第5話 幸せの続き
海辺の町から戻って、2週間が過ぎた。
9月に入っても暑さは残り、直人の毎日は旅行へ行く前とほとんど変わらなかった。朝は決まった時間に起き、日中を慌ただしく過ごし、夜になれば美帆とメッセージを交わす。
旅行の写真は、帰宅した翌日に美帆と共有した。
電車の窓から見えた海。ホテルの部屋で膨らんだ白いカーテン。夕陽に染まるカフェの窓辺。月明かりが伸びていた夜の渚。
美帆は写真が届くたびに短い感想を返してきたが、夜の浜辺で直人が言いかけたことには一度も触れなかった。
直人も、何も言わなかった。
普段どおりに戻れたことへ安心しながら、その安心を後ろめたく感じる瞬間があった。
土曜日の夕方、直人は駅に隣接するホテルのロビーで美帆を待っていた。
この日は、第1話で美帆が話していた友人の結婚式だった。
式が終わったあと、一緒に夕食を取る約束をしている。
スマートフォンに『もうすぐ下りる』と連絡が届き、数分後、エスカレーターから美帆が姿を見せた。
落ち着いた紺色のワンピースに細いネックレスを合わせ、肩までの髪は普段と違う形に整えられている。片手には小さなバッグと紙袋を持っていた。
直人を見つけると、美帆は足早に近づいてきた。
「お待たせ。早かった?」
「10分くらい」
「それなら待たせたうちに入らないね」
「美帆の基準だとそうなるのか」
「だって今日は、待ち合わせの時間を決めてなかったでしょ」
「それはそうだけど」
美帆は言い切ってから、直人の前で軽く両腕を広げた。
「どう?」
「何が?」
「服も髪も、いつもと違うのに」
「似合ってる」
「それだけ?」
第4話でサンダルの感想を求められた場面を思い出す。
直人は少し考え、美帆を改めて見た。
「綺麗だよ。すぐ分かったけど、一瞬声かけにくかった」
「どうして?」
「いつもよりちゃんとしてたから」
「最後の一言が余計」
美帆は頬を緩めながら、直人の腕を軽く叩いた。
「でも、合格」
「採点されてたの?」
「直人は言わないと伝わらないって、海で学んだでしょ」
何気ない調子だった。
それでも直人は、一瞬だけ返す言葉を失った。
美帆は気づいている。
月明かりの下で言えなかったことにも、直人が今もそれを避けていることにも。
けれど、美帆は表情を変えずに紙袋を持ち上げた。
「引き出物、重いから少し持って」
「はいはい」
「返事は1回」
直人が紙袋を受け取ると、美帆はいつものように隣へ並んだ。
2人は駅の近くにある店へ入った。
週末で混み合っていたが、窓際に2人分の席が空いていた。
注文を済ませると、美帆はテーブルの上へスマートフォンを置き、今日撮った写真を直人に見せた。
白いドレス姿の友人。
並んで笑う新郎新婦。
色鮮やかな花に囲まれた会場。
どの写真にも、そこにいた人たちの祝福が写り込んでいるようだった。
「幸せそうだな」
「うん。ずっと笑ってた。途中で泣いてたけど、それも嬉しくて泣いてたみたい」
「美帆も泣いた?」
「少しだけ。新婦から家族への手紙はだめだね。周りが泣くと、余計に我慢できなくなる」
「目、少し赤いもんな」
「そこは見なくていいの」
美帆は目元を手で隠し、写真を次へ送った。
「この2人、付き合って何年なの?」
「5年くらいかな。一度別々の土地で暮らしてた時期もあったけど、結局一緒になった」
「遠距離だったんだ」
「うん。会えない時間が長かったから、同じ家に帰れるだけで嬉しいって言ってた」
美帆は写真の中の友人を見つめながら、穏やかに笑った。
「そういうの、いいなと思った」
直人は頷こうとして、ほんの少し遅れた。
同じ家に帰る。
言葉にすれば簡単なことなのに、そこへ至るまでには住む場所や仕事、生活の時間や金銭のことを決めなければならない。
第1話で思い浮かべた現実が、また頭の中へ並び始める。
けれど、美帆が話しているのは手続きや条件ではない。
好きな相手と同じ場所へ帰れることを、素直に羨ましいと言っているだけだった。
「直人?」
「うん。いいと思う」
「今、別のこと考えてたでしょ」
「ちょっとな」
「仕事?」
第1話と同じ問いだった。
あのとき直人は、仕事のことを考えていたと誤魔化した。
「違うよ」
今回はそう答えた。
美帆が少し驚いたように直人を見る。
「じゃあ、何?」
「同じ家に帰るって、どんな感じなんだろうと思ってた」
「直人も考えるんだ」
「考えたことくらいあるよ」
「そうなんだ」
美帆はそれ以上、誰と、いつ、という言葉を続けなかった。
手元のグラスを持ち、冷たい水を一口飲む。
注文した料理が運ばれてくるまで、短い沈黙が落ちた。
気まずいわけではない。
ただ、いつもの軽口へ戻すには、今の会話が少しだけ重かった。
「新婚生活って、実際は大変そうだけどね」
美帆が先に口を開いた。
「友達も、家事の分担で揉めそうって笑ってた。新郎が洗濯物を畳むの苦手なんだって」
「畳むくらいできるだろ」
「直人はできるの?」
「できるよ」
「綺麗に?」
「普通には」
「その普通が怪しい」
「今度、写真送ろうか?」
「そこまで証明しなくていいよ」
美帆が笑う。
張っていた糸が、少しだけ緩んだ気がした。
食事が運ばれてくると、2人は料理を取り分けながら結婚式の続きを話した。
美帆は久しぶりに会った友人たちの近況を話し、直人は知らない名前に相槌を打った。
ただ、話の中には以前よりも結婚や子ども、家を買ったという言葉が増えていた。
誰かの人生が先へ進んでいく。
それは競争ではない。
早ければ正しいわけでも、同じ道を選ばなければならないわけでもない。
それでも、自分たちだけがずっと同じ場所に立っていられるわけではないのだと、直人は感じ始めていた。
「今日ね、久しぶりに会った友達から、直人のことを聞かれた」
「俺のこと?」
「まだ付き合ってるのって」
「まだ、って言い方は何だよ」
「結婚式で会ってから3年近いから、気になったんじゃない? あの日、同じテーブルにいた子だよ」
直人は披露宴の日を思い返した。
美帆と初めて言葉を交わしたテーブルには何人か座っていたが、顔までははっきり思い出せない。
「何て答えたの?」
「付き合ってるよって。海へ行った写真も見せた」
「勝手に?」
「直人が写ってる写真は見せてないから大丈夫。夕陽と海だけ」
「それだと、俺が本当にいるか分からないだろ」
「別に疑われてないよ。その子、直人と会ったことあるし」
美帆は笑ったあと、テーブルの端に置いたスマートフォンへ目を落とした。
「3年続いてるって言ったら、すごいねって言われた」
「すごいのかな」
「どうだろう。でも、私も口にしてみたら長いなと思った。知り合ってからなら、もっとだし」
「半年くらい友達だったからな」
「あの頃、直人が告白してこなかったら、今も友達だったのかな」
「さすがに今までずっとは続いてないんじゃない?」
「そうかも。でも、連絡先だけは残ってて、たまに映画の話をするくらいだったかもしれないね」
美帆は冗談めかして言ったが、直人はその光景をうまく想像できなかった。
あり得たかもしれない未来なのに、今の自分からはひどく遠く感じられる。
「嫌だな、それ」
「何が?」
「たまに連絡するだけの関係。今の方がいい」
美帆は直人を見つめ、少し照れたように笑った。
「私も、今の方がいい」
短い言葉だった。それでも、2人が過ごした3年を確かめ合うには十分だった。
「そういえば、私たちももうすぐ3年だね」
食後の飲み物が運ばれた頃、美帆が言った。
「忘れてないよ」
「まだ何も聞いてないけど」
「顔に書いてあった」
「海を忘れかけてた人だから、一応確認しようと思っただけです」
「あれは忘れてたんじゃなくて、すぐに思い出せなかっただけ」
「同じでしょ」
「記念日は覚えてる」
「じゃあ、何する?」
「それはこれから考える」
「まだ少し先だもんね」
美帆は笑っていた。
けれど、直人にはその「何する?」が、記念日の予定だけを尋ねた言葉ではないように聞こえた。
考えすぎかもしれない。
そう片づけようとして、月明かりの渚で続きを待っていた美帆の瞳を思い出した。
「美帆は、何かしたいことある?」
「直人と一緒なら、何でもいいよ。でも、ちゃんと2人で決めたい」
「分かった」
「任せきりにしないでね」
「旅行のときは反省しただろ」
「多少、でしょ?」
「今回はちゃんと考えるよ」
直人が答えると、美帆は嬉しそうに頷いた。
店を出る頃には、駅前の灯りが夜の歩道を明るく照らしていた。
美帆は履き慣れない靴で疲れたのか、直人の腕へ手を添えて歩いている。
「足、痛い?」
「少し。でも大丈夫」
「ゆっくり歩くか」
「ありがとう」
歩調を緩めると、美帆も同じ速さで隣を歩いた。
海辺の町では、来年もまた渚へ行こうと約束した。
けれど今、直人が考えているのは来年の旅行だけではなかった。
次の記念日。その次の季節。美帆が別の結婚式へ出席する頃。自分が30歳になった頃。
そこに美帆がいる未来は、相変わらず自然に思い浮かぶ。
ただ、その未来を当たり前だと思うだけではいけないのかもしれない。
美帆と一緒にいることを、自分の意思で選び、その選択を言葉にする。
月明かりの下でできなかったことを、いつかはしなければならない。
改札の前で、美帆が直人から紙袋を受け取った。
「今日はありがとう。疲れてるのに会ってくれて」
「俺が会いたかったから」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
美帆も一瞬目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「そういうの、最近あんまり言わなかったのに」
「多少は反省してるから」
「まだ多少なんだ」
「少しずつでいいだろ」
「うん。少しずつでいいよ」
美帆はそう答えた。
急かす言葉ではなかった。
だからこそ直人には、その先に続く時間が、思っていたよりも無限ではないように感じられた。




