第8話 空いたままの週末
記念日の夜から、2週間が過ぎた。
美帆との連絡がなくなったわけではない。
朝になれば、どちらからともなく「おはよう」と送り、仕事が終われば「今終わった」と知らせる。
眠る前には「おやすみ」も言う。
以前と同じように見えるやり取りは、毎日きちんと続いていた。
ただ、その間にあったものが、少しずつ減っていた。
通勤途中で見つけた変な看板の写真。
昼に食べたものへのどうでもいい感想。
美帆が送ってくる、スーパーで見かけた新商品の報告。
直人が仕事中に思いついた、週末に行きたい店の話。
短い言葉の隙間を埋めていたものがなくなると、画面の中には用件だけが残った。
水曜の夜、直人は美帆から届いたメッセージを開いた。
『ごめん、土曜なんだけど、向こうの担当の人と打ち合わせ入っちゃった』
今度の土曜は、昼から会う約束をしていた。何をするかまでは決めていなかったが、美帆の部屋の近くで待ち合わせて、遅い昼を食べようと話していた。
直人は『了解』と打ち、少し考えてから、『気にしないで。準備、大変そうだな』と続けた。
『ほんとごめん』
『また空いた日に会おう』
『うん』
そこで会話は止まった。
美帆は忙しい。
年明けから始まる仕事のために、今の業務を続けながら打ち合わせや引き継ぎをしている。
住む場所の資料も届き、必要な手続きも増えたらしい。
だから仕方がない。直人はそう思った。
思ったまま、次に空いている日を聞かなかった。
土曜は昼近くまで眠り、洗濯機を回した。
冷蔵庫に残っていた卵で遅い朝食を作り、録画していた番組を2本見た。
夕方になってから、美帆の打ち合わせは終わっただろうかとスマートフォンを手に取った。
けれど、画面には何も届いていなかった。
こちらから送ろうとして、やめた。
終わったばかりなら疲れているかもしれない。
まだ続いているなら邪魔になる。
夜の9時を過ぎて、美帆から『終わった。疲れた』と来た。
『お疲れ。今日は早く寝な』
『そうする』
直人は通話のボタンを見たまま、画面を閉じた。
以前なら、疲れたというひと言を口実に電話をかけていた。
美帆も「声聞いたら余計眠くなった」と笑いながら、結局30分くらい話していた。
気を遣っているだけだ、と直人は自分に言い聞かせた。
*
火曜の夜、美帆から珍しく電話がかかってきた。
直人はまだ会社にいた。
机の上には修正途中の資料が広がり、向かいの席にも同僚が残っていた。
廊下へ出て折り返すと、美帆はすぐに出た。
「ごめん。仕事中だった?」
「まだ会社。どうした?」
「ううん。特に用事はないんだけど」
電話の向こうで、美帆が息をつく音がした。
「ちょっと声聞こうかなと思って」
「そっか」
直人はガラス越しに自分の席を見た。パソコンの画面には、提出前の資料が開いたままだった。
「ごめん、あと30分くらいかかる。帰ったらかけるよ」
「大丈夫。私も明日早いから、先に寝る」
「じゃあ、明日」
「うん。仕事頑張って」
通話は1分も続かなかった。
*
翌日の夜、直人は帰宅してから電話をかけた。
今度は美帆が出なかった。
20分後に『お風呂入ってた。もう遅いからまた今度ね』と届いた。
直人は『了解』と返した。
電話をするために約束が必要だったことなど、今まで一度もなかった。
木曜は互いに帰りが遅く、金曜は美帆が会社の人たちと食事に出た。
土曜になれば話せると思っていたが、直人は昼まで寝てしまい、起きたときには美帆から『今から母と買い物行ってくる』と届いていた。
それぞれに予定がある。ただ、重ならないだけだ。
そう考えると、どちらも悪くなかった。
どちらも悪くないことが、直人にはかえって扱いづらかった。
*
翌週の日曜、2人は駅前のカフェで会った。
先に着いていた美帆は、窓際の席で書類を読んでいた。
直人に気づくと顔を上げ、いつものように笑った。
「ごめん、待った?」
「今来たとこ」
「それ、待った人が言うやつ」
「じゃあ、7分待った」
「細かい」
美帆が書類を鞄にしまう。袖口から、細い銀色がのぞいた。
直人が贈ったブレスレットだった。
「つけてるんだ」
「うん。もらったんだから、つけるでしょ」
「仕事のときも?」
「仕事のときも」
美帆は手首を少し持ち上げて見せた。照明を受けた銀色が、短く光った。
「似合ってる」
「知ってる」
そう返す顔が以前と同じで、直人はようやく息をつけた気がした。
コーヒーと紅茶が運ばれてくると、美帆は会社から届いた部屋の写真を見せた。
白い壁のワンルームで、小さなベッドと机が備えつけられている。
駅からは徒歩10分ほどで、職場までは電車で2駅だという。
「思ったよりちゃんとしてるな」
「ね。もっと狭いと思ってた」
「この机、仕事するには小さくない?」
「家まで持ち帰りたくないから、これでいい」
「それはそう」
写真を送る、と美帆が言った。
直人のスマートフォンに、数枚の画像が届く。
どのカーテンが合いそうか、冬は寒い地域なのか、近くにスーパーはあるのか。
話題はいくらでもあった。
けれど、直人はどれも美帆が1人で暮らす部屋の話なのだと思うと、質問の続きを飲み込んだ。
「直人なら、カーテン何色にする?」
美帆が2枚の写真を並べた。薄い青と、生成りの布だった。
「こっち」
直人が生成りを指すと、美帆は眉を上げた。
「意外。青って言うと思った」
「青だと冬、寒そうに見える」
「見た目の問題?」
「大事だろ」
「じゃあ、こっちにしようかな」
美帆が生成りの写真を保存する。
その仕草が、少しだけ嬉しそうに見えた。
直人も嬉しかった。
離れた町の部屋に、自分が選んだものが1つ置かれる。
それだけで、その部屋と自分の間にも細い道ができる気がした。
だが、「今度一緒に見に行こう」とは言えなかった。
いつ行けるのか、すぐに答えられないからだった。
「引っ越し、いつになりそう?」
「年末ぎりぎりは避けたいから、12月の3週目かな。会社と相談中」
「そっか」
「うん」
「手伝うよ」
「ありがとう。でも荷物、そんなに多くないし、会社が手配してくれるみたい」
「じゃあ、邪魔しに行く」
「何しに来るの」
「ちゃんとした机を勧めに」
「いらないって」
美帆は笑った。直人も笑った。
そのあとの沈黙で、テーブルの上のスプーンが誰かの皿に当たる音が聞こえた。
以前なら沈黙は気にならなかった。
同じ場所にいるだけでよかった。
今は、何かを言わなければ、美帆がまた3時間先へ進んでしまうような気がした。
「来週は?」
直人が聞くと、美帆は手帳を開いた。
「土曜は引き継ぎの資料をまとめたい。日曜は母と買い物。向こうで使うもの、見に行く約束してて」
「再来週は?」
「土曜なら夕方まで空いてる。でも直人、仕事じゃなかった?」
言われて思い出した。月に1度の休日出勤が入っている。
「そうだった」
「夜なら会えるよ」
「終わる時間、読めないんだよな」
「じゃあ、無理しなくていいよ」
美帆は手帳を閉じた。
「11月に入ったら、少し落ち着くと思う」
「うん。そのへんで」
次の約束は決まらなかった。
美帆が紅茶を飲む。カップを持つ手のブレスレットが揺れた。
「そういえば、手帳」
「え?」
「使ってる?」
「ああ」
直人は一瞬だけ間を置いた。
「まだ10月だから、来年の予定はそんなにないけど」
「別に来年まで待たなくても、書いていいんだよ」
「わかってる」
「ならいいけど」
美帆はそれ以上聞かなかった。
本当は、手帳を何度か開いていた。
最初のページに1月の予定表がある。
美帆の仕事が始まる月だ。
会いに行くならどの週がいいか、電車は何時に出ればいいか。
調べようと思えばすぐに調べられるのに、直人は何も書けずにいた。
書いた予定が守れなかったら、美帆をまたがっかりさせる気がした。
だから、確実になってから書こうと思っていた。
確実になるのを待っているうちに、空白だけが残っていた。
店を出ると、外はもう薄暗かった。
駅まで並んで歩く。風が冷たく、美帆は肩をすくめた。
「寒くなったね」
「朝、もっと寒いよ」
「直人、まだ薄い布団で寝てるでしょ」
「なんでわかるんだよ」
「毎年そうだから」
「今夜替える」
「たぶん替えない」
「信用ないな」
「実績があるからね」
信号の前で止まったとき、美帆の手がすぐ隣にあった。
伸ばせば届く距離だった。
直人が指を動かすより先に信号が青になり、美帆は歩き出した。
駅の改札で、美帆は「また連絡する」と言った。
「うん」
「仕事、無理しないでね」
「美帆も」
美帆は小さく手を振り、人の流れに入っていった。
銀色のブレスレットが一度だけ見え、すぐにコートの袖へ隠れた。
帰宅してから、直人は鞄の中の手帳を取り出した。
机に置き、1月のページを開く。
美帆は、2人でやりたいことを書いて、と言った。
直人はペンを持ち、最初の土曜の欄に小さく丸をつけた。
そこまで電車で3時間。
朝に出れば昼前には着く。
月に2回くらいなら会いに行けると、記念日の夜に自分で言った。
丸の隣に「美帆」と書きかけて、手を止めた。
仕事の予定がまだ出ていない。美帆にも向こうの都合がある。先に決めて困らせるかもしれない。
直人は文字を消し、丸だけを残した。
スマートフォンが震えた。
『帰ったよ』
『俺も今帰った』
『今日はありがとう』
『こっちこそ。部屋、決まったら教えて』
『うん』
しばらく待っても、次の言葉は来なかった。
直人は『おやすみ』と送り、美帆から同じ言葉が返る前に、スマートフォンを伏せた。
1月のページには、小さな丸が1つだけ浮かんでいた。
会えないと決まったわけではない。
連絡をやめたわけでもない。
それでも2人の間には、次に会う日を決めないまま過ぎていく週末が、少しずつ増え始めていた。




