第4話 月明かりの渚
カフェを出た頃には、海へ沈んだ夕陽の名残だけが西の空に残っていた。
直人と美帆は一度ホテルへ戻り、少し遅めの夕食を取った。
窓の外がすっかり暗くなると、昼間は青く輝いていた海も見えなくなり、規則正しい波音だけが夜の向こうから届いていた。
「行こうか」
食事を終えた美帆が、部屋へ戻るより先に言った。
「今から?」
「夕食のあとに歩くって約束したでしょ。忘れたの?」
「忘れてない。少し休んでからかと思ってた」
「部屋に戻ったら、直人は動かなくなりそうだから」
「人を怠け者みたいに言うなよ」
「違うの?」
直人が答えずに立ち上がると、美帆は満足そうに笑った。
ホテルを出た2人は、海沿いの道をゆっくり歩いた。
昼間の熱を残したアスファルトに、海からの風が流れている。
古い商店はほとんどシャッターを下ろし、軒先の灯りが等間隔に道を照らしていた。
観光地の夜にありがちな賑わいはなく、すれ違う人の姿も少ない。
「静かだね」
美帆が声を落とす。
「去年もこんな感じだった?」
「覚えてないの?」
「景色は覚えてる。音までは覚えてない」
「たぶん同じだよ。波の音がして、ときどき車が通って」
言い終わるのを待つように、背後から1台の車が近づき、2人の横を通り過ぎた。
ヘッドライトに照らされた美帆の影が一瞬だけ長く伸び、すぐに足元へ戻る。
「本当だ」
「でしょ?」
「よく覚えてるな」
「直人よりはね」
「比べる相手が悪いんじゃない?」
「自分で言う?」
笑い声が静かな道に小さく響いた。
浜辺へ下りる階段の前で、美帆は足を止めた。
「サンダルで来て正解だった」
「そのために買ったんだろ」
「そうだけど、直人が何も言わないから」
「何を言えばいいんだよ」
「似合ってるとか」
美帆が片足を少し持ち上げ、淡い色のサンダルを見せる。
第1話で一緒に探したものだった。
「似合ってるよ」
「言わせたみたいになった」
「言わせたんだろ」
「もう少し自然に言ってほしかった」
「難しい注文だな」
直人が苦笑すると、美帆もつられるように笑った。
「でも、ありがとう」
その一言だけは素直だった。
階段を下りると、足元の感触が硬い地面から柔らかな砂へ変わった。
夜の海は昼間よりも広く見えた。
雲の少ない空に月が浮かび、その光が波の上で細かく揺れている。
沖から寄せた波は白い線となって岸へ届き、2人の少し手前でほどけるように消えた。
「綺麗」
美帆が呟く。
カフェで夕陽を見たときと同じ言葉だったが、声の響きは違っていた。
「月、明るいな」
「うん。こんなに明るかったんだね」
「去年は曇ってたからな」
「覚えてるじゃん」
「全部忘れてるわけじゃない」
「じゃあ、去年ここで何話したか覚えてる?」
直人は考えた。
歩いたことは覚えている。
美帆が波打ち際まで近づき、寄せた波から逃げようとして転びかけたことも。
そのあと笑いながらホテルへ戻ったことも記憶にある。
けれど、何を話したのかは思い出せなかった。
「美帆が転びそうになった」
「それは話したことじゃないでしょ」
「やっぱり覚えてない」
「私もはっきりは覚えてないけどね」
「何だよ」
「でも、楽しかったことは覚えてる」
美帆はそう言って、波打ち際へ向かって歩き出した。
その背中を追いながら、直人は今の言葉を考えた。
何を食べたか、どんな会話をしたか。細かなことは少しずつ薄れていく。
それでも、美帆が隣にいて楽しかったという感覚だけは残っている。
3年という時間は、そういう記憶の積み重ねなのかもしれなかった。
「ちょっと冷たい」
美帆が足を止める。
薄く広がった波がサンダルの先に触れていた。
「あまり近づくと、また転ぶぞ」
「去年は転んでない」
「転びそうにはなった」
「直人が急に腕を引っ張ったからでしょ」
「波が来たから助けたんだよ」
「助け方が雑だったの」
「じゃあ今年は助けない」
「それはだめ」
美帆が当然のように手を差し出した。
直人はその手を取る。
指を絡めると、美帆の手は海風の中でも温かかった。
2人は波が届くか届かないかの場所を、足元へ気をつけながら歩いた。
「ねえ」
しばらくして、美帆が海を見たまま呼びかけた。
「何?」
「最初に来たとき、ここまで続くと思ってた?」
「海が?」
「私たちが」
冗談で返そうとして、美帆の横顔を見た。
問い詰めるような表情ではない。
ただ、昔を思い出すように月明かりの海を眺めている。
「どうだろうな。あの頃は、来年また来られればいいと思ってた」
「私も。来年の約束をするだけで、ちょっと緊張した」
「小指まで出したからな」
「直人、覚えてるじゃん」
「この前の電話で話したばかりだろ」
「そうでした」
美帆が笑う。
「でも、ちゃんと3回来たね」
「来たな」
「最初のときより、ずっと遠慮しなくなったけど」
「待ち合わせにも遅れるようになったし」
「それはもういいでしょ」
「美帆だって、俺が店を調べなくなったって言うじゃん」
「それとは別です」
「同じだと思うけど」
直人が言うと、美帆は少し考えてから肩をすくめた。
「まあ、どっちも慣れたってことかな」
「悪い意味で?」
「良い意味でも。たぶん、少しだけ悪い意味でも」
第1話で直人が心の中だけで考えたことと、よく似ていた。
「何、その顔」
「同じこと考えてたから」
「いつ?」
「この前、美帆が遅刻してきたとき」
「やっぱり遅刻の話じゃん」
美帆は不満そうに言ったが、繋いだ手を離そうとはしなかった。
波が2人の足跡の近くまで寄せ、引いていった。
砂の上には並んだ足跡が長く続いている。
ところどころ歩幅がずれ、美帆が波を避けた場所だけ横へ曲がっていた。
「最初の年も、こうやって歩いたよね」
「あのときは、手を繋ぐだけで美帆が妙に緊張してた」
「直人だって。私が手を離したら、しばらく繋ぎ直せなかったじゃん」
「暑かったから離したんだと思ったんだよ」
「本当は写真を撮りたかっただけ」
「それは言ってくれないと分からない」
「言わなくても分かるかなって思ったの」
美帆は笑っていたが、その言葉が直人の胸に残った。
付き合い始めた頃より、分かることは確かに増えた。
けれど、近くにいるだけですべてが伝わるわけではない。
分かったつもりになって、言わなくなったことも同じだけ増えているのかもしれなかった。
少し先に、砂浜から海へ向かって低い突堤が延びていた。
2人は波打ち際を離れ、その手前で足を止めた。
月の光が沖から岸まで細い道のように続いている。
「あの上、歩けそう」
「暗いし、やめた方がいい」
「行かないよ。言ってみただけ」
「美帆はたまに本当に行くからな」
「ちゃんと止めてくれるでしょ」
当然のように言われ、直人は答えられなかった。
美帆は直人が止めると思っている。
危ない場所へ行こうとすれば手を引き、重い荷物があれば持ち、困っていればそばにいる。
直人も、それを特別なことだとは考えていなかった。
来年も、きっと同じようにする。
再来年も。
その先も。
月の道を見つめているうちに、第1話で止めた思考が再び動き出した。
恋人のまま、この海へ来るのか。
それとも、違う関係になっているのか。
美帆が隣にいる未来は、簡単に思い浮かべられる。
なのに、その未来へ名前をつけようとすると、仕事や収入、住む場所、家族のことが一度に浮かんでくる。
好きだという気持ちだけでは決められないことが多すぎる。
けれど、決められないままでいることも、いつかは1つの答えになってしまう。
「直人?」
美帆が顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
「いや……」
今なら言える気がした。
派手な言葉でなくていい。ただ、来年も、その先も、美帆と一緒にいたいと伝えればいい。
「美帆」
「うん」
呼びかけた声に、自分でも分かるほど力が入っていた。
美帆がまっすぐ直人を見る。
急かさず、続きを待っている。
「来年も――」
その先の言葉が、喉の奥で止まった。
来年もここへ来よう。
それだけなら簡単に言える。
けれど今、口にしかけたのは、そんな軽い約束ではなかった。
美帆の人生に関わる言葉だった。
言えば、今までどおりではいられなくなる。
嬉しいかどうかだけではなく、その先にある現実へ2人で進む覚悟が必要になる。
自分にそれがあるのか、直人には答えられなかった。
「……来年も、またここに来よう」
ようやく出たのは、言おうとした言葉の一番手前だけだった。
美帆は少しの間、何も言わなかった。
月明かりに照らされた瞳が、直人の中に残った言葉まで見つめているように思えた。
「うん」
やがて、美帆は穏やかに笑った。
「来年も来ようね」
それ以上は聞かなかった。
何を言いかけたのか。
なぜ言葉に詰まったのか。
気づいていないはずはない。
それでも美帆は、直人へ答えを求めなかった。
その優しさに安心し、同時に胸の奥が痛んだ。
ホテルへ戻ろうと歩き始めると、美帆が直人の腕へ寄り添った。
「少し寒くなってきた」
「海風のせいだな」
「もう少し近く歩いていい?」
「今さら聞くの?」
「一応」
直人が繋いだ手を引き寄せると、美帆の肩が触れた。
2人の影が月明かりの砂浜に重なる。
いつもと変わらない距離だった。
けれど直人には、言えなかった言葉だけが2人の間に残っているように感じられた。
「明日も晴れるかな」
美帆が空を見上げる。
「晴れるんじゃない?」
「朝、ちゃんと起きてね」
「7時半は早い」
「もう決定です」
「まだ交渉できるだろ」
「できません」
いつもの調子で言い合い、2人は笑った。
美帆の声も、繋いだ手の温かさも変わらない。
それでも、直人は知っていた。
今夜、自分が言えなかったことを、美帆は忘れない。
そして自分も、忘れることはできない。
振り返ると、月の光が海から渚までまっすぐに伸びていた。
その道の先へ踏み出すことができないまま、直人は美帆と並んでホテルへ戻った。




