Episode 2 - Interlude
機嫌の悪い雲の下、日が回った直後の霧の中。
陶器のザラつきを引っ掻く音に似て頭に来る音が、雨を吸っては乾いてを幾月も繰り返し、黴の生えた扉から鳴り響く。留守の家と変わらないのにも関わらず、腐った食べ物みたいに成り果てることには疑問が尽きない。
コートに積もった埃をはらい、生暖かい風を浴びる。検問所の壁を越えて空へ差す街の明かりは、山を隔てて見えるそれと似ている。騒音さえしないこの場所に来て、不気味なことが起きても共有する仲間もいない。
ここに来てまず最初にすることは決まっている。お気に入りのロックンロールを携帯ラジカセから爆音で流すこと。それに乗ってきた化け物の頭を吹っ飛ばすこと。使い古したカセットテープを入れ、最初まで巻き戻す。ジリジリと鳴る音をただ待つ時間であろうと、映画が始まる前の喧騒と同じくらいに沸き立つものがある。カチリと止まって、左足を出すと同時に俺は再生を押す。
軽快に、そして鋭く荒い弦の歪んだ音とリズムで始まる。そこに堂々としたベースが前に出てきて、まさに火花を散らすエンジン。
重苦しい装備を錯覚させるには、このテープでこそ輝く太い音色が相応しい。
クラッシュシンバルがクラクションの如く弾けると、あのがらがらとしてワイルドな歌声が、ビブラートを効かせて俺の足をリズムへ誘う。一直線に走るビートは、俺にも迷いを与えない。
潜んでいた輩は、俺と踊りたいのか知らないが、こそこそと近づいてくる。それを曲のフィルに合わせて一発二発。コーラスに合わせて拳をあげる代わりだ。この曲にキチンの音は邪魔すぎる。炎を纏わせた投げナイフも、音楽に乗せては怪物の体を焦がす。食い込んだ刃は、パートが変わるタイミングでパッと手のひらを広げるとそれはもう、たまらないほどのいい音を轟かせる。内臓は良い着火剤になってくれる。
今日もまた一人、とびきりに良い会場を独り占めにしたものだ。ちょうどよくブリッジに差し掛かる。体を左右に二回ずつ揺らしながら、残りの弾を数える。このロドニー、結局余った弾は毎度全て捨ててしまう。マガジンから視線を上げると、色の落ちた廃墟が聴き終わったテープを出す時の俺と同じような顔をしていた。まだ聴きたいか、残念だ。充電が切れた。寝坊助の子供を叩き起すみたいにしても、これは起きてくれない。そう、お前らみたいにこいつはいま死んでしまった。帰ったら心臓を交換しなくちゃいけない。そう言い聞かせた。
昨日は無かったはずの家が建っている。土壌の見えるほど剥げた街道から見える尖った屋根は、三区で見るものよりもずっと綺麗で鋭利であった。
昨日は在ったはず家がひとつ粉々になっているのも見つけた。
曲が終わってしまって、テープの巻く音さえ止んでしまった。猛犬の厄介事がおさまって様子を見に来る野次馬みたいに、風が戻ってきた。それに身を任せるようにフラフラと歩くと、この区のランドマークへたどり着く。真っ二つに割れたベンチが立てかけてあるのは、かつて象徴だっただろう大きな噴水。底に描かれた絵は、地図になっていたが、水があった当時は泡でよく見えなかっただろう。色褪せているが、紙粘土にねじ込ませたくらいにはまだ残っている。本当に最近まで人がいたんだと思える。
石ころを蹴飛ばしながら歩いては、ブーツに角が突き刺さる。力を抜いて、膝から下は指でつまんだチーズみたいにふらふらさせて。常に銃に手を添え、転がる石ころは――そのうち見失ってしまった。これだけバラバラに崩れている家々だが、花崗岩のように脆くはない。本当に同じところを歩いているということの証明になっている。
彼、ジェスターによればそこは路地裏だった。酷く乱暴なやり方で斬りつけたものだから肉片が散らばっていると。慣れてない子供がここを見回るなんて、学園もどうかしている。壁にへばりついたヘドロと、妙にさっぱりとした綺麗な家ですぐに分かった。地面には報告通り、黒曜石のような氷の塊がまだ散らばっていた。
傷もぐれになって交換し忘れた装備のほうを曲げて、一欠片を手に取ってみる。アリに這われているように、手のひらに震えが伝わってくる。振動は歪になっていき、やがて糸がほどけるようにして消えていった。まだ大きめのものでないと、触れた瞬間に溶けてしまうのかもしれないと思い、別のものを探す。
物音。すぐさま銃を手に取って一発撃った。ハンマーを投げ飛ばすような衝撃が手から腕にかけて響いてくる。眠りについた住民にまで行き届いていないといいが、耳にうるさい音ほど遠くまで飛んでいくものであった。
首を絞めた時に出る声を出して、何かが死んだ。これほど静かなところで足音ひとつ立てないように歩く方が難しい。息の根を止めたはずの何かは、そこには跡形も無かった。砂にでもなってしまったか、生きながらえて逃げてしまったか。鼻から溜めた息を出して、ガラスのカプセルをポケットから取り出す。
* * *
「これを探してたんだろ?じいさん」
置いてあるもの全部にニスを塗っているのかというほど、重く沈んだような部屋を、首を傾げたライトが松明みたいに暖かくしている。入る度に、ここは洞窟だな、と彼に冗談交じりに言うのが俺なりの挨拶であった。入口の両手扉と同じく、年を経ていろいろと抱えてきた彼は、椅子に沈みこんでいた。瞼は半分ほど落ち、伸びきった眉毛は丁重に剃られた髭のせいで際立って見えた。肩の力が抜けているようなのに、こうも空気を張り詰めさせられるのは、このじいさんくらいだろう。
「ああこれは、これは……どこで見つけた?」
布で包んだ刃物みたいな声でゆっくりとそう言った。肘掛けに置いた手で、サスペンダーを整えている。机の上に置いたカプセル。中に入れた氷が、藍色の儚い光を細々と放っている。
「出しちゃ、ダメだ」
開けようとする彼を見て、俺は低く手を出して止めた。
「ああそうだったな、すまんすまん」
ボケているのか、わざとやっているのか分からない。彼の表情、特に口の形は変わらない。
「かなりかかったな」
彼は片方の眉が上げながら、うんうんとうなずく。
「そうだな。ああ、誰がこれを?」
「記憶を無くした娘が残してったって聞いた。今はジェスターのところにいる」
彼は背もたれに腰を預け、また沈むように首を縮めた。そして大きく息を吐いて、眉間に寄っていた皺が無くなった。
「彼女を見守ってくれ」
何分かじっとしたまま過ぎたところ、彼は机の模様を見ながら呟いた。
「ボディガードか?俺が?」
「悟られないところからひっそり見てろ。ああ、何があっても手出しはするな」
「……俺にストーカーをしろって?」
「まあ……関わらないことが大事だぞ。今の彼女はいささか……危険だから」
「ったく、いつも何考えてるか分かりませんな、園長。……ああ、変装したら、会ってみてもいいか」
彼は喉を鳴らして数秒考え込んだ。
「いや、いいと言うまでは陰からだ」
「そりゃいつだ」
「さあ。私はただ、彼女が心配なだけだ」
「なんなんだ、どうしてそこまで」
彼は針金を何本も集めたように太いその手を頬に当てながら、固まっていた口角をようやく上げた。氷と似た藍色一色で精巧に花が描かれたティーカップには、彼の目のように深い穴を思わせる濃い赤が揺れていた。小さなスプーンを鈴代わりにして音を鳴らした。書斎の奥から手を前に結んだ女が一人やってくる。彼女も同じように瞼を半分落とし、聖母のような顔立ちを崩さないままだった。
「冷めてる」
「温めますね」
「すまんな。ああ、それとあと、もてなしを頼む」
「はい園長」
彼女はその長身の芯を一切ブレさせないまま、奥へ戻っていく。何事も無かったように、学園長は机に置いたカプセルをランプの下に移した。こちらへ顔を向けた時には、口がへの字に戻っていた。
「言ってくれれば、温めたのに」
「ジェスターと違って熱すぎる」
俺は左足を組んで、彼の気品に乗じて笑った。白い羽毛を集めてできたみたいな毛むくじゃらの猫が、青いビー玉を光らせて彼の膝に飛び乗る。こっちを見ながら猫の顔を手で包み込むように撫でながら、咳払いをした。
「知らないことが、守ることに繋がる。私が知っていることは、彼女と直接会ってから話す」
「ならじいさんが直接――」
「私はここがある。今はこの仕事で忙しいからな」
彼は口角と手のひらを上げて、しゃがれた声で言う。いい気にはなれない仕事に思わず俺はため息をついてしまう。
「常に見てろとは言わない」
奥の扉がまた開いた。「お持ちしました」とお盆を持って、あの女が戻ってきた。
「すまんな」
彼は女の手を包むように握って、片方の手で手を音を鳴らさない程度にたたいた。女は目をつむったままみたいな顔で滑るように部屋を後にした。焦げ茶の机に置かれた白く光る皿には、クッキーが何枚も並べられている。これまた机と同じような色だ。こぼしても気づかれない。じいさんがまた咳ばらいをする。
「娘の名前は、アヴァだ。覚えておけ」
「はあ」
「特徴は……あー、そこまで背は高くない。小さい。黒に近い茶髪で、後ろに髪を結んでる。アーモンドみたいな目とたらした糸みたいな髪の毛ですぐにわかる。服はゆったりとしたものを好んで着る」
「なあ、気になるんだけど、なんでそんなに詳しいんだ?」
「――この氷を見て確信した。同じものを持ってる。彼女と撮った写真がある。見るか?まあ、撮った覚えは無いのだがな」
ポットから彼が紅茶をティーカップにそそぐ。思っていたよりも残っていなかった。ゆっくりと大きくなった一滴がすっと落ち、音を立てた。




