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来年も、その先も  作者: ムネディ


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3/13

第3話 変わらない海

 8月最後の金曜日、直人が待ち合わせの駅へ着いたのは、約束の25分前だった。

 改札近くの柱にもたれ、スマートフォンで乗る電車を確かめる。

 ホームへ向かうにはまだ早い。

 そう思って顔を上げたとき、人の流れの向こうから美帆が歩いてきた。

 白い半袖のブラウスに薄いベージュのパンツ。

 肩から小さなバッグを掛け、もう片方の手でキャリーケースを引いている。

「おはよう」

「……早いな」

「その反応、失礼じゃない?」

「待ち合わせまで、まだ20分以上あるぞ」

「旅行の日は遅れませんって言ったでしょ」

 美帆は得意そうにスマートフォンの時計を見せた。

「疑ってた?」

「少し」

「正直すぎる」

「約3年の経験則だから」

「それ、いつまで使うつもり?」

 口では呆れながら、美帆は笑っていた。

 直人がキャリーケースの持ち手へ手を伸ばすと、美帆は素直に離した。

 付き合い始めた頃なら「大丈夫」と一度は遠慮していただろう。

 今は礼を言うより先に、自分のバッグから小さな紙袋を取り出している。

「朝ご飯は?」

「食べてきた」

「じゃあ、これは電車でね」

「何?」

「お昼。ちゃんと買ってきました」

「一緒に選ぶって話じゃなかったか?」

「直人が先に着くと思ったから、少し早く来て選ぼうと思ってたの。でも、いいサンドイッチがあったから買っちゃった」

「旅行の日だけ別人だな」

「褒め言葉として受け取ります」

 2人は並んでホームへ向かった。

 電車が街を離れてしばらくすると、窓の外から高い建物が減り、低い屋根と緑が増えていった。

 向かい合わせの座席で、美帆は窓際に座っている。

 膝の上には、先ほどの紙袋。

 中には2種類のサンドイッチが入っていて、最初から半分ずつ食べるつもりだったらしい。

「去年、何時くらいに海が見えたっけ」

「もう少し先じゃない?」

「最初の年は急に見えて、びっくりしたよね」

「美帆が騒ぐから、周りの人に見られた」

「直人だって席立って見に来たじゃん」

「何度も呼ぶからだろ」

「今年は呼ばなくていいの?」

「見えたら教えて」

「結局、呼ぶんじゃん」

 美帆が窓へ視線を戻す。

 直人はその横顔を見てから、座席へ深く腰を預けた。

 同じ電車ではない。

 座る場所も、窓の外を流れる雲の形も違う。

 それでも、この海へ向かう時間には毎年似た空気があった。

 最初の年は、何を話していても少し緊張していた。

 沈黙が訪れるたびに、次の話題を探した。

 去年は会話が途切れても気にならなくなり、美帆は途中で直人の肩に頭を預けて眠っていた。

 今年は、向かいに座った美帆がサンドイッチの包みを開きながら、どちらを先に食べるか真剣に悩んでいる。

「こっち、卵。もう1つはチキン」

「半分ずつだろ?」

「そうだけど、最初の一口は大事だから」

「どっちから食べても最後は同じだと思うけど」

「そういうことじゃないの」

 結局、美帆は卵の方を先に選んだ。直人も同じものを受け取り、一口かじる。

「おいしい?」

「うん」

「よかった」

 自分が作ったわけでもないのに、美帆は満足そうに笑った。

 その顔を見ながら食べる味まで、もう旅行の記憶になるのだろう。

 直人はふとそう思った。

「見えた」

 美帆が声を落として言った。

 窓の向こう、家並みの切れ間に青い帯が現れる。

 次の瞬間には視界が開け、陽光を細かく反射する海が広がった。

 美帆は何も言わずに直人を見る。

「今年は騒がないんだな」

「大人になったので」

「さっきサンドイッチの順番で悩んでた人が?」

「それとこれは別です」

 そう返した美帆の目は、最初の夏と変わらないほど嬉しそうだった。

 小さな駅へ降りると、潮を含んだ風が頬を撫でた。

 日差しは街にいたときと変わらず強いはずなのに、吹き抜ける風にはわずかな涼しさがある。

 ホームの端からも、屋根の向こうに海が見えた。

「着いた」

 美帆がゆっくり息を吸う。

「海の匂いするね」

「駅まで来るんだな」

「去年も同じこと言ってたよ」

「そうだっけ」

「言ってた。私が『当たり前でしょ、近いんだから』って答えた」

「そこまで覚えてるの?」

「直人が覚えてなさすぎるの」

 *

 改札を出ると、駅前の景色はほとんど変わっていなかった。

 色の褪せた案内板、軒先に風鈴を吊るした土産物店、日差しを避けるように庇の下へ並べられた自転車。

 賑やかな呼び込みも、大勢の観光客もいない。

 3年前、昼食を求めて歩き回った道が目の前に伸びている。

「今日はお腹すいてない」

 美帆が笑う。

「成長したな、俺たち」

「サンドイッチを買ったのは私だけどね」

「荷物持ってるから半分は貢献してる」

「そういう計算する?」

 軽口を交わしながら、2人は去年と同じホテルへ向かった。

 海沿いに建つホテルは、白い外壁の一部が少し色褪せていた。

 それでも玄関前の鉢植えは手入れされ、ガラス扉も陽を受けて綺麗に光っている。

 荷物だけを先に預けようと中へ入ったが、海側の部屋はすでに用意できていた。

 部屋へ上がり、直人がカーテンを開ける。

 窓いっぱいに海が現れた。

「やっぱり、ここにしてよかった」

 美帆が隣へ並ぶ。窓ガラスに、2人の姿が薄く重なっていた。

「明日の朝は7時半ね」

「まだ覚えてたのか」

「当然。約束したから」

「俺は約束した覚えないけど」

「交渉の結果です」

「一方的な決定だっただろ」

 美帆は聞こえないふりをして窓を少し開けた。

 途端に潮騒が部屋へ入り、薄いカーテンが風に膨らむ。

 直人も窓辺に立った。

 見慣れているはずの海なのに、ここから眺めると、また戻ってきたという実感が湧いた。

 少し休んだあと、2人は海沿いのカフェへ向かった。

 まだ夕方には早い。

 第2話で話したとおり、窓際の席が埋まる前に着くためだった。

 海に沿って続く道には、古い商店と小さな宿が点々と並んでいる。

 道路の反対側では、防波堤の向こうで波が白く砕けていた。

「この店、去年もあったっけ?」

 美帆が、小さな雑貨店の前で足を緩める。

「あったと思う」

「本当に?」

「たぶん」

「その答え、信用できない」

 店頭には貝殻を使った飾りや、海の色を映したようなガラスの小物が並んでいる。

 美帆は青いガラスの小瓶を手に取ったが、少し眺めてから元の場所へ戻した。

「買わないの?」

「帰りにまだ欲しかったら買う」

「忘れそう」

「私が?」

「俺が」

「直人は覚えなくていいの」

 そう言いながら、美帆は直人の腕へ自分の腕を絡めた。

 歩きにくいからと離れることもできたが、直人はキャリーケースのない方の手で、美帆の指先へ軽く触れた。

 路地へ入ると、古い商店の間から青い屋根が見えた。

「あった」

 美帆の声が明るくなる。

 白い壁も、小さな木製の看板も、初めて見つけた日とほとんど変わっていない。

 扉を開ける前から、窓越しに海が見えた。

 店内には数組の客がいたが、窓際の端の席が空いていた。

「よかった」

 美帆は急ぎすぎない程度に歩幅を速める。

「ほかの客、急かす必要なかったな」

「だから、去年も急かしてないって」

 向かい合って座ると、窓の外には午後の海が広がっていた。

 まだ強い青を残しながら、水面のところどころに夕方の光が混じり始めている。

 直人はアイスコーヒー、美帆はアイスティーを注文した。

 最初の夏と同じ組み合わせだった。

「狙った?」

「何を?」

「最初に来たときも、それ飲んでた」

「いつも頼んでるからだろ。美帆だって同じじゃん」

「私は覚えてて頼んだの」

「そうなの?」

「今、決めた」

「適当だな」

 美帆が笑い、グラスの中の氷をストローで回した。

 その仕草まで、第1話の駅前のカフェと変わらない。

 けれど3年前、ここで向かい合った2人は、相手の好みを知るたびに小さく驚いていた。

 今は注文するものも、嫌いな食べ物も、眠くなると美帆の口数が少し減ることも知っている。

「何見てるの?」

「いや。美帆、変わってないなと思って」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる。たぶん」

「最後の一言が余計」

 美帆は窓の外へ顔を向けた。

 その横顔に、淡い橙色が差し始めている。

「でも、変わったこともあるよ」

「例えば?」

「直人の前で寝ても、写真を撮られるくらいで済むって分かった」

「寝てたって認めるんだ」

「今のは例えです」

「もう遅い。録音しておけばよかった」

「してないよね?」

 美帆が本気で確かめるように身を乗り出し、直人は笑った。

 やがて会話が途切れた。

 気まずさはない。

 波音の代わりに小さな音楽が流れ、グラスの氷が時折軽い音を立てている。

 窓の外で、海がゆっくりと色を変えていく。

 青から、金色へ。

 やがて夕陽の道が水面をまっすぐに伸びてきた。

「綺麗」

 美帆が呟く。

 直人は海ではなく、その光を見つめる美帆を見ていた。

 3年前にも、去年にも、きっと同じような瞬間があった。

 けれど同じ景色は二度とない。

 そのことを考えたのは、今年が初めてだった。

「何?」

 視線に気づいた美帆が振り向く。

「別に。寝ないのかなと思って」

「寝ません。今日は絶対に」

「残念」

「どうして?」

「写真、増やそうと思ったのに」

「また撮るつもりだったの?」

 美帆が笑いながら、テーブル越しに直人の手を軽く叩いた。

 その手を直人が捕まえると、美帆は一度だけ指先を動かし、そのまま力を抜いた。

 夕陽が海へ近づくまで、2人は手を重ねたまま窓の外を眺めていた。

「夕食のあと、浜辺を歩こうよ」

 店を出る前、美帆が言った。

「暗くなってから?」

「うん。今年も、夜の海を見たい」

「分かった」

 直人が答えると、美帆は嬉しそうに笑った。

 窓の向こうでは、沈みかけた夕陽が海を赤く染めている。

 その先に訪れる夜を、直人はまだ、いつもの夏の続きだと思っていた。

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