよ。来て来て 」
僕は観念してそっとマンホールの方に近づき、遠くの方から恐る恐る便槽の中をチラリと見る。勿論へっぴり腰だ。
それは本当に大したことはなかった。
便槽の3分の1くらいのところを焦げ茶色の繊維質のようなものが覆っているだけだった。
「ね。大したことないでしょ。管が詰まる程いっぱい溜まってもないよねえ」
「うん、そうやねえ」
それから2、3日しても状況は改善されず、業を煮やしたふたりは、長くて細い棒をパッコンの弁の隙間から差し込んでみた。
いや、ふたりではなくこれも妻にやってもらった。情けない話だ。
棒はパイプのカーブのところをやっとこさ通り抜け、2㍍以上も入っていった。それで暫くツンツンやってみたが、それでも溜まった水が少し流れる程度で直ぐに元の状態に逆戻りする。
さすがの僕もそんなこと言ってる場合じゃなくなった。一緒になって手伝った。
夜になってもふたりで棒でツンツンやっていた。
僕が棒で突くと外のマンホールの中を懐中電灯で覗き込んでいる妻が、出た出た棒の先が出てきたと叫ぶ。
水とかは出ん?と僕がトイレのなかから叫ぶ。ちょっと出たけど余り出ない、とまた妻が叫ぶ。
ここは山の中だからよかった。近所もない。街中ではできる話ではない。
結局、全く意味が解らなかった。
トイレの、見えないところでいったい何が起こっているのだろうか。
困り果てた二人が出した結論は、取り敢えず明日バキュームで汲み取ってもらおう、だった。
[14]バキュームカーがやって来た
バキュームカーがやってきた!
大変失礼な話だが、街中ではいつもは敬遠する車だ。車で道を走ってるときでも、この車が前後や横に来るとつい逃げたくなる。臭いもさることながら接触事故を起こしたり、ましてや衝突でもしようものならそこらへんが糞尿だらけになるのではと勝手な杞憂をしたりする。
でもこのときばかりは違っていた。
実に格好よかった。山中で軽いディーゼルエンジン音を響かせながら、ピカピカの4トンバキュームが颯爽と現れた。このときの僕たちにとって正にそれは宇宙戦艦ヤマトだったのかも知れない。
宇宙戦士がバキュームカーから降りてきた。精悍なイケメン青年だ。僕たちはこの瞬間全てのトラブルが解決したような安堵感に包まれた。
宇宙戦士はすぐさま作業にとりかかる。
そして作業は瞬時にして完了するであろうと誰もが思ったに違いない。
ところがである。宇宙戦士は始めて直ぐに作業の手を止め、バキュームのホースをマンホールの側に置いてしまった。
彼は何かを思案しているようだった。
暫く便槽の中を覗き込んでいたが、やおら立ち上がると今度は、バキュームカーから1㍍程の鉄の棒の先に小さな鉄板の付いた器具を持ち出した。
彼はその器具で便槽の中の何かを掻き出し始めたのである。
「何ですかそれ」
僕は、彼が掻き出してマンホールの側に積み上げてある、黒っぽい繊維の塊のような得体の知れないものを指差して訊いた。
「木の根っこです」
宇宙戦士は、きっぱりと答えた。
「便槽の中にあるのはほとんどが木の根っこですねえ」
僕には直ぐにはその状況が飲み込めなかった。いや、よく考えてみても未だにはっきりとは解らない。
「何でこんなことになったの?」
「多分マンホールの周りにある木や草の根っこがマンホールの隙間から入り込んだんでしょう」
「へーえ、なんということ」
マンホールの周りの木から伸びてきたとしても、僕には根っこだけがマンホールのなかで独立して繁殖しているかのように見えた。
どうしても外部の植物と根で繋がっているようには思えないのだ。つまり根だけの植物がマンホール内の汚物を肥として繁殖していると。
彼が掻き出している様子からも双方が繋がってるようには見受けられない。
でもそんなことはあり得ないのか、どうか、やっぱり解らない。
「根っこの量的には大体そんなもの?」
「いやいやまだこの3倍位は中にあります」
「えー?そりゃ大変だ」
もう既にマンホールの側には大きめのバケツ1杯分くらいの根っこが積み上げてあった。
「バキュームで吸うと機械がこわれますので。柄の長い先のカギ状のもの何かないですか」
「カギ状?鍬みたいなものがいいの?」
「それがあれば一番いいですけど」
考える村の管理人に電話で聞いたら、一応あるということだったので、僕は車に乗ってそれを借りてきた。
しかしそれは、欲しかったものよりは大分柄が短く、一応宇宙戦士に渡しはしたものの、余り役に立った様子はなかった。
結局は彼は、元の器具で全ての根っこを掻き出してくれ、後はバキュームできれいに吸い取ってから、更に水で便槽を丁寧に洗ってくれた。
図らずも僕は感動した。誰もが嫌がるこんな作業を嫌な顔ひとつせず完璧にこなしてくれたのだ。
自分のものでさえ、汚いとか夢に見るとか言って嫌がってやろうとしない自分を恥じた。
ここ『考える村』のコンセプトである「自然の中に人間の生き方を考える」というのはこのことなのかもしれないと、ふと思った。
自然の中に考えるといえば、先程、一寸一息ついてぼんやりとしていると、窓の向こうを山荘の方に向かってすごいスピードで飛んできた鳥がいた。
超低空飛行だったので大丈夫かなあと心配していると、案の定、庵の北側の窓ガラスのところでドーン!という大きな音がした。
こりゃ大変とばかりに見に行ったら、鳥の種類は判らないが、大きさは九官鳥くらいで結構色んな色が鮮やかで綺麗な鳥が、デッキの上で目を回して逆さになって倒れていた。
そっと近付いて見ると、かれは脳震盪みたいなのを起こしているのか、目をパチクリさせながら死んだように脚を真っ直ぐに伸ばしたままである。
僕は大声で狸狐庵窯の工房に居る妻を呼んだ。
「見て見て、これ。鳥が窓ガラスにぶつかって倒れた」
「ほんとだ。脳震盪起こしたんだ、きっと 」
妻も初めて見る鳥の珍しい姿を興味深そうに見守っている。
どちらにしろ死んではいないようだ。
僕は瀕死の状態の鳥を前に、持上げてどうにかすべきかどうか迷っていた。
結構大きい鳥だから、触るのに多少の恐怖感もある。
そんなことを考えてるうちに、かれは突然起き上がるなり、ギャギャギャギャと嗄れた雄叫びをあげながら、可なりのスピードで、 それもまた結構な低空飛行で近くの森の方に飛び去ってしまった。
かれは、意識のある限り真っ直ぐに突っ走る特攻隊みたいな奴だった。
自然は愉快でたまらない。
「まー!写真撮っといたらよかったねえ」
妻は残念そうに呟いた。
僕はあの特攻野郎の鳥の種類を調べてみようと思った。
山荘の自然は、トイレもそうだが、僕達に、その色んな姿を見せてくれる。




