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来年も、その先も  作者: ムネディ


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8/13

第8話 空いたままの週末

 記念日の夜から、2週間が過ぎた。

 美帆との連絡がなくなったわけではない。

 朝になれば、どちらからともなく「おはよう」と送り、仕事が終われば「今終わった」と知らせる。

 眠る前には「おやすみ」も言う。

 以前と同じように見えるやり取りは、毎日きちんと続いていた。

 ただ、その間にあったものが、少しずつ減っていた。

 通勤途中で見つけた変な看板の写真。

 昼に食べたものへのどうでもいい感想。

 美帆が送ってくる、スーパーで見かけた新商品の報告。

 直人が仕事中に思いついた、週末に行きたい店の話。

 短い言葉の隙間を埋めていたものがなくなると、画面の中には用件だけが残った。

 水曜の夜、直人は美帆から届いたメッセージを開いた。

『ごめん、土曜なんだけど、向こうの担当の人と打ち合わせ入っちゃった』

 今度の土曜は、昼から会う約束をしていた。何をするかまでは決めていなかったが、美帆の部屋の近くで待ち合わせて、遅い昼を食べようと話していた。

 直人は『了解』と打ち、少し考えてから、『気にしないで。準備、大変そうだな』と続けた。

『ほんとごめん』

『また空いた日に会おう』

『うん』

 そこで会話は止まった。

 美帆は忙しい。

 年明けから始まる仕事のために、今の業務を続けながら打ち合わせや引き継ぎをしている。

 住む場所の資料も届き、必要な手続きも増えたらしい。

 だから仕方がない。直人はそう思った。

 思ったまま、次に空いている日を聞かなかった。

 土曜は昼近くまで眠り、洗濯機を回した。

 冷蔵庫に残っていた卵で遅い朝食を作り、録画していた番組を2本見た。

 夕方になってから、美帆の打ち合わせは終わっただろうかとスマートフォンを手に取った。

 けれど、画面には何も届いていなかった。

 こちらから送ろうとして、やめた。

 終わったばかりなら疲れているかもしれない。

 まだ続いているなら邪魔になる。

 夜の9時を過ぎて、美帆から『終わった。疲れた』と来た。

『お疲れ。今日は早く寝な』

『そうする』

 直人は通話のボタンを見たまま、画面を閉じた。

 以前なら、疲れたというひと言を口実に電話をかけていた。

 美帆も「声聞いたら余計眠くなった」と笑いながら、結局30分くらい話していた。

 気を遣っているだけだ、と直人は自分に言い聞かせた。

 *

 火曜の夜、美帆から珍しく電話がかかってきた。

 直人はまだ会社にいた。

 机の上には修正途中の資料が広がり、向かいの席にも同僚が残っていた。

 廊下へ出て折り返すと、美帆はすぐに出た。

「ごめん。仕事中だった?」

「まだ会社。どうした?」

「ううん。特に用事はないんだけど」

 電話の向こうで、美帆が息をつく音がした。

「ちょっと声聞こうかなと思って」

「そっか」

 直人はガラス越しに自分の席を見た。パソコンの画面には、提出前の資料が開いたままだった。

「ごめん、あと30分くらいかかる。帰ったらかけるよ」

「大丈夫。私も明日早いから、先に寝る」

「じゃあ、明日」

「うん。仕事頑張って」

 通話は1分も続かなかった。

 *

 翌日の夜、直人は帰宅してから電話をかけた。

 今度は美帆が出なかった。

 20分後に『お風呂入ってた。もう遅いからまた今度ね』と届いた。

 直人は『了解』と返した。

 電話をするために約束が必要だったことなど、今まで一度もなかった。

 木曜は互いに帰りが遅く、金曜は美帆が会社の人たちと食事に出た。

 土曜になれば話せると思っていたが、直人は昼まで寝てしまい、起きたときには美帆から『今から母と買い物行ってくる』と届いていた。

 それぞれに予定がある。ただ、重ならないだけだ。

 そう考えると、どちらも悪くなかった。

 どちらも悪くないことが、直人にはかえって扱いづらかった。

 *

 翌週の日曜、2人は駅前のカフェで会った。

 先に着いていた美帆は、窓際の席で書類を読んでいた。

 直人に気づくと顔を上げ、いつものように笑った。

「ごめん、待った?」

「今来たとこ」

「それ、待った人が言うやつ」

「じゃあ、7分待った」

「細かい」

 美帆が書類を鞄にしまう。袖口から、細い銀色がのぞいた。

 直人が贈ったブレスレットだった。

「つけてるんだ」

「うん。もらったんだから、つけるでしょ」

「仕事のときも?」

「仕事のときも」

 美帆は手首を少し持ち上げて見せた。照明を受けた銀色が、短く光った。

「似合ってる」

「知ってる」

 そう返す顔が以前と同じで、直人はようやく息をつけた気がした。

 コーヒーと紅茶が運ばれてくると、美帆は会社から届いた部屋の写真を見せた。

 白い壁のワンルームで、小さなベッドと机が備えつけられている。

 駅からは徒歩10分ほどで、職場までは電車で2駅だという。

「思ったよりちゃんとしてるな」

「ね。もっと狭いと思ってた」

「この机、仕事するには小さくない?」

「家まで持ち帰りたくないから、これでいい」

「それはそう」

 写真を送る、と美帆が言った。

 直人のスマートフォンに、数枚の画像が届く。

 どのカーテンが合いそうか、冬は寒い地域なのか、近くにスーパーはあるのか。

 話題はいくらでもあった。

 けれど、直人はどれも美帆が1人で暮らす部屋の話なのだと思うと、質問の続きを飲み込んだ。

「直人なら、カーテン何色にする?」

 美帆が2枚の写真を並べた。薄い青と、生成りの布だった。

「こっち」

 直人が生成りを指すと、美帆は眉を上げた。

「意外。青って言うと思った」

「青だと冬、寒そうに見える」

「見た目の問題?」

「大事だろ」

「じゃあ、こっちにしようかな」

 美帆が生成りの写真を保存する。

 その仕草が、少しだけ嬉しそうに見えた。

 直人も嬉しかった。

 離れた町の部屋に、自分が選んだものが1つ置かれる。

 それだけで、その部屋と自分の間にも細い道ができる気がした。

 だが、「今度一緒に見に行こう」とは言えなかった。

 いつ行けるのか、すぐに答えられないからだった。

「引っ越し、いつになりそう?」

「年末ぎりぎりは避けたいから、12月の3週目かな。会社と相談中」

「そっか」

「うん」

「手伝うよ」

「ありがとう。でも荷物、そんなに多くないし、会社が手配してくれるみたい」

「じゃあ、邪魔しに行く」

「何しに来るの」

「ちゃんとした机を勧めに」

「いらないって」

 美帆は笑った。直人も笑った。

 そのあとの沈黙で、テーブルの上のスプーンが誰かの皿に当たる音が聞こえた。

 以前なら沈黙は気にならなかった。

 同じ場所にいるだけでよかった。

 今は、何かを言わなければ、美帆がまた3時間先へ進んでしまうような気がした。

「来週は?」

 直人が聞くと、美帆は手帳を開いた。

「土曜は引き継ぎの資料をまとめたい。日曜は母と買い物。向こうで使うもの、見に行く約束してて」

「再来週は?」

「土曜なら夕方まで空いてる。でも直人、仕事じゃなかった?」

 言われて思い出した。月に1度の休日出勤が入っている。

「そうだった」

「夜なら会えるよ」

「終わる時間、読めないんだよな」

「じゃあ、無理しなくていいよ」

 美帆は手帳を閉じた。

「11月に入ったら、少し落ち着くと思う」

「うん。そのへんで」

 次の約束は決まらなかった。

 美帆が紅茶を飲む。カップを持つ手のブレスレットが揺れた。

「そういえば、手帳」

「え?」

「使ってる?」

「ああ」

 直人は一瞬だけ間を置いた。

「まだ10月だから、来年の予定はそんなにないけど」

「別に来年まで待たなくても、書いていいんだよ」

「わかってる」

「ならいいけど」

 美帆はそれ以上聞かなかった。

 本当は、手帳を何度か開いていた。

 最初のページに1月の予定表がある。

 美帆の仕事が始まる月だ。

 会いに行くならどの週がいいか、電車は何時に出ればいいか。

 調べようと思えばすぐに調べられるのに、直人は何も書けずにいた。

 書いた予定が守れなかったら、美帆をまたがっかりさせる気がした。

 だから、確実になってから書こうと思っていた。

 確実になるのを待っているうちに、空白だけが残っていた。

 店を出ると、外はもう薄暗かった。

 駅まで並んで歩く。風が冷たく、美帆は肩をすくめた。

「寒くなったね」

「朝、もっと寒いよ」

「直人、まだ薄い布団で寝てるでしょ」

「なんでわかるんだよ」

「毎年そうだから」

「今夜替える」

「たぶん替えない」

「信用ないな」

「実績があるからね」

 信号の前で止まったとき、美帆の手がすぐ隣にあった。

 伸ばせば届く距離だった。

 直人が指を動かすより先に信号が青になり、美帆は歩き出した。

 駅の改札で、美帆は「また連絡する」と言った。

「うん」

「仕事、無理しないでね」

「美帆も」

 美帆は小さく手を振り、人の流れに入っていった。

 銀色のブレスレットが一度だけ見え、すぐにコートの袖へ隠れた。

 帰宅してから、直人は鞄の中の手帳を取り出した。

 机に置き、1月のページを開く。

 美帆は、2人でやりたいことを書いて、と言った。

 直人はペンを持ち、最初の土曜の欄に小さく丸をつけた。

 そこまで電車で3時間。

 朝に出れば昼前には着く。

 月に2回くらいなら会いに行けると、記念日の夜に自分で言った。

 丸の隣に「美帆」と書きかけて、手を止めた。

 仕事の予定がまだ出ていない。美帆にも向こうの都合がある。先に決めて困らせるかもしれない。

 直人は文字を消し、丸だけを残した。

 スマートフォンが震えた。

『帰ったよ』

『俺も今帰った』

『今日はありがとう』

『こっちこそ。部屋、決まったら教えて』

『うん』

 しばらく待っても、次の言葉は来なかった。

 直人は『おやすみ』と送り、美帆から同じ言葉が返る前に、スマートフォンを伏せた。

 1月のページには、小さな丸が1つだけ浮かんでいた。

 会えないと決まったわけではない。

 連絡をやめたわけでもない。

 それでも2人の間には、次に会う日を決めないまま過ぎていく週末が、少しずつ増え始めていた。

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