第3話 変わらない海
8月最後の金曜日、直人が待ち合わせの駅へ着いたのは、約束の25分前だった。
改札近くの柱にもたれ、スマートフォンで乗る電車を確かめる。
ホームへ向かうにはまだ早い。
そう思って顔を上げたとき、人の流れの向こうから美帆が歩いてきた。
白い半袖のブラウスに薄いベージュのパンツ。
肩から小さなバッグを掛け、もう片方の手でキャリーケースを引いている。
「おはよう」
「……早いな」
「その反応、失礼じゃない?」
「待ち合わせまで、まだ20分以上あるぞ」
「旅行の日は遅れませんって言ったでしょ」
美帆は得意そうにスマートフォンの時計を見せた。
「疑ってた?」
「少し」
「正直すぎる」
「約3年の経験則だから」
「それ、いつまで使うつもり?」
口では呆れながら、美帆は笑っていた。
直人がキャリーケースの持ち手へ手を伸ばすと、美帆は素直に離した。
付き合い始めた頃なら「大丈夫」と一度は遠慮していただろう。
今は礼を言うより先に、自分のバッグから小さな紙袋を取り出している。
「朝ご飯は?」
「食べてきた」
「じゃあ、これは電車でね」
「何?」
「お昼。ちゃんと買ってきました」
「一緒に選ぶって話じゃなかったか?」
「直人が先に着くと思ったから、少し早く来て選ぼうと思ってたの。でも、いいサンドイッチがあったから買っちゃった」
「旅行の日だけ別人だな」
「褒め言葉として受け取ります」
2人は並んでホームへ向かった。
電車が街を離れてしばらくすると、窓の外から高い建物が減り、低い屋根と緑が増えていった。
向かい合わせの座席で、美帆は窓際に座っている。
膝の上には、先ほどの紙袋。
中には2種類のサンドイッチが入っていて、最初から半分ずつ食べるつもりだったらしい。
「去年、何時くらいに海が見えたっけ」
「もう少し先じゃない?」
「最初の年は急に見えて、びっくりしたよね」
「美帆が騒ぐから、周りの人に見られた」
「直人だって席立って見に来たじゃん」
「何度も呼ぶからだろ」
「今年は呼ばなくていいの?」
「見えたら教えて」
「結局、呼ぶんじゃん」
美帆が窓へ視線を戻す。
直人はその横顔を見てから、座席へ深く腰を預けた。
同じ電車ではない。
座る場所も、窓の外を流れる雲の形も違う。
それでも、この海へ向かう時間には毎年似た空気があった。
最初の年は、何を話していても少し緊張していた。
沈黙が訪れるたびに、次の話題を探した。
去年は会話が途切れても気にならなくなり、美帆は途中で直人の肩に頭を預けて眠っていた。
今年は、向かいに座った美帆がサンドイッチの包みを開きながら、どちらを先に食べるか真剣に悩んでいる。
「こっち、卵。もう1つはチキン」
「半分ずつだろ?」
「そうだけど、最初の一口は大事だから」
「どっちから食べても最後は同じだと思うけど」
「そういうことじゃないの」
結局、美帆は卵の方を先に選んだ。直人も同じものを受け取り、一口かじる。
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
自分が作ったわけでもないのに、美帆は満足そうに笑った。
その顔を見ながら食べる味まで、もう旅行の記憶になるのだろう。
直人はふとそう思った。
「見えた」
美帆が声を落として言った。
窓の向こう、家並みの切れ間に青い帯が現れる。
次の瞬間には視界が開け、陽光を細かく反射する海が広がった。
美帆は何も言わずに直人を見る。
「今年は騒がないんだな」
「大人になったので」
「さっきサンドイッチの順番で悩んでた人が?」
「それとこれは別です」
そう返した美帆の目は、最初の夏と変わらないほど嬉しそうだった。
小さな駅へ降りると、潮を含んだ風が頬を撫でた。
日差しは街にいたときと変わらず強いはずなのに、吹き抜ける風にはわずかな涼しさがある。
ホームの端からも、屋根の向こうに海が見えた。
「着いた」
美帆がゆっくり息を吸う。
「海の匂いするね」
「駅まで来るんだな」
「去年も同じこと言ってたよ」
「そうだっけ」
「言ってた。私が『当たり前でしょ、近いんだから』って答えた」
「そこまで覚えてるの?」
「直人が覚えてなさすぎるの」
*
改札を出ると、駅前の景色はほとんど変わっていなかった。
色の褪せた案内板、軒先に風鈴を吊るした土産物店、日差しを避けるように庇の下へ並べられた自転車。
賑やかな呼び込みも、大勢の観光客もいない。
3年前、昼食を求めて歩き回った道が目の前に伸びている。
「今日はお腹すいてない」
美帆が笑う。
「成長したな、俺たち」
「サンドイッチを買ったのは私だけどね」
「荷物持ってるから半分は貢献してる」
「そういう計算する?」
軽口を交わしながら、2人は去年と同じホテルへ向かった。
海沿いに建つホテルは、白い外壁の一部が少し色褪せていた。
それでも玄関前の鉢植えは手入れされ、ガラス扉も陽を受けて綺麗に光っている。
荷物だけを先に預けようと中へ入ったが、海側の部屋はすでに用意できていた。
部屋へ上がり、直人がカーテンを開ける。
窓いっぱいに海が現れた。
「やっぱり、ここにしてよかった」
美帆が隣へ並ぶ。窓ガラスに、2人の姿が薄く重なっていた。
「明日の朝は7時半ね」
「まだ覚えてたのか」
「当然。約束したから」
「俺は約束した覚えないけど」
「交渉の結果です」
「一方的な決定だっただろ」
美帆は聞こえないふりをして窓を少し開けた。
途端に潮騒が部屋へ入り、薄いカーテンが風に膨らむ。
直人も窓辺に立った。
見慣れているはずの海なのに、ここから眺めると、また戻ってきたという実感が湧いた。
少し休んだあと、2人は海沿いのカフェへ向かった。
まだ夕方には早い。
第2話で話したとおり、窓際の席が埋まる前に着くためだった。
海に沿って続く道には、古い商店と小さな宿が点々と並んでいる。
道路の反対側では、防波堤の向こうで波が白く砕けていた。
「この店、去年もあったっけ?」
美帆が、小さな雑貨店の前で足を緩める。
「あったと思う」
「本当に?」
「たぶん」
「その答え、信用できない」
店頭には貝殻を使った飾りや、海の色を映したようなガラスの小物が並んでいる。
美帆は青いガラスの小瓶を手に取ったが、少し眺めてから元の場所へ戻した。
「買わないの?」
「帰りにまだ欲しかったら買う」
「忘れそう」
「私が?」
「俺が」
「直人は覚えなくていいの」
そう言いながら、美帆は直人の腕へ自分の腕を絡めた。
歩きにくいからと離れることもできたが、直人はキャリーケースのない方の手で、美帆の指先へ軽く触れた。
路地へ入ると、古い商店の間から青い屋根が見えた。
「あった」
美帆の声が明るくなる。
白い壁も、小さな木製の看板も、初めて見つけた日とほとんど変わっていない。
扉を開ける前から、窓越しに海が見えた。
店内には数組の客がいたが、窓際の端の席が空いていた。
「よかった」
美帆は急ぎすぎない程度に歩幅を速める。
「ほかの客、急かす必要なかったな」
「だから、去年も急かしてないって」
向かい合って座ると、窓の外には午後の海が広がっていた。
まだ強い青を残しながら、水面のところどころに夕方の光が混じり始めている。
直人はアイスコーヒー、美帆はアイスティーを注文した。
最初の夏と同じ組み合わせだった。
「狙った?」
「何を?」
「最初に来たときも、それ飲んでた」
「いつも頼んでるからだろ。美帆だって同じじゃん」
「私は覚えてて頼んだの」
「そうなの?」
「今、決めた」
「適当だな」
美帆が笑い、グラスの中の氷をストローで回した。
その仕草まで、第1話の駅前のカフェと変わらない。
けれど3年前、ここで向かい合った2人は、相手の好みを知るたびに小さく驚いていた。
今は注文するものも、嫌いな食べ物も、眠くなると美帆の口数が少し減ることも知っている。
「何見てるの?」
「いや。美帆、変わってないなと思って」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる。たぶん」
「最後の一言が余計」
美帆は窓の外へ顔を向けた。
その横顔に、淡い橙色が差し始めている。
「でも、変わったこともあるよ」
「例えば?」
「直人の前で寝ても、写真を撮られるくらいで済むって分かった」
「寝てたって認めるんだ」
「今のは例えです」
「もう遅い。録音しておけばよかった」
「してないよね?」
美帆が本気で確かめるように身を乗り出し、直人は笑った。
やがて会話が途切れた。
気まずさはない。
波音の代わりに小さな音楽が流れ、グラスの氷が時折軽い音を立てている。
窓の外で、海がゆっくりと色を変えていく。
青から、金色へ。
やがて夕陽の道が水面をまっすぐに伸びてきた。
「綺麗」
美帆が呟く。
直人は海ではなく、その光を見つめる美帆を見ていた。
3年前にも、去年にも、きっと同じような瞬間があった。
けれど同じ景色は二度とない。
そのことを考えたのは、今年が初めてだった。
「何?」
視線に気づいた美帆が振り向く。
「別に。寝ないのかなと思って」
「寝ません。今日は絶対に」
「残念」
「どうして?」
「写真、増やそうと思ったのに」
「また撮るつもりだったの?」
美帆が笑いながら、テーブル越しに直人の手を軽く叩いた。
その手を直人が捕まえると、美帆は一度だけ指先を動かし、そのまま力を抜いた。
夕陽が海へ近づくまで、2人は手を重ねたまま窓の外を眺めていた。
「夕食のあと、浜辺を歩こうよ」
店を出る前、美帆が言った。
「暗くなってから?」
「うん。今年も、夜の海を見たい」
「分かった」
直人が答えると、美帆は嬉しそうに笑った。
窓の向こうでは、沈みかけた夕陽が海を赤く染めている。
その先に訪れる夜を、直人はまだ、いつもの夏の続きだと思っていた。




