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来年も、その先も  作者: ムネディ


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10/13

第10話 もう一度、あの海へ

 7月最後の日曜日、直人は美帆の部屋で、生成りのカーテン越しに差し込む光を眺めていた。

 最初にこの部屋を訪れてから、半年が過ぎている。

 窓際には小さな観葉植物が増え、机の横には直人が来たときのためのクッションが置かれていた。

 結局、椅子は1つのままだったが、床に並んで座ることにも慣れていた。

「アイスコーヒーでいい?」

 台所から美帆が尋ねる。

「うん。砂糖なしで」

「知ってます」

「一応」

「何年一緒にいると思ってるの?」

 冷蔵庫を閉める音のあと、美帆が2つのグラスを持って戻ってきた。

 直人にはアイスコーヒー、自分にはアイスティー。

 海辺のカフェで最初に頼んだものと同じ組み合わせだった。

 美帆がこの町へ来てから、2人は月に2度ほど会った。

 直人がこちらへ来る日もあれば、美帆が元の町へ戻る日もある。

 仕事で予定が変わることもあった。

 それでも、空いた日を待たず、先に会いたい日を伝え、難しければ2人で次を探すようになった。

 電話も、以前のように用事がなくてもかけている。

 食べた定食の話。

 帰り道で見かけた犬の話。

 美帆が仕事で初めて任された説明会の話。

 直人が朝、目覚ましを止めたまま寝過ごしかけた話。

 離れて暮らしているからこそ、言わなければ伝わらない毎日がある。

 直人はそれを、面倒だとは思わなくなっていた。

「今日は、もう帰る?」

 美帆が隣へ座りながら聞いた。

「夕方の電車で帰る。明日、仕事だから」

「日曜の3時間は長いね」

「来るときはそんなに感じないけど、帰りは長い」

「どうして?」

「次に会う日まで遠くなるから」

 口にしてから、少し気恥ずかしくなった。

 美帆はグラスを持ったまま直人を見た。

「そういうこと、前より言うようになったね」

「嫌?」

「まさか。聞き慣れてないだけ」

「半年経っても?」

「3年分あるから、半年じゃ足りません」

 美帆は笑ってアイスティーを飲んだ。

 距離が開きかけた秋のことを、2人は忘れていない。

 けれど、何もなかったことにもしなかった。

 直人が確実になるまで待とうとすれば、美帆は「また手帳が空白になるよ」と言った。

 美帆が忙しさを理由に1人で抱え込もうとすれば、直人は自分にも話してほしいと伝えた。

 言葉にして初めて分かることは多かった。

 そのたびに、2人は相手を知り直してきた。

 春先には、美帆が仕事で帰れなくなり、直人の誕生日に会う約束が流れたこともあった。

 以前の直人なら、「仕事なら仕方ない」とだけ答え、美帆が別の日を口にするまで待っていただろう。

 その日は、自分から電話をかけた。

「今週が無理なら、来週の日曜は?」

「直人、休日出勤じゃなかった?」

「土曜に変えてもらった。日曜なら行ける」

「でも、誕生日過ぎちゃうよ」

「美帆と祝う日は、その日でいいだろ」

 電話の向こうで、美帆がしばらく黙った。

「何?」

「ううん。前だったら、会えないまま終わってたかもしれないなって」

「俺もそう思ったから、次を決めた」

「そっか。じゃあ来週、ちゃんとお祝いする」

「ちゃんとって?」

「それは当日まで秘密です」

 *

 翌週、美帆は小さなケーキを用意していた。

 ろうそくは恥ずかしいからいらないと言ったのに、直人が目を離した隙に1本だけ立てられた。

「29本は無理だったから、代表で1本」

「数が合ってないだろ」

「気持ちの問題です」

 そんなやり取りさえ、会えなかった週末の代わりではなく、2人が改めて選んだ時間になった。

 会う回数が急に増えたわけではない。

 距離も3時間のままだった。

 それでも直人は、以前より美帆を近くに感じていた。

 今の関係を保つために予定を埋めているのではない。

 離れていても、互いの日々に関わり続けるために約束をする。

 手帳へ増えた文字を見るたび、直人はその違いを確かめていた。

「そうだ。見せたいものがある」

 直人は鞄から、革のカバーが付いた手帳を取り出した。

「珍しい。いつも予定を決めるときしか出さないのに」

「今は予定を決めるときだから」

 8月のページを開き、美帆の前へ置く。

 第4金曜日から日曜日までの3日間が、青い線で囲まれていた。

「ここ、休み取れた」

「3連休?」

「金曜は有給。美帆は?」

「今のところ大きな予定はないけど、まだ申請してない」

「じゃあ、休めるか確認してほしい」

「どこか行くの?」

 直人は頷いた。

「海、行かない?」

 美帆の指が、手帳の上で止まった。

「あの海?」

「ほかに毎年行ってた海はないだろ」

「今年も、行っていいの?」

 予想していなかった問いに、直人は美帆を見た。

「どうしてそんな聞き方するんだよ」

「去年、直人が『来年もまたここに来よう』って言ったから、覚えてはいたよ。でも、私がこっちへ来てから、その話をしなかったでしょ」

「夏になったら誘うつもりだった」

「本当に?」

「本当。休みも先に確認した」

 直人はスマートフォンを取り出し、保存していた画面を見せた。

 海辺のホテルの空室と、往復の電車の時刻を調べたものだった。

 去年まで泊まっていたホテルには、同じ海側の部屋が空いている。

 美帆の町から現地へ向かう経路と、直人の町から向かう経路も並べてあった。

 途中の駅で合流すれば、そこからは同じ電車に乗れる。

「ここまで調べたの?」

「予約はしてない。美帆の都合を聞かずに決めたら困るだろ」

「去年は私に言われてから休みを確認したのに」

「反省したから」

「多少?」

「今回は、ちゃんと」

 交際3年の記念日にした会話を、美帆も覚えていた。

 笑ったあと、美帆はもう一度画面を見た。

 その表情が少しずつほどけていく。

「途中の駅で待ち合わせるんだね」

「そこなら、美帆も乗り換え1回で来られる」

「直人、先に着いて待ってそう」

「時間が分かってるならな」

「私も旅行の日は遅れません」

「去年と同じこと言ってる」

「去年も早く着いたでしょ」

「25分前に行ったら、もういたから驚いた」

「今年も驚かせようかな」

「宣言したら驚かないだろ」

 美帆は楽しそうに笑い、画面を指で送った。

「ホテルに着く前のお昼は?」

「途中の駅で買う。最初の年みたいに、店が開いてなくて歩き回るのは避けたい」

「ちゃんと覚えてるんだ」

「海のことは、美帆が思ってるより覚えてるよ」

「去年、私が転びそうになった話ばかりしてたけど」

「今年も波に近づきすぎたら止める」

「それはお願いします」

 同じ電車、同じホテル、同じカフェ。画面に並ぶ情報は去年とほとんど変わらない。

 それでも計画を話す美帆の横顔を見ながら、直人は、同じ場所へ戻ることと同じ時間を繰り返すことは違うのだと思った。

「行きたい」

「じゃあ、明日確認して」

「うん。でも、少し意外だった」

「何が?」

「直人から海へ誘ってくれると思ってなかった」

「毎年行ってたのに?」

「毎年、最初に言うのは私だったから」

 去年の夏も、駅前のカフェで美帆が「今年、海どうする?」と聞いた。

 去年もその前も、最初に海の話をしたのは美帆だったのだろう。

 直人は誘われれば喜んで行き、着けば楽しく過ごしていた。

 それでも、自分から次の夏を選んだことはなかった。

「今年は俺が行きたいんだ」

 直人は手帳の3日間へ目を落とした。

「美帆と、もう一度あの海へ行きたい」

 美帆はしばらく何も言わなかった。

 窓の外から、夏の午後を走る車の音が聞こえた。

 生成りのカーテンが、冷房の風にわずかに揺れている。

「分かった。明日、休み取れるか聞いてみる」

「無理だったら、別の週でもいい」

「そこは『絶対休んで』じゃないんだ」

「美帆の仕事も大事だから。2人で行ける日を探せばいい」

 美帆は小さく頷いた。

「直人、本当に変わったね」

「美帆が変えたんじゃない?」

「私は何もしてないよ」

「してる。離れて暮らして、知らない仕事を始めて、俺が止まったままじゃいられないって教えた」

「それは、私が変えたんじゃなくて、直人が変わろうとしたんでしょ」

 美帆の言葉に、直人はすぐには答えなかった。

 以前の自分なら、美帆が隣にいることを守りたいと考えただろう。

 今は違う。

 美帆が新しい場所へ進むなら、その景色を一緒に見たい。

 自分も選び、歩き、2人の関係を先へ進めたい。

 その気持ちは、冬の日に気づいたときより、はっきりしていた。

「海で、話したいことがある」

 美帆の表情が変わった。

「ここでは話せないこと?」

「話せないわけじゃない。でも、あの場所で言いたい」

「去年、言えなかったこと?」

 直人は息を止めた。

 美帆はやはり、あの夜を忘れていなかった。

「たぶん、あのとき言おうとしたことより先の話」

「先?」

「今はまだ、うまく言えない」

 言った瞬間、去年の夜と同じ逃げ方をしているように感じた。

 けれど、あのときとは違う。

 何を伝えたいのか分からないのではない。

 言う場所と、その言葉に伴う覚悟を、自分で選んでいる。

「ごめん。待たせる言い方になった」

「ううん」

 美帆は手帳に引かれた青い線を指でなぞった。

「今度は、聞けるんだよね?」

「聞いてほしい」

 直人が答えると、美帆は静かに笑った。

「じゃあ、休み取らないとね」

 翌日の昼、美帆からメッセージが届いた。

『休み、取れたよ』

 直人はすぐにホテルの予約画面を開いた。

『同じホテルでいい?』

『うん。海側の部屋、まだ空いてる?』

『空いてる。今から予約する』

『お願いします』

 予約を確定すると、画面に3日間の日付が表示された。

 去年と同じ町。同じホテル。同じ海。

 同じ夏を繰り返すために戻るのではない。

 直人は手帳を開き、青い線で囲んだ3日間の中央へ「海」と書いた。

 その下に、もう1つだけ言葉を加える。

「美帆に伝える」

 去年は、予定に海とだけ入力した。

 今年は、その先へ進むための約束を、自分の手で書くことができた。

 窓の外では、強い日差しの下で夏の雲がゆっくりと形を変えていた。

 海へ向かう日まで、あと26日。

 直人はもう、その日が来るのを待つだけではなかった。

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