第6話 遠くなる日常
美帆から『話したいことがある』と連絡が届いたのは、9月最後の木曜日だった。
その一文のあとには、いつものような絵文字もなかった。
直人が『電話する?』と返すと、少し間を置いて『できれば会って話したい』と届いた。
週末まで待つのかと思ったが、美帆は明日の夜を指定した。
何かあったのだろうか。
月明かりの渚で言えなかったこと。
友人の結婚式のあとに話した、同じ家へ帰る生活。
もうすぐ迎える交際3年の記念日。
心当たりを探すほど、直人の中へ落ち着かないものが広がった。
*
翌日の夜、直人は駅前のカフェで美帆を待っていた。
第1話で待ち合わせた店だった。
あの日と違い、窓の外はすでに暗く、駅前を行き交う人たちの姿がガラスへ途切れながら映っている。
テーブルの上には、直人のスマートフォンが置かれていた。
画面には、日曜日に予約した店の確認メールが表示されている。
交際3年の記念日に何をするか、2人でいくつか案を出した。
遠出はせず、昼から映画を観て、夜は少し落ち着いた店で食事をする。
特別すぎる予定ではないが、今回は直人が先に店を調べ、候補を美帆へ送った。
『ちゃんと考えてくれたんだ』
美帆から届いた返事は、嬉しそうだった。
記念日に何かを言葉にできるかもしれない。
そんな思いはあった。
けれど今は、美帆の「話したいこと」が何なのか分からない。
その予定さえ、急に遠いものになったように感じられた。
約束の5分前、美帆が店へ入ってきた。
「お待たせ」
「今日は早いな」
「話があるって呼び出したのに、遅刻できないでしょ」
「旅行の日と大事な話の日は、時間を守れるんだ」
「私だって、いつも遅れるわけじゃないよ」
美帆は笑ったが、表情には疲れが残っていた。
向かいの席へ座り、温かい紅茶を注文する。
直人は彼女が話し始めるのを待った。
美帆はテーブルの上で両手を組み、しばらく指先を見つめていた。
「急に呼び出してごめんね」
「それはいいけど、何かあった?」
「うん。今日、会社で話があったの」
美帆は一度息をついてから、直人を見た。
「地方に新しい拠点を作ることになって、立ち上げのプロジェクトに参加しないかって言われた」
「美帆が?」
「うん。何人か候補がいるみたいだけど、私にも行く意思があるか確認したいって」
「それ、すごいじゃん」
反射的に出た言葉だった。
美帆は小さく頷いた。
「選んでもらえたのは嬉しい。今までやってきたことを評価してくれたんだと思うし、参加したら経験にもなるって言われた」
「じゃあ、受けたいの?」
「まだ分からない」
運ばれてきた紅茶へ、美帆は手を伸ばさなかった。
「新しい拠点って、どこ?」
「ここから電車で3時間くらい。毎日通うのは無理だから、向こうへ引っ越すことになる」
「期間は?」
「1年。予定どおり進まなかったら、少し延びる可能性もあるって」
1年。
直人の頭の中で、その時間だけがはっきりと形を持った。
週末に会うことはできるだろう。
電車で3時間なら、行けない距離ではない。
それでも、仕事帰りに食事をしたり、土曜日の午後に思いつきで会ったりする今の日常は続かなくなる。
「住むところは、会社が用意してくれるの?」
「家具の付いた部屋を借りてくれるって。引っ越しの費用も出るみたい」
「じゃあ、生活する上では困らないのか」
「たぶん。でも最初の何か月かは忙しくなると思う。休日に戻ってこられるかも、始まってみないと分からない」
「毎週会うのは難しい?」
「毎週は無理かもしれない。直人が向こうへ来てくれても、仕事で時間が取れないこともあると思う」
直人は、電車で3時間という距離だけを考えていた。
往復すれば6時間になる。
会える時間が数時間しかなくても、そのために移動する週末が増える。
美帆が忙しければ、約束しても予定を変えなければならない日もあるだろう。
今までは、会おうと思えば会えることを疑ったことがなかった。
それができなくなるという事実は、地図の上の距離よりも重かった。
「いつから?」
「年明け。返事は来週までにほしいって」
「結構急だな」
「立ち上げの準備が始まるから、早く決めたいみたい」
美帆はようやくカップを持ち上げた。
しかし口をつけず、立ち上る湯気を見つめている。
「直人には、先に話しておきたかったの」
「まだ決まったわけじゃないんだろ?」
「うん。でも、返事をする前に話したかった」
「そうだよな」
答えながら、直人は自分の声が思ったより平らなことに気づいた。
美帆の仕事が評価されたのは、喜ぶべきことだ。
本人が挑戦したいのなら、応援するのが恋人として正しいのだろう。
同時に、行ってほしくないという気持ちもあった。
けれど、それを口にすれば、美帆の機会を自分の都合で奪うことになる気がした。
「美帆は、何に迷ってるの?」
「仕事のことだけなら、行ってみたい。大変だと思うけど、新しい拠点を最初から作る仕事なんて、何度も経験できることじゃないから」
「なら、受けた方がいいんじゃない?」
美帆が黙った。
直人は間違ったことを言ったつもりはなかった。
それでも、美帆の表情がわずかに曇ったのを見逃さなかった。
「もちろん、簡単な話じゃないけど」
「うん」
「1年なら、ずっと向こうにいるわけでもないし。休みの日に会いに行くこともできる」
「そうだね」
美帆は紅茶を一口飲んだ。
会いに行く。連絡を取る。1年後には戻る。
どれも間違いではないのに、2人が同じ未来を見ている言葉には聞こえなかった。
「直人は、寂しくない?」
美帆の問いに、直人はすぐ答えられなかった。
「寂しくないわけじゃないよ」
「でも、行った方がいいと思う?」
「美帆がやりたいなら、応援したいと思ってる」
「そっか」
美帆は微笑んだ。
その笑顔は、月明かりの渚で直人の言葉を待つのをやめたときと、どこか似ていた。
「美帆は、俺に止めてほしかった?」
「そういうわけじゃないよ。止めてほしいなら、最初から行きたいなんて言わない」
「じゃあ――」
「ただ、直人がどう思うか知りたかったの」
美帆は責めるような口調ではなかった。
直人は、自分が伝えたのは美帆の仕事に対する意見だけだったと気づいた。
2人のことをどうしたいのか。
美帆が知りたかったのは、そちらだったのかもしれない。
「俺は、美帆と会えなくなるのは嫌だよ」
「うん」
「でも、それだけで断ってほしいとは言えない」
「私も、直人に決めてもらおうとは思ってないよ。自分の仕事だから、最後は自分で決める」
「だったら、俺にできるのは応援することだと思う」
口にするほど、正しい言葉だけが積み上がっていく。
美帆はしばらく直人を見つめていた。
「直人らしいね」
「それ、褒めてる?」
「分からない」
いつもなら「褒めてる」と笑うところだった。
美帆はカップへ目を落としたまま、静かに続けた。
「仕事の話を聞いたとき、最初に直人のことを考えたの。1年離れて暮らしたらどうなるんだろうとか、今より会えなくなっても大丈夫かなとか」
「俺も今、考えてる」
「今なんだ」
短い一言だった。
直人は返せなかった。
美帆にとっては、打診を受けた瞬間から仕事と2人の未来が同じ問題になっていた。
直人は話を聞いて初めて、今の日常が変わる可能性を考え始めた。
その差が、テーブルを挟んだ距離よりも大きく感じられた。
「ごめん。責めたいわけじゃないの」
「分かってる」
「急な話だから、直人だってすぐには答えられないよね」
「美帆もまだ決めてないんだろ?」
「うん。もう少し考える」
「俺も考えるよ」
「何を?」
「美帆が向こうへ行ったら、どうすれば今までみたいに会えるか」
美帆は困ったように笑った。
「今までみたいには、難しいと思う」
分かっていたはずの言葉が、胸に重く落ちた。
「日曜日は?」
直人が尋ねると、美帆は少し驚いたように顔を上げた。
「記念日の予定。今のところ、そのままで大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
「よかった」
「話を聞いたら、会いたくなくなると思った?」
「そうじゃないけど、今の話をしたあとで、普通に記念日を祝っていいのかなって」
「まだ何も決まってないし、3年一緒にいたことまで変わるわけじゃないでしょ」
美帆は静かに笑った。
「日曜日は楽しみにしてる。直人が選んでくれた店も行きたい」
「分かった」
その約束に直人は安心した。
同時に、日曜日までに何か答えを見つけなければならないような焦りを覚えた。
美帆が求めているのは、プロジェクトへ参加すべきかという判断ではない。
2人のこれからを、直人がどう考えているかという言葉だった。
直人は、今の幸せを形を変えずに守ろうとしていた。
けれど美帆の前には、今までと違う場所へ進む道が現れている。
同じ関係を続けたいだけでは、その道と並んで歩くことはできないのかもしれない。
店を出ると、夜の空気は少し冷えていた。
2人は駅まで並んで歩いたが、いつものように美帆が直人の腕へ触れることはなかった。
離れているわけではない。手を伸ばせば届く距離にいる。
それでも直人には、その数センチが遠く感じられた。
改札の前で、美帆が足を止める。
「話、聞いてくれてありがとう」
「決めたら教えて」
「うん」
「どっちを選んでも、ちゃんと応援するから」
美帆は一瞬だけ視線を伏せた。
「ありがとう。でも、私が聞きたかったのは、たぶんそれだけじゃなかった」
直人が言葉を探している間に、美帆は小さく笑った。
「今日は帰るね。おやすみ」
「おやすみ」
美帆は改札を抜け、振り返らずに人の流れへ入っていった。
直人はその背中を見送りながら、結婚式の帰りに考えたことを思い出していた。
美帆と一緒にいることを、自分の意思で選び、その選択を言葉にする。
いつかはしなければならないと思っていた。
けれど現実は、直人が覚悟を決めるまで、今の場所で待っていてはくれなかった。




