第2話 旅の支度
月曜日の昼休み、直人はスマートフォンのカレンダーに並んだ3日間をもう一度確かめた。
8月最後の金曜日から日曜日まで。
休みの予定を確認し、問題がないと分かったのは午前中だった。
美帆にはすぐ知らせようと思ったのに、短い連絡を送るだけの時間がなかなか取れず、気づけば昼に
なっていた。
『休み、取れそう。金曜から2泊で行ける』
送信してスマートフォンを伏せる。ところが、昼食に手をつけるより先に震えた。
『えらい。本当に忘れなかったんだ』
『約束したからな』
『昨日の夜、念押ししようか迷った』
『信用なさすぎない?』
『3年の経験則です』
第1話で自分が使った言葉をそのまま返され、直人は苦笑した。
『宿、去年と同じところでいい?』
『空いてたら。私もあとで見てみる』
『じゃあ今日の夜、電話する』
『了解。今度こそちゃんと計画立てようね』
最後の1文には、笑っている顔の絵文字が添えられていた。
今度こそ、という言葉に心当たりはある。
去年は行く日だけを先に決め、宿を取ったことで安心してしまった。
初日の昼食も、帰りの電車も、その場で考えればいいと言った直人に、美帆は「旅行は出発する前から始まってるの」と呆れていた。
それでも、現地では誰より楽しんでいたのだから、結果としては悪くなかったはずだ。
そう思う一方で、美帆が旅行サイトを見比べていた横で、自分はほとんど任せきりだったことも覚えている。
今夜は先に調べておこう。
そう決めた直後、再びメッセージが届いた。
『あのカフェ、今年も営業してるみたい』
続けて送られてきたのは、店の公式ページの画面だった。
青い屋根と白い壁。
その向こうに、夏の光を弾く海が写っている。
直人は自然と目を細めた。
『相変わらず調べるの早いな』
『楽しみにしてるので』
第1話の帰り際にも届いた言葉だった。
今度は返事に迷わなかった。
『俺も楽しみ』
*
その夜、約束どおり美帆から電話がかかってきたのは21時を少し過ぎた頃だった。
「お疲れさま。今、大丈夫?」
「大丈夫。宿も見てる」
「珍しい。明日は雨かな」
「俺が調べただけで天気変わるのかよ」
「だって去年、予約したのほとんど私だったじゃん」
「反省したんだよ。多少」
「また多少なんだ」
美帆が笑う。カフェで交わした会話を覚えていたらしい。
直人はタブレットに表示した宿泊予約の画面を眺めた。
去年泊まった小さなホテルには、海側の部屋が1室だけ残っている。
駅から少し歩くが、窓を開けると潮騒が聞こえ、朝は水平線まで見渡せた。
「去年と同じホテル、まだ空いてる。海側の部屋」
「本当? そこがいい」
「即決だな。他も見なくていいの?」
「去年よかったし、場所も分かってるから。直人も気に入ってたでしょ」
「まあな。朝、美帆にカーテン開けられて起こされたこと以外は」
「海まで来て昼近くまで寝ようとする人が悪いの。朝の海、すごく綺麗だったのに」
「ちゃんと見たよ。目が半分しか開いてなかっただけで」
「今年も起こすからね」
「せめて8時にして」
「7時半」
「交渉になってない」
言いながら、直人はその部屋を選択した。
宿泊者名や連絡先を入力し、確認画面まで進む。
「予約するぞ」
「うん、お願い」
クリックすると、間を置かずに予約完了の表示が出た。
「取れた。金曜から2泊」
「よかった。これで今年も行けるね」
電話越しの声が、わずかに弾んだ。
ただ同じ場所へ旅行する。
それだけなのに、美帆は心から喜んでいる。
直人まで嬉しくなり、画面に表示された日付をしばらく眺めた。
「あとは電車か。去年と同じくらいの時間でいい?」
「うん。でも今年は駅でお昼を買わない?」
「向こうに着いてから食べればいいだろ」
「覚えてないの? 最初に行ったとき、駅前のお店がほとんどお昼休みだったじゃん」
言われて、3年前の光景がよみがえった。
交際を始めてまだ数か月だった、最初の夏。
2人とも海へ行きたいという話だけで盛り上がり、詳しい予定を立てないまま電車に乗った。
窓の外に海が見えた瞬間、美帆は子どものように身を乗り出し、反対側に座る直人へ何度も手招きした。
町の小さな駅へ着いたのは、正午を少し過ぎた頃だった。
昼食を取ろうと駅前を歩いたものの、目当てにした店は定休日。
次に見つけた食堂は準備中で、その先の店には臨時休業の札が掛かっていた。
「直人、ちゃんと調べたって言ってなかった?」
「電車の時間と海までの道は調べた」
「ご飯は?」
「店くらいあると思うだろ」
「私もそう思ってたから強く言えないけど、お腹すいた」
少し前を歩く美帆の声は拗ねていたが、本気で怒ってはいなかった。
直人が謝ろうとしたとき、彼女は路地の先を指さした。
「あそこ、何かある」
古い商店の間から、青い屋根が覗いていた。
近づいてみると、白い壁に小さな木製の看板が掛かっている。
店名と営業時間だけが手書きされ、開いた窓からコーヒーの香りが流れてきた。
「カフェみたいだな」
「ご飯あるかな」
「なかったらケーキでも食べる?」
「お昼にケーキだけ?」
「美帆なら喜ぶかと思って」
「それは食後ならね」
店へ入ると、窓の向こういっぱいに海が広がっていた。
大きな観光施設も、派手な看板もない。
ただ陽光を受けた水面と、ゆっくり流れる雲が見えた。
窓際の席へ案内された美帆は、空腹を忘れたように立ち止まった。
「すごい。海しか見えない」
「それ、褒めてる?」
「褒めてるよ。こういうところ、好き」
幸い、店にはサンドイッチとパスタがあった。
2人で別々のものを頼み、半分ずつ交換した。
付き合い始めたばかりで、まだ相手の好みを探っていた頃だ。
美帆がトマトを避けたことも、直人がコーヒーに砂糖を入れないことも、その日初めて知った。
食事を終えてもすぐには店を出なかった。
アイスティーの氷が小さくなるまで話し続け、気づけば海は午後の淡い色に変わっていた。
「来年も来たいね」
窓の外を見たまま、美帆が言った。
まだ次の季節の約束さえ少し照れくさかった頃だ。
直人は海を見るふりをしながら答えた。
「じゃあ、来年はちゃんと昼の店も調べる」
「そこ?」
「大事だろ」
「大事だけど。じゃあ約束ね」
美帆が差し出した小指に、直人は笑いながら自分の小指を絡めた。
「直人、聞いてる?」
電話の声に引き戻される。
「聞いてる。最初の年の話だろ」
「そう。私たち、あのときから計画性ないよね」
「それであの店を見つけたんだから、悪いことばかりじゃない」
「うん。偶然だったけど、見つけられてよかった」
美帆の声が穏やかになる。
あの日、軽い気持ちで交わした「来年も」は実現した。
そして今年もまた、同じ町へ向かおうとしている。
「じゃあ、お昼は買っていこう。美帆が忘れなければ」
「どうして私任せなの?」
「旅行は出発する前から始まってるんだろ」
「そうだけど、都合よく使わないでよ。直人も一緒に選ぶの」
「分かった。少し早めに待ち合わせるか」
「直人、どうせ早く着くもんね」
「美帆が時間どおり来ればな」
「旅行の日は遅れません」
「信用していい?」
「約3年の経験を思い出してから判断してください」
「だめそうだな」
2人の笑い声が重なった。
そのあとも、乗る電車や持っていくものを話した。
美帆は浜辺を歩くためのサンダルを買ったと言い、直人は第1話で一緒に探した淡い色の一足を思い浮かべた。
天気が悪かった場合の過ごし方まで考え始めたところで、美帆が小さくあくびをした。
「そうだ。夕方は早めにカフェへ行こうよ」
「去年みたいに、日が沈むまでいるの?」
「だめ?」
「いいけど、窓際が空いてるとは限らないぞ」
「だから早めに行くの。最初の年はたまたま座れたけど、去年は少し待ったでしょ」
「そうだったな。美帆が店の前を何度も覗くから、帰るお客さんが気まずそうにしてた」
「急かしてないよ。空いたかなって確認してただけ」
「それを急かしてるって言うんじゃないのか」
「声には出してません」
妙に堂々とした返事に、直人は声を上げて笑った。
美帆が見たがっているのは、夕陽で海がオレンジ色に変わる瞬間だ。
第1話で彼女自身が思い出していたように、去年はその景色を待ちながら、暖かな窓辺でうとうとしていた。
眠っていたことを認めないところまで含めて、直人には楽しい思い出だった。
「じゃあ、今年は早めに行こう。窓際が空くまで待ってもいい」
「うん。晴れるといいね」
「まだ2週間以上あるのに、天気は分からないだろ」
「今から願うくらいいいでしょ」
美帆の声を聞きながら、直人は予約画面の隅にある海の写真を見た。
当日の空が晴れでも曇りでも、2人で行けばきっと楽しめる。
そう考えられること自体が、3年を一緒に過ごした証のように思えた。
「もう寝る?」
「うん。でも、旅行の話してたら目が冴えそう」
「どっちだよ」
「楽しみってこと。直人は?」
「俺も。あのカフェ、今年は美帆が寝る前に写真撮るよ」
「だから寝てないって。今度撮ったら消させるからね」
「じゃあ起きてろよ」
「分かりました。おやすみ」
「おやすみ」
通話が切れ、部屋が急に静かになった。
直人は予約確認の画面へ目を戻した。
去年と同じホテル。
初めての夏に見つけたカフェ。
毎年歩いた海沿いの道。
同じ場所へ行けば、同じように楽しい時間を過ごせる。
美帆も隣で笑っている。直人は疑うことなく、そう思っていた。
けれど、3年前の自分が照れながら口にした「来年」は、今よりずっと特別な言葉だった気がする。
約束が実現することを、まだ当たり前だとは思っていなかったからだ。
直人はカレンダーの3日間に「海」と予定を入れた。
入力したのは、たった1文字だった。
そこには、美帆と重ねてきた3度の夏が詰まっている。
そして月末には、また新しい思い出が加わる。
その先のことまでは、まだ予定に書かなかった。




