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来年も、その先も  作者: ムネディ


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4/13

第4話 月明かりの渚

 カフェを出た頃には、海へ沈んだ夕陽の名残だけが西の空に残っていた。

 直人と美帆は一度ホテルへ戻り、少し遅めの夕食を取った。

 窓の外がすっかり暗くなると、昼間は青く輝いていた海も見えなくなり、規則正しい波音だけが夜の向こうから届いていた。

「行こうか」

 食事を終えた美帆が、部屋へ戻るより先に言った。

「今から?」

「夕食のあとに歩くって約束したでしょ。忘れたの?」

「忘れてない。少し休んでからかと思ってた」

「部屋に戻ったら、直人は動かなくなりそうだから」

「人を怠け者みたいに言うなよ」

「違うの?」

 直人が答えずに立ち上がると、美帆は満足そうに笑った。

 ホテルを出た2人は、海沿いの道をゆっくり歩いた。

 昼間の熱を残したアスファルトに、海からの風が流れている。

 古い商店はほとんどシャッターを下ろし、軒先の灯りが等間隔に道を照らしていた。

 観光地の夜にありがちな賑わいはなく、すれ違う人の姿も少ない。

「静かだね」

 美帆が声を落とす。

「去年もこんな感じだった?」

「覚えてないの?」

「景色は覚えてる。音までは覚えてない」

「たぶん同じだよ。波の音がして、ときどき車が通って」

 言い終わるのを待つように、背後から1台の車が近づき、2人の横を通り過ぎた。

 ヘッドライトに照らされた美帆の影が一瞬だけ長く伸び、すぐに足元へ戻る。

「本当だ」

「でしょ?」

「よく覚えてるな」

「直人よりはね」

「比べる相手が悪いんじゃない?」

「自分で言う?」

 笑い声が静かな道に小さく響いた。

 浜辺へ下りる階段の前で、美帆は足を止めた。

「サンダルで来て正解だった」

「そのために買ったんだろ」

「そうだけど、直人が何も言わないから」

「何を言えばいいんだよ」

「似合ってるとか」

 美帆が片足を少し持ち上げ、淡い色のサンダルを見せる。

 第1話で一緒に探したものだった。

「似合ってるよ」

「言わせたみたいになった」

「言わせたんだろ」

「もう少し自然に言ってほしかった」

「難しい注文だな」

 直人が苦笑すると、美帆もつられるように笑った。

「でも、ありがとう」

 その一言だけは素直だった。

 階段を下りると、足元の感触が硬い地面から柔らかな砂へ変わった。

 夜の海は昼間よりも広く見えた。

 雲の少ない空に月が浮かび、その光が波の上で細かく揺れている。

 沖から寄せた波は白い線となって岸へ届き、2人の少し手前でほどけるように消えた。

「綺麗」

 美帆が呟く。

 カフェで夕陽を見たときと同じ言葉だったが、声の響きは違っていた。

「月、明るいな」

「うん。こんなに明るかったんだね」

「去年は曇ってたからな」

「覚えてるじゃん」

「全部忘れてるわけじゃない」

「じゃあ、去年ここで何話したか覚えてる?」

 直人は考えた。

 歩いたことは覚えている。

 美帆が波打ち際まで近づき、寄せた波から逃げようとして転びかけたことも。

 そのあと笑いながらホテルへ戻ったことも記憶にある。

 けれど、何を話したのかは思い出せなかった。

「美帆が転びそうになった」

「それは話したことじゃないでしょ」

「やっぱり覚えてない」

「私もはっきりは覚えてないけどね」

「何だよ」

「でも、楽しかったことは覚えてる」

 美帆はそう言って、波打ち際へ向かって歩き出した。

 その背中を追いながら、直人は今の言葉を考えた。

 何を食べたか、どんな会話をしたか。細かなことは少しずつ薄れていく。

 それでも、美帆が隣にいて楽しかったという感覚だけは残っている。

 3年という時間は、そういう記憶の積み重ねなのかもしれなかった。

「ちょっと冷たい」

 美帆が足を止める。

 薄く広がった波がサンダルの先に触れていた。

「あまり近づくと、また転ぶぞ」

「去年は転んでない」

「転びそうにはなった」

「直人が急に腕を引っ張ったからでしょ」

「波が来たから助けたんだよ」

「助け方が雑だったの」

「じゃあ今年は助けない」

「それはだめ」

 美帆が当然のように手を差し出した。

 直人はその手を取る。

 指を絡めると、美帆の手は海風の中でも温かかった。

 2人は波が届くか届かないかの場所を、足元へ気をつけながら歩いた。

「ねえ」

 しばらくして、美帆が海を見たまま呼びかけた。

「何?」

「最初に来たとき、ここまで続くと思ってた?」

「海が?」

「私たちが」

 冗談で返そうとして、美帆の横顔を見た。

 問い詰めるような表情ではない。

 ただ、昔を思い出すように月明かりの海を眺めている。

「どうだろうな。あの頃は、来年また来られればいいと思ってた」

「私も。来年の約束をするだけで、ちょっと緊張した」

「小指まで出したからな」

「直人、覚えてるじゃん」

「この前の電話で話したばかりだろ」

「そうでした」

 美帆が笑う。

「でも、ちゃんと3回来たね」

「来たな」

「最初のときより、ずっと遠慮しなくなったけど」

「待ち合わせにも遅れるようになったし」

「それはもういいでしょ」

「美帆だって、俺が店を調べなくなったって言うじゃん」

「それとは別です」

「同じだと思うけど」

 直人が言うと、美帆は少し考えてから肩をすくめた。

「まあ、どっちも慣れたってことかな」

「悪い意味で?」

「良い意味でも。たぶん、少しだけ悪い意味でも」

 第1話で直人が心の中だけで考えたことと、よく似ていた。

「何、その顔」

「同じこと考えてたから」

「いつ?」

「この前、美帆が遅刻してきたとき」

「やっぱり遅刻の話じゃん」

 美帆は不満そうに言ったが、繋いだ手を離そうとはしなかった。

 波が2人の足跡の近くまで寄せ、引いていった。

 砂の上には並んだ足跡が長く続いている。

 ところどころ歩幅がずれ、美帆が波を避けた場所だけ横へ曲がっていた。

「最初の年も、こうやって歩いたよね」

「あのときは、手を繋ぐだけで美帆が妙に緊張してた」

「直人だって。私が手を離したら、しばらく繋ぎ直せなかったじゃん」

「暑かったから離したんだと思ったんだよ」

「本当は写真を撮りたかっただけ」

「それは言ってくれないと分からない」

「言わなくても分かるかなって思ったの」

 美帆は笑っていたが、その言葉が直人の胸に残った。

 付き合い始めた頃より、分かることは確かに増えた。

 けれど、近くにいるだけですべてが伝わるわけではない。

 分かったつもりになって、言わなくなったことも同じだけ増えているのかもしれなかった。

 少し先に、砂浜から海へ向かって低い突堤が延びていた。

 2人は波打ち際を離れ、その手前で足を止めた。

 月の光が沖から岸まで細い道のように続いている。

「あの上、歩けそう」

「暗いし、やめた方がいい」

「行かないよ。言ってみただけ」

「美帆はたまに本当に行くからな」

「ちゃんと止めてくれるでしょ」

 当然のように言われ、直人は答えられなかった。

 美帆は直人が止めると思っている。

 危ない場所へ行こうとすれば手を引き、重い荷物があれば持ち、困っていればそばにいる。

 直人も、それを特別なことだとは考えていなかった。

 来年も、きっと同じようにする。

 再来年も。

 その先も。

 月の道を見つめているうちに、第1話で止めた思考が再び動き出した。

 恋人のまま、この海へ来るのか。

 それとも、違う関係になっているのか。

 美帆が隣にいる未来は、簡単に思い浮かべられる。

 なのに、その未来へ名前をつけようとすると、仕事や収入、住む場所、家族のことが一度に浮かんでくる。

 好きだという気持ちだけでは決められないことが多すぎる。

 けれど、決められないままでいることも、いつかは1つの答えになってしまう。

「直人?」

 美帆が顔を覗き込んでいた。

「どうしたの?」

「いや……」

 今なら言える気がした。

 派手な言葉でなくていい。ただ、来年も、その先も、美帆と一緒にいたいと伝えればいい。

「美帆」

「うん」

 呼びかけた声に、自分でも分かるほど力が入っていた。

 美帆がまっすぐ直人を見る。

 急かさず、続きを待っている。

「来年も――」

 その先の言葉が、喉の奥で止まった。

 来年もここへ来よう。

 それだけなら簡単に言える。

 けれど今、口にしかけたのは、そんな軽い約束ではなかった。

 美帆の人生に関わる言葉だった。

 言えば、今までどおりではいられなくなる。

 嬉しいかどうかだけではなく、その先にある現実へ2人で進む覚悟が必要になる。

 自分にそれがあるのか、直人には答えられなかった。

「……来年も、またここに来よう」

 ようやく出たのは、言おうとした言葉の一番手前だけだった。

 美帆は少しの間、何も言わなかった。

 月明かりに照らされた瞳が、直人の中に残った言葉まで見つめているように思えた。

「うん」

 やがて、美帆は穏やかに笑った。

「来年も来ようね」

 それ以上は聞かなかった。

 何を言いかけたのか。

 なぜ言葉に詰まったのか。

 気づいていないはずはない。

 それでも美帆は、直人へ答えを求めなかった。

 その優しさに安心し、同時に胸の奥が痛んだ。

 ホテルへ戻ろうと歩き始めると、美帆が直人の腕へ寄り添った。

「少し寒くなってきた」

「海風のせいだな」

「もう少し近く歩いていい?」

「今さら聞くの?」

「一応」

 直人が繋いだ手を引き寄せると、美帆の肩が触れた。

 2人の影が月明かりの砂浜に重なる。

 いつもと変わらない距離だった。

 けれど直人には、言えなかった言葉だけが2人の間に残っているように感じられた。

「明日も晴れるかな」

 美帆が空を見上げる。

「晴れるんじゃない?」

「朝、ちゃんと起きてね」

「7時半は早い」

「もう決定です」

「まだ交渉できるだろ」

「できません」

 いつもの調子で言い合い、2人は笑った。

 美帆の声も、繋いだ手の温かさも変わらない。

 それでも、直人は知っていた。

 今夜、自分が言えなかったことを、美帆は忘れない。

 そして自分も、忘れることはできない。

 振り返ると、月の光が海から渚までまっすぐに伸びていた。

 その道の先へ踏み出すことができないまま、直人は美帆と並んでホテルへ戻った。

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