2-8 彼女の吐息 彼の匂い
「アストリア様、やってみたいとか、仰らないで下さいね」
トゥーレが、先んじて釘を刺した。
そわそわしながら、氷上の人々を眺めていたアストリアは、ギョッとしたように眼を見開く。普段の眠そうな目が全開になると、緑の瞳は大きく美しい。
けれど彼女は直ぐに、いつもの顔つきに戻った。
「う~~~ん、ダメかしら?少しだけでも?」
むくれたような表情で、我儘を言うアストリアに、セリオスだったら陥落しただろうと思うトゥーレだ。
けれど彼は、笑みを湛えながらも、きっぱりと答える。
「ダメです。まだ激しい運動は許可されておりませんし、そもそも氷をの上を滑るには、専用の靴を履くように見受けられます」
確かに楽し気に滑る人々は、特別誂えの靴を履いているようだ。
アストリアは、黙って俯いた。
トゥーレは、彼女の気分を変えようと辺りを見回す。
「おや、あれはフェローかな・・・お~~い」
視界の端に、見知った姿を見つけて、声を上げて手を振った。
(あ・・・今のうちに、ちょっとだけ・・・)
アストリアはその隙に、氷の上にそっと片足を乗せる。
(滑るけど・・・まっすぐ足を降ろせば・・・うん、立てるし・・・)
こっそりと両足を氷の上に乗せ、注意深く数歩進んでみる。
「・・・違ったみたいです・・・って、アストリア様っ!」
ほんの2mくらいだったが、氷の上を進んでいた彼女に驚いて、トゥーレは慌てて足を進めて手を伸ばした。
「えっ、あっ!・・・ぅわ」
振り返った瞬間、アストリアの両足がツルっと滑って宙に浮く。
「危ないっ!」
トゥーレは、アストリアの身体を掬い上げるように抱き止めるが、彼の足も思い切り滑ってしまった。
ドスンっ、と落ちたのは彼の尻で、アストリアの身体はその上に落ちる。
後ろから抱きしめるような体勢になったトゥーレだが、彼女の尻もちは彼の下腹部で受け止めた形だ。
氷が割れるようなことは無かったが、固く冷たい衝撃が響く。けれどトゥーレは、それよりも衝撃的な感触を味わっていた。
(うわ・・・軽くてふわふわで・・・柔らかくて)
寒さ対策でモコモコに着こんでいるアストリアは、服の重さもそれなりにあるはずだ。けれど本体の重量が、予想よりも遥かに軽かった。
ドスン、ではなくポスン。
そんな風に感じたのは、予想外だったからかもしれない。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
アストリアは慌てて振り向いた。
顔が、近い。
彼女の吐息が、トゥーレの頬を撫でる。
ドキン、と音を立てて心臓が鳴ったような気がした。
(アストリア様に、気づかれてはいけない!)
トゥーレは必死に平静を装って、何とか氷の上から岸へ上がった。
「大丈夫ですか、アストリア様。どこか痛いところはございませんか?」
「は、はいっ。私は大丈夫ですが、トゥーレさんこそ、大丈夫ですか?」
何とか立ち上がった2人だが、アストリアは心配そうに言う。
「大丈夫です。ありがとうございます」
あくまで自分を弁えて振舞うトゥーレだが、ふと彼女の言葉が気になった。
「・・・アストリア様、私のことは呼び捨てで構わないと思うのですが」
フェローやケィテイと同じように、使用人の立場ではないかと言うトゥーレに、アストリアはおっとりとした口調で答えた。
「今の私には、そう呼ぶ方が自然な気がして・・・仲間だし、それにトゥーレさんは兄さんと同じくらいの年齢でしょ?」
「ええ、まぁ・・・正確には、2歳ほど年上ですが」
少し前に、サリオスと話した時に解った事だ。
「だったら、トゥーレさんが一番年長者じゃない。少なくとも私には、さんをつけたほうが呼びやすいの。お互い、呼びやすいのが一番じゃない?」
無理やり平等を強制するのも、何か違うような気がする。その方が呼びやすいなら、「様」をつけようがつけなかろうが、どっちでも構わないとアストリアは言いたいらしい。そう言ったことには、拘らない性格なのだろう。
「解りました。では、その様に」
実は少しだけ、呼び捨てにされたかったトゥーレだが、彼はいつも通りの穏やかな笑みで答えた。
身分の上下による呼び捨てでも、その方がより近しい間柄になれるような気がしていたのだ。
(一番年長者・・・か。何だか、長老になったような気が・・・いや、父親みたいな気配もちらほら・・・)
彼女への心が叶うものでは無いのなら、父親でも長老でもイイか、と自分を慰めてみるトゥーレである。
「でも、ホントにごめんなさい。抱き止めて貰えなかったら、私はまたお尻に痣を作っていたかもね」
フフッと笑うアストリアは、以前彼と初めて会った時の事を思い出していた。
「今回は、守って貰えて良かったわ。それに、トゥーレさんって、暖かい匂いがするのね。兄さんに少し似てるけど、兄さんとは違うのよね」
のほほんと話す彼女に、他意は無い様だ。
そもそも男性の匂いを、他に知っているわけでは無いので、単に感想を述べただけだろう。
(暖かい匂い?・・・匂いに温度があるのだろうか?いや、甘い香りとも言うから、それもアリなのかもしれないが・・・)
アストリアの言葉に、心の中で首を傾げるトゥーレだが、そんな言葉選びも魅力的だと思ってしまう。
「そうだ、トゥーレさん。そろそろ陽が沈むから、向こうの広場の方へ行ってみない?雪像が幾つも出来ていて、夜になると篝火が灯って、凄く綺麗になるって聞いたの。今晩は、兄さんとジェラルディーナは、依頼を受けて雪原の狩りに出ているから、明日にならないと帰ってこないでしょ。帰りが遅くなっても、心配する人もいないから、絶好の機会だと思う」
悪戯を企む子供のような顔になって、アストリアは寄り道を提案した。
それを却下できることは、とても出来なかったトゥーレだった。
「・・・これは・・・幻想的ですね、アストリア様」
広場は大小様々な石像が、篝火に照らされて、美しい光景を浮かび上がらせていた。
鹿や熊、ユニコーンやドラゴン。妖精やドワーフなどの、お伽噺の中に登場するような生き物が、幾つも作られている。中には稚拙な出来栄えの物もあるが、それも一興だ。
さほど広い会場では無かったが、1つ1つゆっくりと眺めていると、いつの間にか夜は更けてゆく。
屋台のホットワインで身体を暖め、並んで歩く2人は、はた目にはどう映るのだろう。
そんな帰り道で、アストリアはふと足を止めて頭上を見上げた。
夜空は久しぶりに晴れ、満天の星空だ。
ほぅっと小さく吐息を漏らし、アストリアはうっとりと星を眺めた。
その横顔を、トゥーレは何も言わずに優しい眼差しで見守る。
(星をその名に抱く女性よ、その瞳の煌めきよ・・・)
柄にもなく詩的な言葉を心の中で呟いて、トゥーレの胸はキュッと締め付けられた。
報われない恋でもいい。
告げることのできない愛でも良い。
この想いを抱くことが、今は至上の喜びなのだから。
白い吐息だけが、慰めるように薄く漂っていた。




