第9話 空白の向こう
11月に入っても、直人と美帆は次に会う日を決められないままでいた。
連絡は続いていた。
朝と夜の挨拶に、ときどき仕事の話が加わる。
部屋が正式に決まった日には、生成りのカーテンを注文したという報告も届いた。
『直人が選んだ方にしたよ』
嬉しくて、直人は画面を見返した。
『届いたら写真見せて』
『引っ越してからね』
やり取りはそこで終わった。
以前なら、そのあとに余計な一言を送っていた。
新しい部屋で最初に食べるものや、カーテンの長さについて。
美帆も呆れながら返してきたはずだった。
今は、会話を続けようとすることが、互いに何かを確かめる行為のように思えた。
12月の第3土曜日、美帆は予定どおり新しい町へ引っ越した。
会社が手配した業者が荷物を運ぶため、手伝いはいらないと言われていた。
それでも直人は朝から落ち着かず、何度もスマートフォンを手に取った。
『今、出たよ』
午前9時過ぎに届いたメッセージには、荷物のなくなった部屋の写真が添えられていた。
何度か訪れた美帆の部屋だった。
窓際に置かれていた小さな棚も、床に座って一緒に映画を観たクッションもない。
何もない部屋は、直人の知っている場所ではないように見えた。
『気をつけて』
それだけ返してから、部屋まで見送りに行けばよかったと思った。
だが、美帆はもう電車に乗っている。
昼過ぎに『着いた』と連絡があり、夕方には段ボールに囲まれた新しい部屋の写真が届いた。
窓には、まだ折り目の残った生成りのカーテンが掛かっていた。
『ちゃんと合ったな』
『そこ心配してたの?』
『少し』
『失礼な。長さもぴったりです』
画面を見て笑い、直人は通話ボタンへ指を置いた。
迷った末に押すと、美帆はすぐに出た。
「もしもし」
「片づいた?」
「全然。今日寝る場所だけは作った」
「手伝いに行けばよかったな」
「来ても、段ボール運ばされるだけだよ」
「そのために行くんだろ」
電話の向こうで、美帆が小さく笑った。
「ありがとう。でも、もう大丈夫」
拒まれたわけではない。美帆は自分で決め、新しい仕事の準備をし、知らない町に部屋を整えている。
直人がいなくても、美帆の生活は始まっていく。
「外、見える?」
「少しだけ。駅の方の灯りが見えるよ。海はないけど」
「そりゃ、あの町じゃないからな」
「分かってる。なんとなく言っただけ」
短い沈黙が落ちた。
「直人」
「ん?」
「1月の予定、出た?」
「まだ全部は。最初の週は休めると思う」
「そうなんだ」
「美帆は?」
「最初は研修が多いみたい。土日は休めると思うけど、まだ分からない」
「じゃあ、分かったら決めよう」
「うん」
また同じ答えだった。
確実になったら。予定が分かったら。落ち着いたら。
待っているうちに、美帆は3時間先の町へ移っていた。
「今日は疲れただろ。早く休みな」
「そうする。電話ありがとう」
「おやすみ」
「おやすみ」
通話が切れたあと、部屋の静けさが急に広がった。
直人は机の引き出しから、美帆にもらった手帳を取り出した。
1月のページには、あの夜につけた小さな丸が残っている。その隣には何も書かれていなかった。
予定が決まっていないから書けないのではない。
書けば、自分から約束しなければならなくなる。
行けなかったときのことや、美帆に断られたときのことを考え、最初から何も決めない方を選んでいた。
直人は丸の隣に「美帆に会いに行く」と書いた。
書いてしまえば、それは予定ではなく、自分の意思になった。
翌朝、直人は美帆へメッセージを送った。
『1月の最初の土曜、そっちに行きたい』
返事は昼前に届いた。
『来てほしい。でも、その日は午前中に研修が入るかもしれない』
『終わる時間に合わせる』
『待たせるかも』
『待つよ。今度は30分前じゃなくてもいいから』
少しして、美帆から笑っている顔の絵文字が届いた。
それだけで、止まっていたものがわずかに動いた気がした。
年が明け、直人は約束した土曜日に美帆の町へ向かった。
窓の外を流れる景色は、進むほど見慣れないものへ変わっていった。
電車で3時間という距離は、時刻表で見たときより長かった。けれど、遠いとは思わなかった。
美帆は駅前で待っていた。
厚手のコートの袖から、銀色のブレスレットがのぞいている。
「お疲れ」
「来てくれてありがとう」
「研修は?」
「昼前に終わった。直人こそ、疲れたでしょ」
「座ってただけ」
「3時間も?」
「美帆が夏に海へ行くときより、1時間長いだけだろ」
美帆は少し驚いたあと、静かに笑った。
2人は駅の近くで昼食を取り、美帆の案内で町を歩いた。
毎日使うスーパー。
出勤するときに渡る大きな交差点。
帰りが遅くなった日に寄ったというコンビニ。
観光地ではない町を、美帆は自分の生活の一部として説明した。
直人はそれを聞きながら、美帆が変わっていくという言葉の意味を初めて現実として見ていた。
知らない道を覚え、知らない人と働き、自分の場所を作っている。変わることは、今までの美帆がいなくなることではない。美帆の中に、新しい景色が増えていくことだった。
「ここ」
美帆が足を止めたのは、低いマンションの前だった。
「やっと来た」
「遠かった?」
「駅からは近い」
「そういう意味じゃなくて」
美帆は直人を見た。
答えを探しているうちに、美帆が先に階段を上り始めた。
部屋に入ると、写真で見た生成りのカーテンが窓辺に掛かっていた。
小さな机の上には仕事の資料が積まれ、その隣に、2人で海へ行ったときの写真が立てられている。
「これ、持ってきたんだ」
「うん。何も飾らないと寂しかったから」
夕陽に染まるカフェの窓辺で、美帆が笑っている写真だった。
向かいに座って撮った直人の姿は写っていない。
それでも、その時間の中には確かに自分もいた。
「カーテン、いい色でしょ」
「俺が選んだからな」
「最後に決めたのは私です」
美帆は笑い、湯を沸かし始めた。
2つのカップを持って戻ってきた美帆は、床に置いたクッションの片方を直人へ差し出した。
「まだ椅子、1つしかないの」
「机も小さいしな」
「また言ってる。仕事は会社でするから、これで十分」
「じゃあ、俺が来たときは?」
「床に座ってもらいます」
「客に厳しい部屋だな」
「次に来るまでには、もう1つ買っておく」
次があることを、美帆は自然に口にした。
直人は温かいカップを両手で包んだ。
「仕事、どう?」
「まだ始まったばかりだから、分からないことばっかり。でも、参加してよかったと思ってる」
「そっか」
「大変そうって言わないんだね」
「大変なのは見れば分かる。それでも美帆がやりたかった仕事なんだろ」
美帆はカップの縁へ目を落とし、小さく頷いた。
「前は、向こうでも今までどおり会う方法ばかり考えてた。でも今日は、美帆がここで何を見つけるのか、もっと聞きたいと思った」
「それなら、ちゃんと話すよ。直人の仕事のことも聞かせて」
「俺の方は、そんなに変わってない」
「変わってなくても聞きたいの。最近、終わった時間しか教えてくれないから」
直人は、自分が気遣うつもりで削ってきた言葉を思い出した。
「じゃあ昨日、昼に食べた定食の話からする」
「今?」
「聞きたいんだろ?」
「もう少し面白い話がよかった」
美帆は呆れたように笑い、直人も笑った。
離れてから減ったものは、距離のせいだけではなかった。
邪魔をしないように、負担を増やさないようにと、2人とも相手の日常へ踏み込むことを遠慮していた。
けれど一緒に生きるということは、特別な日に会うことだけではない。
何を食べ、何に疲れ、どんなことで笑ったのか。
そんな小さな毎日を、面倒がらずに渡し合うことなのかもしれなかった。
直人は窓の外を見た。知らない屋根と、冬の薄い空が広がっている。
海辺の町とはまるで違う景色だった。
けれど、美帆がここで過ごした日々を聞き、同じ窓から景色を見たことで、この町はもう地図の上の遠い場所ではなくなっていた。
帰りの電車に乗る前、美帆が改札の手前で言った。
「今日は、本当にありがとう」
「また来るよ」
「無理しなくていいからね」
「無理じゃない」
直人はすぐに答えた。
「来たいから来る」
美帆は何も言わず、少しだけ目を伏せた。それから、コートの袖から手を伸ばし、直人の手を握った。
久しぶりに触れた手は、冷えていた。
それでも直人には、記念日の夜よりも近く感じられた。
帰宅したのは夜の9時を過ぎていた。
直人は手帳を開き、今日の日付の横に線を引いた。
次の予定を書こうとして、美帆の勤務がまだ分からないことを思い出す。
以前なら、そこでペンを止めていた。
今度は翌月の空いている土曜に丸をつけ、「美帆と相談」と書いた。
約束は、すべてが決まってから交わすものではない。
決まっていない未来へ2人で進むために、先に言葉にするものなのだと、ようやく分かり始めていた。
机の上のスマートフォンには、美帆から送られた新しい部屋の写真が残っている。
その隣には、夏の海の写真があった。
直人はこれまで、美帆を失いたくないのだと思っていた。
だから離れても会える方法を考え、今の関係を壊さないようにしていた。
けれど今日、美帆の新しい町を歩き、彼女の部屋から知らない景色を見て、初めて気づいた。
自分が望んでいるのは、美帆を今までの場所へ引き留めることではない。
美帆が選ぶ道を隣で見たい。その先で変わっていく彼女と、自分も一緒に変わっていきたい。
守りたかったのは、恋人という形ではなかった。
美帆と過ごす人生そのものだった。
その気持ちを、まだ美帆には伝えられていない。
けれど今度は、言葉にすることから逃げたくなかった。
直人は手帳の空白へ、もう1つだけ書き加えた。
「美帆と話す」
それは日付のない予定だった。
それでも、いつかではなく、自分で果たすと決めた約束だった。




