第7話 変わらないために
交際3年の記念日を迎えた日曜日、直人が待ち合わせの場所へ着いたのは、約束の30分前だった。
美帆の仕事の話を聞いてから、まだ2日しか経っていない。
あの夜から何度も考えた。
電車で3時間の距離。
1年間の暮らし。
会える週末と、会えない週末。
電話やメッセージを使えば、離れていても今の関係を続けることはできる。
そう考えるたび、美帆の「私が聞きたかったのは、それだけじゃなかった」という言葉が戻ってきた。
直人は結局、その先にある答えを見つけられないまま、記念日を迎えていた。
「直人」
呼ばれて振り返ると、美帆が立っていた。
薄い色のブラウスに長めのスカート。小さなバッグを肩から掛け、穏やかに笑っている。
「今日は30分前?」
「まだ25分前」
「細かい」
「美帆も早いじゃん」
「記念日なので」
旅行の日と同じ答えだった。
「大事な日は時間を守るんだな」
「昨日もメッセージでそれ言ってたでしょ。何度も使わないで」
美帆は呆れながら、直人の隣へ並んだ。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
差し出した手を、美帆はいつもと同じように握った。
その温かさに安心した自分を、直人は少し情けなく感じた。
午後は予定どおり映画を観た。
上映中、美帆は何度か笑い、終盤では目元を指で拭っていた。
劇場を出たあと、泣いていたことを指摘すると、「照明が暗かったから分からないと思った」と悔しそうに言った。
「隣にいたんだから分かるよ」
「映画じゃなくて、私の顔見てたの?」
「ずっとじゃない。少しだけ」
「集中してください」
「内容は分かってるよ」
「じゃあ、最後に主人公が言ったこと覚えてる?」
直人が答えると、美帆は意外そうな顔をした。
「ちゃんと観てたんだ」
「疑いすぎだろ」
そんな会話をしている間は、いつもの2人だった。
映画の感想を話しながら歩き、書店へ寄り、美帆が雑貨店を覗きたいと言えば直人も付き合った。
仕事の話をしなければ、今日までの3年間と何も変わらない。
夕食の時間が近づき、直人が予約した店へ向かった。
店は大通りから少し入った場所にあり、落ち着いた照明の下に木製のテーブルが並んでいた。
窓際の席へ案内されると、美帆は店内を見回した。
「いいお店だね」
「気に入った?」
「うん。ちゃんと調べてくれたんだ」
「前にも同じこと言ってたな」
「だって、嬉しかったから」
「旅行のときに任せきりだった分、反省しました」
「多少?」
「今回は、ちゃんと」
美帆は笑った。
料理を注文したあと、直人はバッグから小さな包みを取り出した。
「これ」
「何?」
「3年の記念」
美帆は包みを受け取り、丁寧にリボンを解いた。
中に入っていたのは、細い銀色のブレスレットだった。
「開けていいの?」
「もう開けてるだろ」
「そうじゃなくて、箱から出していい?」
「そのために渡したんだから」
美帆はブレスレットを手首へ当て、照明の下で眺めた。
「綺麗。ありがとう」
「派手じゃない方が使いやすいかと思って」
「うん。好き」
美帆が差し出した手首へ、直人が留め具を掛ける。
何度か指先が触れ、美帆はくすぐったそうに手を動かした。
「動くと留められない」
「直人が時間かかってるから」
「こういうの、慣れてないんだよ」
「知ってる」
ようやく留めると、美帆は手首を傾けて笑った。
その笑顔を見ていると、このままでいいと思った。
来年も同じように記念日を迎え、離れている1年さえ乗り越えれば、また今までの日常へ戻れる。
「私もあるよ」
美帆はバッグから薄い包みを取り出した。
中には、革のカバーが付いた小さな手帳が入っていた。
「直人、スマートフォンに予定を入れても忘れることあるでしょ」
「そのための手帳?」
「半分はね。もう半分は、予定をちゃんと書いてほしいから」
「何の予定?」
「これから一緒にしたいこと」
冗談のような言い方だったが、直人はすぐには返せなかった。
美帆はその間を埋めるように、水を一口飲んだ。
「ありがとう。使うよ」
「うん」
料理が運ばれ、2人は取り分けながら食事を始めた。
最初は映画や店の話をしていた。
けれど会話が一度途切れると、避けていた話題が2人の間へ戻ってきた。
「プロジェクトのこと、考えた?」
直人から尋ねた。
「うん」
「決めた?」
「参加したいと思ってる。明日、そう返事をするつもり」
予想していた答えだった。
それでも胸の奥が沈むのを感じた。
「そっか」
「反対?」
「反対じゃない。美帆が考えて決めたなら、応援する」
「ありがとう」
美帆は静かに頷いた。
「俺も、どうすれば会えるか考えたんだ」
「うん」
「毎週は無理でも、月に2回くらいなら俺が向こうへ行けると思う。美帆が戻れる週もあるなら、交代にすれば負担も偏らない。平日は夜に電話して、忙しい日はメッセージだけでもいい」
「そこまで考えてくれたんだ」
「1年後に戻ってくれば、また今までどおり会える。来年の夏は難しくても、その次は海へ行けるだろ」
美帆の表情から、わずかに笑みが消えた。
「直人は、今までどおりに戻りたいんだね」
「だって、今の関係が嫌なわけじゃないだろ?」
「嫌じゃないよ。幸せだと思ってる」
「なら、離れてる間も続けられるようにすればいい」
「でも、1年後も同じ場所へ戻るだけなの?」
直人は美帆の言葉の意味を考えた。
「戻ってきたら、また今までみたいに――」
「私は、今までどおりでいるために行くんじゃないよ」
強い口調ではなかった。
それでも、直人の言葉は止まった。
「新しい仕事をして、今まで知らなかったことを覚えて、少しでも成長したいと思ってる。1年後の私は、今とまったく同じじゃないと思う」
「変わっても、付き合っていくことはできるだろ」
「付き合っていくって、どういうこと?」
「今みたいに会って、一緒に出かけて――」
「それを、いつまで続けるの?」
店内には穏やかな音楽が流れていた。
周囲の話し声も聞こえているのに、2人の席だけが静かになったように感じられた。
「結婚を急かしたいわけじゃないの」
美帆が先に続けた。
「今すぐ何かを決めてほしいわけでもない。でも、直人が私との先を考えているのか、それとも今が続けばそれでいいと思っているのか、分からなくなったの」
「考えてないわけじゃないよ」
「じゃあ、どう考えてる?」
仕事。収入。住む場所。家族。
これまで何度も直人を止めてきた現実が、また頭の中へ浮かんだ。
「まだ、具体的には決められない」
「どうして?」
「2人だけの気持ちで決められることじゃないだろ。生活だって変わるし、仕事のこともある。美帆もこれから1年、向こうへ行くんだし」
「だから考えたいの。全部決まってから話すんじゃなくて、決まってないから2人で話したい」
「今、無理に答えを出さなくてもいいんじゃない?」
「無理に答えを出したいんじゃないよ」
美帆は声を荒らげなかった。
ただ、手首のブレスレットへ一度視線を落とした。
「私がほしいのは、正しい答えじゃなくて、直人が一緒に考える気持ちなの」
「俺だって考えてる」
「離れても今までどおりにする方法を、でしょ?」
言い返せなかった。
直人が考えたのは、今の関係を失わない方法だけだった。
美帆とどんな関係へ進みたいのかではない。
「私、今の幸せを捨てたいわけじゃないよ。でも、変わらないことだけが幸せだとも思えない」
「変わって、うまくいかなくなることだってある」
「だから変わらないの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
答えようとしたが、言葉にならなかった。
月明かりの渚と同じだった。
美帆が続きを待っている。直人も、何を伝えたいのか分かっている。それでも、言葉にすれば現実が動き始める気がして、最後の一歩を踏み出せない。
「ごめん。記念日にする話じゃなかったね」
美帆が視線を伏せた。
「美帆が謝ることじゃない」
「でも、直人は今日を楽しみにして、店もプレゼントも用意してくれたのに」
「それと、この話は別だろ」
「別じゃないよ」
美帆はブレスレットへそっと触れた。
「嬉しかった。今日、一緒に過ごせたことも、この3年も大切に思ってる。だから、その先のことも考えたかったの」
料理はまだ少し残っていたが、2人の手は止まっていた。
しばらくして、直人は水を一口飲んだ。
「美帆が向こうへ行くまで、まだ3か月ある」
「うん」
「その間に、ちゃんと話そう」
「今は話せない?」
「すぐに答えを出す自信がない」
美帆は少し目を閉じ、それから頷いた。
「分かった。今日はもう、この話やめよう」
穏やかな言い方だった。
けれど直人には、それが納得ではなく、諦めに近いものだと分かった。
店を出ると、夜風が昼間より冷たくなっていた。
駅までの道を並んで歩く。直人は何度か美帆の手へ視線を向けた。銀色のブレスレットが街灯の下で小さく光っている。
手を繋ぎたかった。
けれど、自分から伸ばすことができなかった。
「今日はありがとう」
改札の前で、美帆が言った。
「プレゼント、大事にするね」
「俺も手帳、使うよ」
「うん」
美帆は少し笑い、そのまま改札を通った。
3年前、この関係が始まった日だった。
2人が別れたわけではない。嫌いになったわけでもない。
美帆の姿が見えなくなったあとも、直人はしばらく改札の前から動けなかった。
それなのに直人は、美帆と出会ってから初めて、2人が同じ場所に立っていないのだと感じていた。
今までどおりでいたいと願う自分の隣で、美帆はすでに、その先へ向かおうとしていた。




