第11話 同じ海、違う2人
8月の第4金曜日、直人が途中駅の改札へ着いたのは、待ち合わせの20分前だった。
去年までとは違う駅だった。
直人と美帆は別々の町から電車に乗り、ここで合流して海辺の町へ向かう。
構内には旅行鞄を引く人が行き交っていた。
直人は改札の近くでスマートフォンを確認した。
『着いた。改札の中にいる』
美帆から届いたのは、約束の18分前だった。
顔を上げると、人の流れの向こうで美帆が手を振っていた。
白いブラウスに薄いベージュのパンツ。
片手で小さなキャリーケースを引いている。
去年の旅行とよく似た服装だった。
手を振るたび、手首の銀色のブレスレットが光った。
「おはよう」
「今年も早いな」
「旅行の日は遅れません」
「知ってる。だから俺も20分前にした」
「私の方が2分早かったね」
「そこ競うところ?」
「直人が驚かないって言うから」
美帆は笑った。
直人がキャリーケースへ手を伸ばすと、美帆は持ち手から手を離した。
「ありがとう」
「素直だな」
「もう4回目だから、遠慮する時期は終わりました」
「最初の年は、一度断ったよな」
「まだ付き合って数か月だったから。重いと思われたくなかったの」
「荷物が?」
「私が」
直人が足を止めると、美帆は先へ進んでから振り返った。
「今は?」
「直人なら、多少重くても持てるでしょ」
「荷物の話に戻ってない?」
「どっちも」
笑いながら並び、売店で昼食を選んだ。
美帆が卵とチキンのサンドイッチを手に取る。
「去年と同じでいい?」
「最初の一口で悩むやつ?」
「今年はもう決めてる。チキンから」
「1年考えた結果?」
「そんなに暇じゃありません」
直人はコーヒーを2本取ろうとして、片方を棚へ戻した。
代わりに美帆がいつも飲んでいる紅茶を選ぶ。
「ちゃんと覚えてるんだ」
「海のことだけじゃないよ」
何気なく答えると、美帆は少しだけ目を細めた。
ホームへ下り、横並びの席へ座った。
電車が動き出すと、窓の外の建物がゆっくり後ろへ流れていく。
直人は隣に置いたキャリーケースを押さえ、美帆は紙袋からサンドイッチを取り出した。
「はい。半分」
「本当にチキンからなんだ」
「まだ疑ってたの?」
「大事な一口なんだろ」
「覚えなくていいことまで覚えてるよね」
「美帆のことだから」
今度は、美帆がすぐに返さなかった。
窓へ向けた頬が緩んでいる。
去年なら照れを隠しただろう。
今は、美帆に伝わったことをそのまま受け取れた。
「仕事、落ち着いた?」
サンドイッチを食べ終え、美帆が尋ねた。
「今週は少し。休みの前に片づけてきた」
「休日に連絡来ない?」
「急ぎなら来るかもしれないけど、対応する人には引き継いだ。美帆は?」
「私も大丈夫。説明会の担当も、昨日で一区切りついたから」
「うまくいった?」
「前よりは。最初の頃は、質問されるたびに持ち帰ってたけど、今はその場で答えられることが増えた」
「じゃあ、ちゃんと成長して帰ってくるんだな」
「帰る頃には、直人より仕事できるようになってるかも」
「同じ仕事じゃないだろ」
「比べられないから言えるの」
美帆は笑った。
以前なら、その成長を自分から遠ざかるように感じていた。
今は、知らなかった美帆が増えていくことが嬉しい。
その先にいる未来も考えられる。
家並みが途切れ、窓の向こうに青い帯が現れた。
「見えた」
美帆が声を落とす。
2人は同時に窓へ顔を向けた。
夏の日差しを受けた海が、遠くまで広がっている。
「今年は呼ばなくても見たね」
「隣にいるからな」
「去年は向かいだったもんね」
「今年はこっちの方がいい」
「どうして?」
「同じものを同じ向きで見られるから」
美帆の肩が、直人の腕へ触れた。
「私も」
窓ガラスには、海を見つめる2人の姿が並んで映っていた。
小さな駅へ降りると、潮を含んだ風が迎えた。
色の褪せた案内板も、軒先に風鈴を下げた土産物店も変わっていない。
けれど直人は、同じ場所へ戻ったというより、離れていた道がここで1つに重なったように感じた。
「海の匂いするね」
「去年も同じこと言った」
「私が?」
「うん。俺が『駅まで来るんだな』って答えた」
「よく覚えてるね」
「美帆が毎回、俺は覚えてないって言うから」
「悔しかった?」
「多少」
美帆が笑い、直人の腕へ自分の腕を絡めた。
ホテルの白い外壁は、去年より少し色褪せたようにも見えた。
中へ入ると、海側の部屋はすでに用意されていた。
直人がカーテンを開ける。
窓いっぱいに海が広がった。
「やっぱり、ここにしてよかった」
去年、美帆が口にしたのと同じ言葉だった。
「覚えてる?」
「去年も言ってた」
「本当に覚えてるんだ」
「今年は、いろいろ覚えて帰るつもりだから」
その言葉に、美帆の笑みが少しだけ静かになった。
直人がここで話したいことを、意識したのだろう。
「夜?」
美帆が窓の外を見たまま聞いた。
「うん。去年と同じ場所で」
「分かった」
それ以上は尋ねなかった。
荷物をほどきながら、美帆は窓際の小さなテーブルにスマートフォンを置いた。
画面には、去年この部屋から撮った海の写真が表示されている。
「見比べようと思って探してきたの」
「違い、分かる?」
「雲の形と、カーテンの膨らみ方」
「それだけ?」
「あとは、去年はこの写真を撮ったあと、直人がベッドに座ったまま動かなくなった」
「休んでただけ」
「だから今年は、先にカフェへ行きます」
「夕食のあとも歩くんだろ?」
「もちろん。あと、明日の朝は7時半ね」
「今年も?」
「海まで来て昼まで寝るつもり?」
「交渉は?」
「できません」
去年と同じ会話なのに、直人は笑った。
繰り返しているのではない。
去年から続いている時間の上へ、今年の2人が新しい一日を重ねている。
少し休んだあと、2人は海沿いのカフェへ向かった。
海に沿って続く道も、古い商店の並びもほとんど変わっていない。
去年、美帆が手に取って戻した青いガラスの小瓶は、雑貨店の店頭にはなかった。
「やっぱり、買えばよかった」
「後悔してる?」
「少しだけ。でも、あのときは欲しいって決められなかったから」
「別のを探す?」
「ううん。今日はカフェに行きたい」
路地へ入ると、古い商店の間から青い屋根が見えた。
白い壁と小さな木製の看板。扉を開ける前から、窓の向こうには海が広がっている。
店内の窓際は埋まっていたが、美帆は残念そうな顔をしなかった。
「待つ?」
「うん。急がなくていいよ」
壁際の席で飲み物を注文し、窓際が空くのを待った。直人はアイスコーヒー、美帆はアイスティーを選んだ。
「結局、朝から同じもの飲んでる」
「ここでは変えられないでしょ」
「美帆は覚えてて頼んだ?」
「今年は本当に覚えてて頼みました」
やがて窓際の端の席が空き、2人はグラスを持って移った。
海はまだ強い青を残している。波の上に午後の光が散り、遠くの雲がゆっくり流れていた。
去年は向かい合って座った。
今年は、美帆が直人の隣へ座った。
「そっちでいいの?」
「電車でも隣だったから。海も同じ向きで見たい」
美帆はそう言って、直人の肩へ軽く頭を預けた。
窓の外で、海が青から金色へ変わり始める。
「綺麗」
同じ言葉を、直人は何度ここで聞いただろう。
けれど、今年はその声の近さが違っていた。
「最初にこの店へ来たとき、私たち、何話してたっけ」
「お互いの好きな食べ物とか、休みの日に何してるかとか」
「まだ知らないことばっかりだったね」
「美帆がトマトを避けるのも、ここで知った」
「直人はコーヒーに砂糖を入れなかった」
「今は、注文する前から分かる」
「知らないこと、もうないかな」
「あるだろ。半年離れてただけでも、知らない美帆が増えた」
「それ、寂しくない?」
「前は少し。でも、今は聞けばいいと思ってる。美帆にも、俺の知らないことを話してほしい」
美帆は肩を預けたまま頷いた。
「じゃあ、直人も話して。決めてから報告するんじゃなくて、迷ってる途中から」
「分かった」
「本当に?」
「手帳に書くよ」
「何でも手帳に頼らないで」
顔を見合わせて笑った。
この店を好きになったのは、窓から見える海が綺麗だったからだけではない。
まだ知らないことの多かった2人が、ここで相手の日常へ少しずつ入っていったからなのかもしれなかった。
「眠くない?」
「寝ません」
「肩、貸してるけど」
「借りてるだけ。目は開いてます」
「証拠写真、撮れないな」
「今年は2人で撮ろうよ」
美帆はスマートフォンを取り出し、窓の外の海が入るように腕を伸ばした。
直人が少し近づくと、画面の中で2人の肩が重なる。
美帆が撮影ボタンを押し、夕陽を背にした2人の姿が残った。
「直人、緊張してる?」
写真を確認しながら、美帆が聞いた。
「少し」
「話すこと、決めてきた?」
「決めてきた。忘れないように手帳にも書いた」
「手帳、持ってきたの?」
「持ってきた。でも、見ながら話すつもりはないよ」
「それはやめて。仕事の報告みたいになるから」
「分かってる」
美帆は笑ったあと、夕陽へ視線を戻した。
「私も、聞きたいことがある」
「何?」
「それは夜に聞く」
「今は教えないの?」
「直人だけ先に聞くのはずるいでしょ」
穏やかな軽口の奥に、わずかな緊張があった。
それでも、去年のように言葉を避けているわけではない。
2人とも、夜になれば話すと決めている。
夕陽が水平線へ近づき、海の上に長い光の道を作った。
直人は隣にある美帆の手へ、自分の手を重ねた。
美帆も指を動かし、しっかりと握り返す。
同じ町。同じカフェ。同じ海。
けれど、去年の2人はもうここにはいなかった。
夕食を終え、空が暗くなった頃、美帆が部屋の窓辺から振り返った。
「行こうか」
去年と同じ言葉だった。
直人は立ち上がり、手帳の入った鞄を机へ残した。
「うん。行こう」
今夜伝える言葉は、もうそこに書いておく必要はなかった。
2人は手を繋ぎ、月明かりの渚へ向かった。




