第1話 いつもの週末
土曜日の午後、直人は駅前のカフェでアイスコーヒーを飲みながら、スマートフォンの時計を見た。
14時07分。
待ち合わせは14時だった。
遅刻というほどではない。少なくとも、彼女にとっては。
窓の外へ目を向けると、夏の日差しに照らされた駅前を大勢の人が行き交っている。8月に入ったばかりだというのに、今年はもう何日も猛暑日が続いていた。
*
テーブルの上でスマートフォンが震える。
『ごめん、あと5分!』
直人は思わず笑った。
『了解。たぶんあと10分だと思って待ってる』
すぐに既読がつく。
『失礼な』
『付き合って3年の経験則』
『覚えてなさい』
そこで返信が途切れた。
本当に急いでいるらしい。
「そこは否定しないんだな」
独り言をこぼし、直人はコーヒーを一口飲んだ。
*
美帆と付き合い始めて、もうすぐ3年になる。
大学時代からの知り合いではない。職場が一緒だったわけでもない。
共通の友人の結婚式で偶然同じテーブルになった。
最初に話した内容さえ、大したものではなかった。
『新郎とはどちらのお知り合いですか?』
『大学の同級生です。そちらは?』
『新婦の会社の同期です』
そんな会話から始まった。
披露宴が終わる頃には、なぜか好きな映画の話で盛り上がり、友人たちに混じって2次会へ行き、帰り際に連絡先を交換した。
それから半年ほど友人として会い、交際するようになった。
劇的な始まりではなかったと思う。
けれど直人は、それが気に入っていた。
「お待たせ!」
声と同時に、冷たい空気が動いた。
美帆が店へ入ってくる。
白いシャツに淡いブルーのロングスカート。肩まで伸びた髪を後ろでひとつにまとめ、少しだけ息を切らしている。
「7分。意外と早かった」
「何、その上から目線」
「褒めてる」
「絶対違う」
美帆は向かいの席へ座ると、メニューを手にした。
「暑い。もう外歩きたくない」
「じゃあ今日はここで終わり?」
「それは嫌」
「わがままだな」
「せっかく会ったのに、コーヒー飲んで解散なんてもったいないでしょ」
メニューを見ながら美帆が答える。
そういうところが好きなのだと思う。
会うことを特別扱いするわけではないのに、一緒にいる時間を当たり前にも扱わない。
美帆はアイスティーを注文すると、ようやく直人を見る。
「で、今日はどうする?」
「決めてない」
「え?」
「美帆が買い物したいって言うから、付き合うつもりだったけど」
「それだけ?」
「それだけ」
「デートプランとかないの?」
「付き合って3年で毎回完璧なデートプラン求められても困る」
「最初の頃は調べてくれたのに」
「最初の頃は、美帆も待ち合わせに遅れなかった」
「……人は変わるものです」
「便利な言葉だな」
顔を見合わせ、2人で笑った。
こんな会話を何度繰り返しただろう。
付き合い始めた頃は、美帆に会う前の日になると服を選んでいた。
待ち合わせの30分前には着いていたし、行く店もいくつか調べていた。
今は7分の遅刻を笑い、美帆も直人の前なら少しくらい髪が乱れていても気にしない。
距離が近くなったのだと思う。
良い意味でも。
たぶん、少しだけ悪い意味でも。
「そういえばさ」
アイスティーが運ばれてくると、美帆がストローを回しながら言った。
「今年、海どうする?」
「海?」
「忘れたの?」
「忘れてないよ」
「絶対忘れてた顔してる」
「今思い出した」
「それを忘れてたって言うんです」
直人は苦笑した。
美帆が言っている場所は分かっている。
付き合い始めた年の夏、2人で訪れた海辺の町。
電車で2時間ほど。
観光地というほど賑やかではなく、海沿いに古い商店や小さなホテルが並んでいる。
偶然見つけた海の見えるカフェが気に入り、その翌年も訪れた。
去年は2泊した。
「今年も行くつもりだったの?」
「つもりっていうか、行きたいなと思ってた」
「じゃあ行こうか」
「簡単に言うけど、休み取れる?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困ります」
「月曜に確認するよ」
美帆は少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ、またあのお店行こうよ」
「海沿いのカフェ?」
「そう。夕方になると窓から海が全部オレンジになるところ」
「美帆、去年そこで寝てたけどな」
「寝てない。ちょっと目閉じてただけ」
「20分くらい」
「直人が写真撮ってたの知ってるからね」
「証拠写真」
「最低」
美帆は笑いながらストローの袋を丸め、直人の方へ投げた。
直人はそれを指でつまむ。
「そういえば、写真まだあるよ」
「消して」
「嫌だ」
「なんで?」
「結構かわいいから」
一瞬、美帆の動きが止まった。
「……そういうの、急に言うのやめて」
「何で?」
「慣れてないから」
「3年付き合ってるのに?」
「最近あんまり言わないじゃん」
直人は言葉に詰まった。
確かにそうだった。
付き合い始めた頃なら、もっと素直に言っていた気がする。
かわいいとか。
会いたかったとか。
好きだとか。
言わなくても分かる。
いつからか、そんなふうに考えるようになっていた。
「何、その顔」
「いや……反省してる」
「本当に?」
「多少」
「多少か」
美帆は呆れたように笑った。
その笑顔に救われた気がした。
カフェを出た2人は、駅直結のショッピングモールへ向かった。
美帆が欲しがっていたサンダルを探し、雑貨店を覗き、直人が本屋へ入りたがると美帆も付いてきた。
特別なことは何もない。
それでも直人は、こんな休日が嫌いではなかった。
むしろ好きだった。
夕方、買い物を終えて駅へ戻る途中、美帆が足を止めた。
ショッピングモールのイベントスペースで、ウエディングフェアが開かれていた。
白いドレスが飾られ、その隣には海辺のチャペルの大きな写真がある。
「綺麗」
美帆が呟いた。
「海の近くなんだ」
「みたいだな」
「こういうところで結婚式する人も多いのかな」
「最近多いんじゃない?」
「ふうん」
美帆は少しだけ写真を眺め、それから歩き出した。
直人も隣へ並ぶ。
たったそれだけのことだった。
けれど、不思議と会話が途切れた。
*
付き合って3年。
直人は29歳。
美帆は28歳。
友人から結婚の報告を聞くことも増えた。
先月も大学時代の友人が結婚した。
来月には、美帆の友人の結婚式があるらしい。
だから美帆が結婚を意識していても不思議ではない。
自分だって考えたことがないわけではなかった。
ただ――具体的に考えようとすると、どこかで足が止まる。
仕事。
収入。
住む場所。
子ども。
両親。
結婚という言葉の向こう側には、急に現実が増える。
「直人?」
「ん?」
「どうしたの?」
「何が?」
「急に黙ったから」
「ちょっと仕事のこと考えてた」
嘘ではない。
でも、本当でもなかった。
「休日まで仕事考えなくていいのに」
「そうだな」
「せっかく一緒にいるんだから」
美帆はそう言って、直人の腕へ軽く自分の腕を当てた。
「ほら、行くよ」
「ああ」
直人は歩き出す。
駅へ向かう人の流れの中、美帆が隣にいる。
それはもう、あまりに自然なことになっていた。
この先も。
来年も。
再来年も。
変わらず隣にいる。
そんな未来を、直人はどこかで当然のように考えていた。
駅の改札前で、美帆がスマートフォンを取り出した。
「海、8月最後の週はどう?」
「土日?」
「できれば金曜から休んで2泊したい」
「俺の休み次第だな」
「月曜に確認ね。忘れないでよ」
「分かってる」
「本当に?」
「忘れたら美帆が連絡してくるだろ」
「そういう問題じゃないの」
少しだけ不満そうな顔をする。
直人は笑った。
「ちゃんと確認するよ」
「約束ね」
「ああ」
美帆が改札へ向かい、数歩進んだところで振り返った。
「直人」
「何?」
「今年も一緒に見ようね」
「何を?」
「海」
美帆はそれだけ言って笑った。
「じゃあ、またね」
「また」
人混みの向こうへ消えていく背中を、直人はしばらく見送った。
今年も一緒に。
たったそれだけの約束なのに、その言葉が妙に胸に残る。
去年も海を見た。
その前の年も。
たぶん今年も行く。
来年だって――。
そこまで考えたところで、直人は自分の思考を止めた。
来年。
その先。
美帆とどんな関係でいるのだろう。
恋人のままなのか。
それとも。
答えは簡単なはずなのに、なぜか言葉にならなかった。
直人はスマートフォンを取り出す。
『月曜、ちゃんと休み確認します』
送信すると、すぐに返信が届いた。
『よろしい』
続けてもう1通。
『楽しみにしてる』
その短い言葉を見て、直人は少し笑った。
『俺も』
そう返してからスマートフォンをしまう。
今年の夏も、あの海へ行く。
そのとき自分が何を考えるのか、まだ直人には分からなかった。
ただ、美帆と一緒に見る海を楽しみにしている。
今はそれだけで十分だと思った。
駅の外では、夏の夕陽が街を赤く染め始めていた。
2人にとって3度目の夏が、ゆっくりと動き始めていた。




