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来年も、その先も  作者: ムネディ


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12/13

第12話 来年も、その先も

 ホテルを出ると、海からの風が昼間の熱を少しずつさらっていた。

 直人と美帆は手を繋いだまま、海沿いの道を歩いた。

 古い商店はほとんどシャッターを下ろし、軒先の灯りが等間隔に続いている。

 背後から近づいた車が2人の横を通り過ぎ、足元の影を一瞬だけ長く伸ばした。

「去年も、車が通ったよね」

 美帆が言った。

「覚えてる。美帆が『静かだね』って言ったあと」

「そこまで?」

「今年はいろいろ覚えて帰るって言っただろ」

「今年のことを覚えるんじゃないの?」

「去年のことも」

「欲張りだね」

 美帆は笑ったが、繋いだ指へ少し力を込めた。

 会話が途切れると、波の音が近づいてきた。

 浜辺へ下りる階段の前で、2人は足を止めた。

 夜の海は、去年と同じように広く見えた。

 雲の少ない空に月が浮かび、その光が沖から岸へ細い道を作っている。

 波は白い線となって砂浜へ届き、静かにほどけていった。

「綺麗」

 美帆が呟く。

 直人は何度も聞いたその言葉を胸へ刻んだ。

「月、明るいね」

「去年も明るかった」

「今年は、もっと明るく見える」

「どうして?」

「分からない。たぶん、今日はこの先に何があるのか、ちゃんと見ようとしてるから」

 美帆は直人を見たが、何も言わなかった。

 階段を下り、波打ち際へ向かう。

 砂の上に並んだ2人の足跡が、月明かりの下へ続いていく。

 歩幅が少しずれれば、どちらかが合わせた。

 美帆が波から離れれば、直人も同じ方向へ寄る。

 去年まで意識しなかったことが、今年はよく分かった。

 並んで歩くことは、ただ同じ場所にいることではない。

 違う歩幅を持つ2人が、互いの進む速さを見ながら同じ方角を選び続けることだった。

「この辺だったかな」

 美帆が足を止めた。

 少し先には、砂浜から海へ向かって低い突堤が延びている。

「去年、あの上を歩けそうって言った場所」

「止められたんだよね」

「暗くて危ないから」

「今日も止める?」

「止めるよ」

「ちゃんと?」

「ちゃんと」

 直人が答えると、美帆は穏やかに笑った。

「直人なら、止めてくれると思ってた」

「そう言われたとき、去年は何も答えられなかった」

「覚えてたんだ」

「あの夜のことは、忘れたくても忘れられなかった」

 美帆の笑みが消えた。

 責める表情ではない。

 ただ、去年と同じように直人の続きを待っている。

 胸の鼓動が速くなる。

 何を伝えるかは、海へ来る前から決まっていた。

 それでも、言葉にする瞬間が近づくほど怖くなった。

 言えば、2人の関係は動き始める。

 仕事も、住む場所も、家族のことも、避けてきた現実が2人の問題になる。

 けれど今の直人は、それを言わない理由にはしなかった。

「その前に、私から聞いてもいい?」

 美帆が静かに言った。

「うん」

「去年ここで、直人が『来年も』って言ったとき、その先に何を言おうとしたの?」

 直人は月の道へ目を向けた。

「来年も、その先も、美帆と一緒にいたいって言おうとした」

「どうして言えなかったの?」

「言ったら、今までどおりではいられなくなると思ったから。美帆の人生に関わるなら、仕事も収入も住む場所も、全部決めてからじゃないと無責任だと思ってた」

「今は、全部決まった?」

「決まってない」

 直人は美帆へ向き直った。

「美帆の仕事が終わったあと、どこで暮らすのかも決めてない。俺の仕事をどうするかも、2人の家族へどう話すかも、まだ何も決まってない」

 美帆は黙って聞いていた。

「でも、決まってないから言えないんじゃなくて、決まってないことを美帆と一緒に考えたいんだって分かった。全部1人で答えを作ってから渡すんじゃなくて、迷ってる途中から話して、2人で決めたい」

「それが、海で話したかったこと?」

「それだけじゃない」

 直人は繋いだ手を握り直した。

 美帆の手は、去年と同じように温かかった。

「美帆が向こうへ行くと聞いたとき、俺は離れても今までどおりでいる方法ばかり考えた。美帆を失いたくないんだと思ってた」

「うん」

「でも違った。俺は、恋人のまま美帆を繋ぎ止めたいんじゃない。美帆が選んだ仕事も、そこで見つけたものも、これから変わっていくことも、隣で見ていたい。俺も一緒に変わっていきたい」

 声が震えそうになる。

 直人は一度息を吸い、目をそらさずに続けた。

「美帆と一緒に生きていきたい」

 波が岸へ届き、2人の足元から少し離れた場所で消えた。

 美帆は何も言わなかった。

 月明かりを映した瞳が揺れている。

「それは、結婚したいってこと?」

 直人は頷いた。

「うん。今すぐ仕事を辞めて戻ってきてほしいとか、先に住む場所を決めてほしいとか、そういうことじゃない。美帆のプロジェクトが終わるまで待つ。その間に、これからのことを2人で話したい」

「私が戻る場所も?」

「2人で決めよう。美帆が今の経験を次にどう生かしたいのかも聞きたい。俺の仕事のことも話す。片方が合わせる前提じゃなくて、2人が納得できる場所を探したい」

 美帆は視線を落とした。

 繋いだ手は離れない。

「遅いよ」

 小さな声だった。

「ごめん」

「去年、ここで言ってくれたらって何度も思った。仕事の話をした夜も、記念日も、私が向こうへ引っ越した日も」

「うん」

「直人が私との未来を考えてないんじゃないかって、怖かった」

「考えてた。でも、言葉にしないまま考えてるつもりになってた」

「それじゃ分からないよ」

「分かった。だから、もう言わなくても分かるとは思わない」

 美帆が顔を上げた。

 目元は少し濡れていたが、口元には笑みが戻っている。

「本当に遅い」

「待たせた」

「待ったよ。直人が自分で言ってくれるまで」

「美帆の答え、聞いてもいい?」

「まだ分からない?」

「言葉で聞きたい」

 美帆は一瞬驚き、それから声を立てずに笑った。

「私も、直人と一緒に生きていきたい。今の仕事も最後までやりたいし、終わったあとにどうするかは迷ってる。でも、その迷ってる未来の中に、ずっと直人がいた」

 胸の奥に張りつめていたものが、ようやくほどけた。

「手帳、まだ使ってる?」

 美帆が繋いだ手を少し持ち上げながら尋ねた。

 月の光を受け、銀色のブレスレットが揺れる。

「使ってるよ。今日のところにも書いてきた」

「何て?」

「海と、美帆に伝えるって」

「その手帳を部屋へ置いてきたんだ」

「見ながら話したら、仕事の報告みたいになるって言われたから」

「それだけ?」

「書いてある言葉を読むんじゃなくて、自分で言いたかった」

 美帆は小さく笑った。

「あの手帳を渡したとき、こんな予定を書いてほしかったわけじゃないんだけどな」

「何を書いてほしかったの?」

「次に会う日とか、旅行とか、2人でやりたいこと。もっと普通の予定」

「それなら書いてある。美帆に会いに行く日も、電話する時間も、今日の旅行も」

「でも、空白じゃなくなったならよかった」

「まだ空いてるところはあるよ」

「そこには、これから2人で書けばいいんじゃない?」

「うん。そうしたい」

 直人は美帆の手首へ目を落とした。

「美帆も、それずっと着けてくれてたな」

「もらったんだから、着けるでしょ」

「前にも聞いた」

「じゃあ何度も聞かないで」

「離れてからも着けてるのを見て、安心してた」

「そういう意味で着けてたわけじゃないよ。好きだから着けてただけ」

「どっちを?」

「ブレスレット」

 美帆はすぐに答え、わずかに間を置いてから続けた。

「それを選んでくれた人も」

「そっちは、ついで?」

「今まで待たされた分、少しだけ」

 直人が苦笑すると、美帆は楽しそうに笑った。

 手帳とブレスレットは、離れていた時間にも互いを思い続けた証として残っていた。

 直人が手を引き寄せると、美帆はそのまま胸元へ額を預けた。

「ありがとう」

「何に?」

「待っててくれたこと」

「待たせた人が言う?」

「言う。これからは待たせないようにする」

「無理だと思う」

「信用ないな」

「3年分の実績があります」

「4年近くだろ」

「増えてるじゃん」

 美帆が顔を上げ、2人で笑った。

 直人は美帆の頬へ触れた。美帆が目を閉じ、月明かりの下で唇を重ねる。

 波音が一定の間隔で続いていた。

 しばらくして離れると、美帆は海へ目を向けた。

「来年も、ここに来ようね」

「それ、去年も言った」

「直人が言ったんでしょ」

「今年は違う」

 美帆が首を傾げる。

「来年だけじゃない。その次も、その先も、一緒に来たい」

「それって、毎年ここに来るってこと?」

「嫌?」

「たまには違う海も見たい」

「そこ?」

「でも、ここには帰ってきたい。直人と一緒に」

 美帆はそう言って、直人の腕へ寄り添った。

 2人はしばらくその場に立ち、寄せては戻る波を眺めた。

 沈黙は気まずくなかった。去年のように、言えなかった言葉は残っていない。

「ホテルへ戻ったら、手帳見せて」

 美帆が海を見たまま言った。

「いいけど、仕事の予定も書いてあるよ」

「見たいのは、2人の予定」

「まだ先は空白だけど」

「だから、今夜書くの」

「何を?」

「明日の朝、7時半に起きるって」

「そこから?」

「確実な予定からでいいでしょ」

「もう少し寝たい」

「交渉はできません」

 美帆の声に、いつもの明るさが戻っていた。

 月の光が、沖から渚までまっすぐに伸びている。

 去年は、その道の前で立ち止まった。

 今夜、現実の何かがすべて決まったわけではない。

 2人の前には、これから選ばなければならないことがいくつも残っている。

 それでも直人は、もう怖くなかった。

 隣にいることを当たり前だと思うのではなく、これからも美帆を選び、美帆にも選んでもらう。

 そのために言葉を交わし続ける。

 2人は手を繋ぎ、月明かりの道と並ぶように歩き始めた。

 砂の上には、違う歩幅の足跡が2つ、同じ未来へ向かって続いていた。

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