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来年も、その先も  作者: ムネディ


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7/13

第7話 変わらないために

 交際3年の記念日を迎えた日曜日、直人が待ち合わせの場所へ着いたのは、約束の30分前だった。

 美帆の仕事の話を聞いてから、まだ2日しか経っていない。

 あの夜から何度も考えた。

 電車で3時間の距離。

 1年間の暮らし。

 会える週末と、会えない週末。

 電話やメッセージを使えば、離れていても今の関係を続けることはできる。

 そう考えるたび、美帆の「私が聞きたかったのは、それだけじゃなかった」という言葉が戻ってきた。

 直人は結局、その先にある答えを見つけられないまま、記念日を迎えていた。

「直人」

 呼ばれて振り返ると、美帆が立っていた。

 薄い色のブラウスに長めのスカート。小さなバッグを肩から掛け、穏やかに笑っている。

「今日は30分前?」

「まだ25分前」

「細かい」

「美帆も早いじゃん」

「記念日なので」

 旅行の日と同じ答えだった。

「大事な日は時間を守るんだな」

「昨日もメッセージでそれ言ってたでしょ。何度も使わないで」

 美帆は呆れながら、直人の隣へ並んだ。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

 差し出した手を、美帆はいつもと同じように握った。

 その温かさに安心した自分を、直人は少し情けなく感じた。

 午後は予定どおり映画を観た。

 上映中、美帆は何度か笑い、終盤では目元を指で拭っていた。

 劇場を出たあと、泣いていたことを指摘すると、「照明が暗かったから分からないと思った」と悔しそうに言った。

「隣にいたんだから分かるよ」

「映画じゃなくて、私の顔見てたの?」

「ずっとじゃない。少しだけ」

「集中してください」

「内容は分かってるよ」

「じゃあ、最後に主人公が言ったこと覚えてる?」

 直人が答えると、美帆は意外そうな顔をした。

「ちゃんと観てたんだ」

「疑いすぎだろ」

 そんな会話をしている間は、いつもの2人だった。

 映画の感想を話しながら歩き、書店へ寄り、美帆が雑貨店を覗きたいと言えば直人も付き合った。

 仕事の話をしなければ、今日までの3年間と何も変わらない。

 夕食の時間が近づき、直人が予約した店へ向かった。

 店は大通りから少し入った場所にあり、落ち着いた照明の下に木製のテーブルが並んでいた。

 窓際の席へ案内されると、美帆は店内を見回した。

「いいお店だね」

「気に入った?」

「うん。ちゃんと調べてくれたんだ」

「前にも同じこと言ってたな」

「だって、嬉しかったから」

「旅行のときに任せきりだった分、反省しました」

「多少?」

「今回は、ちゃんと」

 美帆は笑った。

 料理を注文したあと、直人はバッグから小さな包みを取り出した。

「これ」

「何?」

「3年の記念」

 美帆は包みを受け取り、丁寧にリボンを解いた。

 中に入っていたのは、細い銀色のブレスレットだった。

「開けていいの?」

「もう開けてるだろ」

「そうじゃなくて、箱から出していい?」

「そのために渡したんだから」

 美帆はブレスレットを手首へ当て、照明の下で眺めた。

「綺麗。ありがとう」

「派手じゃない方が使いやすいかと思って」

「うん。好き」

 美帆が差し出した手首へ、直人が留め具を掛ける。

 何度か指先が触れ、美帆はくすぐったそうに手を動かした。

「動くと留められない」

「直人が時間かかってるから」

「こういうの、慣れてないんだよ」

「知ってる」

 ようやく留めると、美帆は手首を傾けて笑った。

 その笑顔を見ていると、このままでいいと思った。

 来年も同じように記念日を迎え、離れている1年さえ乗り越えれば、また今までの日常へ戻れる。

「私もあるよ」

 美帆はバッグから薄い包みを取り出した。

 中には、革のカバーが付いた小さな手帳が入っていた。

「直人、スマートフォンに予定を入れても忘れることあるでしょ」

「そのための手帳?」

「半分はね。もう半分は、予定をちゃんと書いてほしいから」

「何の予定?」

「これから一緒にしたいこと」

 冗談のような言い方だったが、直人はすぐには返せなかった。

 美帆はその間を埋めるように、水を一口飲んだ。

「ありがとう。使うよ」

「うん」

 料理が運ばれ、2人は取り分けながら食事を始めた。

 最初は映画や店の話をしていた。

 けれど会話が一度途切れると、避けていた話題が2人の間へ戻ってきた。

「プロジェクトのこと、考えた?」

 直人から尋ねた。

「うん」

「決めた?」

「参加したいと思ってる。明日、そう返事をするつもり」

 予想していた答えだった。

 それでも胸の奥が沈むのを感じた。

「そっか」

「反対?」

「反対じゃない。美帆が考えて決めたなら、応援する」

「ありがとう」

 美帆は静かに頷いた。

「俺も、どうすれば会えるか考えたんだ」

「うん」

「毎週は無理でも、月に2回くらいなら俺が向こうへ行けると思う。美帆が戻れる週もあるなら、交代にすれば負担も偏らない。平日は夜に電話して、忙しい日はメッセージだけでもいい」

「そこまで考えてくれたんだ」

「1年後に戻ってくれば、また今までどおり会える。来年の夏は難しくても、その次は海へ行けるだろ」

 美帆の表情から、わずかに笑みが消えた。

「直人は、今までどおりに戻りたいんだね」

「だって、今の関係が嫌なわけじゃないだろ?」

「嫌じゃないよ。幸せだと思ってる」

「なら、離れてる間も続けられるようにすればいい」

「でも、1年後も同じ場所へ戻るだけなの?」

 直人は美帆の言葉の意味を考えた。

「戻ってきたら、また今までみたいに――」

「私は、今までどおりでいるために行くんじゃないよ」

 強い口調ではなかった。

 それでも、直人の言葉は止まった。

「新しい仕事をして、今まで知らなかったことを覚えて、少しでも成長したいと思ってる。1年後の私は、今とまったく同じじゃないと思う」

「変わっても、付き合っていくことはできるだろ」

「付き合っていくって、どういうこと?」

「今みたいに会って、一緒に出かけて――」

「それを、いつまで続けるの?」

 店内には穏やかな音楽が流れていた。

 周囲の話し声も聞こえているのに、2人の席だけが静かになったように感じられた。

「結婚を急かしたいわけじゃないの」

 美帆が先に続けた。

「今すぐ何かを決めてほしいわけでもない。でも、直人が私との先を考えているのか、それとも今が続けばそれでいいと思っているのか、分からなくなったの」

「考えてないわけじゃないよ」

「じゃあ、どう考えてる?」

 仕事。収入。住む場所。家族。

 これまで何度も直人を止めてきた現実が、また頭の中へ浮かんだ。

「まだ、具体的には決められない」

「どうして?」

「2人だけの気持ちで決められることじゃないだろ。生活だって変わるし、仕事のこともある。美帆もこれから1年、向こうへ行くんだし」

「だから考えたいの。全部決まってから話すんじゃなくて、決まってないから2人で話したい」

「今、無理に答えを出さなくてもいいんじゃない?」

「無理に答えを出したいんじゃないよ」

 美帆は声を荒らげなかった。

 ただ、手首のブレスレットへ一度視線を落とした。

「私がほしいのは、正しい答えじゃなくて、直人が一緒に考える気持ちなの」

「俺だって考えてる」

「離れても今までどおりにする方法を、でしょ?」

 言い返せなかった。

 直人が考えたのは、今の関係を失わない方法だけだった。

 美帆とどんな関係へ進みたいのかではない。

「私、今の幸せを捨てたいわけじゃないよ。でも、変わらないことだけが幸せだとも思えない」

「変わって、うまくいかなくなることだってある」

「だから変わらないの?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、どういう意味?」

 答えようとしたが、言葉にならなかった。

 月明かりの渚と同じだった。

 美帆が続きを待っている。直人も、何を伝えたいのか分かっている。それでも、言葉にすれば現実が動き始める気がして、最後の一歩を踏み出せない。

「ごめん。記念日にする話じゃなかったね」

 美帆が視線を伏せた。

「美帆が謝ることじゃない」

「でも、直人は今日を楽しみにして、店もプレゼントも用意してくれたのに」

「それと、この話は別だろ」

「別じゃないよ」

 美帆はブレスレットへそっと触れた。

「嬉しかった。今日、一緒に過ごせたことも、この3年も大切に思ってる。だから、その先のことも考えたかったの」

 料理はまだ少し残っていたが、2人の手は止まっていた。

 しばらくして、直人は水を一口飲んだ。

「美帆が向こうへ行くまで、まだ3か月ある」

「うん」

「その間に、ちゃんと話そう」

「今は話せない?」

「すぐに答えを出す自信がない」

 美帆は少し目を閉じ、それから頷いた。

「分かった。今日はもう、この話やめよう」

 穏やかな言い方だった。

 けれど直人には、それが納得ではなく、諦めに近いものだと分かった。

 店を出ると、夜風が昼間より冷たくなっていた。

 駅までの道を並んで歩く。直人は何度か美帆の手へ視線を向けた。銀色のブレスレットが街灯の下で小さく光っている。

 手を繋ぎたかった。

 けれど、自分から伸ばすことができなかった。

「今日はありがとう」

 改札の前で、美帆が言った。

「プレゼント、大事にするね」

「俺も手帳、使うよ」

「うん」

 美帆は少し笑い、そのまま改札を通った。

 3年前、この関係が始まった日だった。

 2人が別れたわけではない。嫌いになったわけでもない。

 美帆の姿が見えなくなったあとも、直人はしばらく改札の前から動けなかった。

 それなのに直人は、美帆と出会ってから初めて、2人が同じ場所に立っていないのだと感じていた。

 今までどおりでいたいと願う自分の隣で、美帆はすでに、その先へ向かおうとしていた。


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