Episode 3 - I / 迷夢の私
冷たいものが頬を撫でた。
たったそれだけのことだけど、次第に手や足の感覚がふわりと降りてくる感じがした。
二滴、三滴とそれは落ちてくる。閉じたまぶたがじわりと湿って、黒い世界の向こうで光が揺れているのがわかった。
雨。自分の顔の形がわかる。
そっと瞼を開く。
灰色の光が滲んで、視界に広がるあらゆるものが少しずつ像を結ぶ。透き通るような雨音を背景に、じわじわと身体も覚めてきた。
身に覚えがある。昨日いた場所だ。窓も扉も閉ざした家々がこちらを見ている。まったく同じだ。ところどころ割れているし、屋根は崩れているし、街灯は折れ曲がっている。
私はアヴァ。アヴァだ。ちゃんと覚えている。湿ったショルダーケープを見ると、金の刺繍で名前がしっかりと書いてある。石壁に身を任せて座っている。ブーツの中まで雨水が染みている。立とうとするとぐしゃぐしゃと音を立てる。声に出したくなるほどの、この気持ち悪さも知っている。
この街はネーベといって、ここは確か第四区。怪物が現れるんだ。知っている。ジェスターに教えてもらったから。それからベルジにも。
それはそうと、私はまたひとりぼっちになっている。また迷い込んでしまった。目が覚める直前、何があったか思い出せない。どうやってここへ来たのかが分からない。あんなに危ないところだと分かっていたのに。
「誰かいない?誰か……」
自分の声が響いている。はじめて喉に力を入れた。大きな声を出すと、どこか自分から出ている音とは思えない。霧が声に合わせて揺れ動いているように見える。風のせいか、頭の中が見せている幻か、白い靄は時に人の顔みたいに見える。何かを伝えたげな顔。
「こんなところにいたのか」
忍び足でやってきたのか、振り返るとそこにはベルジがいた。私の名前、憶えてくれていたんだと、彼がより近しく感じた。腰に右手を当てて、ぶらさがった左手には銃が握られている。息をついて、前髪を腕で上げた。
「ベルジくん、まただよ……」
「またって、何が?」
考える。あの時と違うのは、ここが見覚えがあるということ。私が私を名乗れること。君の名前を声に出して言えること。同じなのは、どうやってここへ来たのかが分からないということだ。
「なんでここに来たのかって?」
「え……あ、うん……」
「人に聞くなよ。そうやってまた聞いてばっかりだ」
彼はそっぽを向いて、波打つ路地裏を真っすぐに歩き出す。その顔にまた、私に向けられた銃と同じものを感じ取った。捨てられたみたいだった。彼の言葉は、どうにもできないのにどうにかしたい自分の足を掴んできた。
「待って……!」
奥は白地のキャンパスのようだった。薄くなっていく彼の背中に向かって叫ぶ。足を止めてくれない。もう一度言ってみようとした。視界の下に映る石畳に黒い蓮が見える。一輪かと思えば数えきれない数だ。何も絡まっていないのに足が動かない。
ベルジのほうから、あの音がした。手のひらを出すと、跳んでくる弾を氷が瞬時に止めてしまった。岩と岩がぶつかり合うような音が、藍色の氷と共に放たれる。それが鏡になって、いくつもの私の顔が見える。
「嘘じゃないのか?」
霧に消えたベルジは背後にいた。蓮を踏みつけ、氷を叩き割りながら私の前に立つ。左手を上げた。顔を前に向けると、白い霧は彼の影で塗りつぶされ、今にも頭を貫く何かが飛び出すだろう穴があった。
「分からないふりをしてるだけじゃないのか」
「違う、違う……」
視界が弾け飛んだ。太陽を直に見るようだった。周囲が粉々に砕けて――元に戻った。それどころか、廃墟はその時間を戻している。窓からは光が漏れて、人影が道に映っている。影絵を見つめていると、それはクラゲになった。
これを、こんなことをどう分かれというのだろうか。何が何を見せているのかさっぱり分からない。誰かに聞かないと無理。聞いてばかりだなんて、何も覚えていない私のことを無視する一言だ。
瞬きさえしないベルジが、また左手を上げた。彼が口を開こうとした。それを見た途端に、私は彼の手に触れた。指先から何かが抜けていく。背筋からも肩のあたりからも、膝のあたりからも、そこへ流れていく。彼が氷塊になって倒れ、粉々に砕けてしまうまで。
後ずさり。一歩二歩、三歩。何かにぶつかる。人だ。後ろを見る。ベルジ。
「気をつけろ」
石壁に空いた窓から物音が聞こえる。見る。ベルジ。
「だまされんな。それは俺じゃない」
「俺に化けてるのか?」
「すまないな」
四方八方からベルジとジェスターの姿をした何かが現れる。あの時みたいに逃げ場がない。どこを見ても目と鼻と口がある。
全員が銃を向けあった。銃口が私に集中している。構え方は全員まったく同じだ。息の仕方や足の角度まで、不気味なほど綺麗に揃っている。
「化け物め」
彼らの後ろから、あの怪物が津波のように流れてくる。目をくり抜かれた動物。黒いヘドロを垂らした生きる死体だ。首から、手から、お腹から。いろんな形の花が寄生するように張り付いている。前から後ろから、どんどん襲ってくる。ゆっくりと空を飲みこんでいくように見えた。
音が頭を鈍器で殴られたような衝撃を放つ。鼓膜を剣先で貫かれる。ありったけの声を出す。私に流れ込んできた濁流を、すべて吐き出す勢いで。
目を思い切り瞑るつもりが、視界が開けた。
あの匂い。ジェスターの匂い。ジェスターがいる。目が泳いでいる。彼が私の肩に手を当てている。あれだけの銃で撃たれたら生き残れるわけがない。死んだのかと思った。だけど、今感じているこの感触は、現実味を帯びていた。
「大丈夫か?」
窓からは朝日が差している。明るい。初めて見た。
「お前ずっと唸ってて……」
「はぁ……ジェスター?本物?」
ジェスターは困った顔をした。さっき見たのはやっぱり夢だったんだ。深呼吸しながら全身の力を抜いた。本当によかった。
「……。相当、悪い夢見たんだな」
思考がまだ上手くできないけれど、だんだん薄れていく。さっき、何を見たのか、半分以上は消えている。良くないものを見たのは確かだ。とんでもないものを見たはずが、もう忘れている。気がかりになるようなことも、ベルジが言っていたような覚えがあるが、こうしているうちにもそれが薄れていく。
手を動かす。ほっぺに指を持っていってつねってみる。痛い。頬に残った痛みが、朝日と同じように霧を晴らしていく。
「はは、なんだその目覚ましは。朝ごはんできてるぞ。入らなかった分は食うから、食べな」
野菜がたくさん挟まれたサンドイッチや目玉焼きが、紅茶を飲んだテーブルに置かれていた。皿にはこれでもかというくらい盛り付けてある。
「おいしそう」
「張り切っちゃってな。作りすぎたかもしんねえ」
「がんばって食べるね」
何よりうれしかったのは、彼が彼でいることだった。彼の姿をした偽物は、頭から離れない。ある意味呪われたともいえる。彼を見るたびに嫌な夢を思い出してしまうのだから。でも口を動かす度に、どんどん思い出せなくなっていった。
サンドイッチをほおばると、こんなものを食べたことがいままでにあっただろうかと、今はとびきりに良い夢を見ているように思う。朝が来てよかった。知っているのに食べたことがない、触れたことがない。そういうものがありふれている。私はサンドイッチが好きだ。
「この味、覚えてもらわないとな。どうぞ」
昨日入れてくれた紅茶だ。ジェスターのお気に入り。ちゃんと覚えている。香りも味もすべて。
「これ、ジェスターが好きなのだ」
「お、覚えててくれたのか」
揃ってティーカップを口に運んだ。カラカラだった口の中を甘い香りとまろやかな風味が潤していく。
「俺も夢を見た。良いもんじゃなかった。でも、ぜんぜん覚えてない」
「私も。夢ってすぐ忘れちゃうよね」
「そうだな。お前の思い出せないって感覚、ちょっとわかる気がするよ」
第四区で十年くらい寝ていただなんて、そんなことはあり得ないとは思うけど、確かに感覚は似ている。でも夢ならば、残り香みたいなものが少しでも残っているものだ。そういったものも一切無い。自分の過去を探すことが、好奇心が増す反面、ますます恐ろしくもなっていた。
「俺な、ガキのころ、こうやって拾われて育ったんだ。アヴァを見て、思い出したよ」
「へぇー、そうなんだ。私とおなじ感じ?記憶――喪失?」
「あはは、いやいや、俺は家出だったんだ。やっかいな奴だろ?」
「意外」
そんなイメージは全くなかった。でも言われてみればそういうところもありそうではあった。どこか強い自分を持っていそうなところが。
「しばらくおばさんに拾われてたんだけど、何週間か経って、親が探してるのが分かってな。ほんと申し訳ないことしたよ。親にも、おばさんにもね」
「そうだったんだ。私ももしかしたら……。でも、私がお母さんとお父さんを覚えてないよ。出会えたとしても、絶対傷つくよね……」
「あぁ……。そうか。クラリオネ、だったよな、家名」
「うん」
「俺、ちょっと部下に連絡して探させる。綴りを見てもいいか」
頷くと、ジェスターは畳まれた私の服の上に添えたリストレットを眺めた。手帳を取ってきてよく見ながら書き写している。
それにしても、自分の受けた恩を、今度は与える側にまわれるなんて。平然としているように見えるけれど、実はすごく頑張っていそうだし、彼の人への尽くし方には、憧れも感じる。名前を書き写し終わった彼が、私の服を畳みなおしているのを見て、より一層強く。
「ほんとに――ほんとにいたっけな、クラリオネなんて」
「もう、怖いこと言わないでよ……」
「悪い悪い。でもほんとなんだ。イニシャルで覚えたりするんだけど、これは……。まあいい、一旦探してもらおう」
サンドイッチも全部食べて満腹。今日は確か病院に行って、診てもらうんだった。
「そうだ、病院開くのもうちょい後だから、何かしてなさい。本読んだりなんでも」
「あ、うん。わかった」
考えていたことを見透かすようなタイミングで言ってきたもので少し鳥肌が立った。暖炉の横にある、壁一面を埋め尽くすような本棚を前に、背表紙の文字をひとつひとつ見ていく。国交史、地政学、世界史、法律、軍事、創世記……。読めそうな本が見当たらない。どんなことが書いてあるかは想像できないが、文字の量は見当がつく。
「ねえ、これほんとに読んでるの……?」
「ああ、上の方にあるのは楽しくないぞ。下にあるだろ、小説やら」
「ほんと?」
『ジャレン・クアールの大冒険』『探偵ベン』『その男』『星の向こう側』『明日の答え』『メルト 第七巻』『アイデンティファイ』『落ち武者』『ラルンダ伝記』……。どれも分厚くて、かじる程度に読むには手が出ない。
「ト……タ?ねえ、これなんて読むの?」
「ん、どれどれ……。これはタウ・セティだ」
「どういう意味?」
「意味?あーっと、太陽の本名、みたいな」
「……太陽にも、名前があるんだね」
「ああ。でも、日常で使うことなんて、ないからな。覚えなくても」
「覚えなくてもいいことってあるの?」
「んー……。全部を覚えようとしても無理だ。人間ってそういう生き物だから」
「そう……」
「そこにある本のこととか、覚えなくてもいいからな?興味があるなら、好きに読んでくれてもいいけど、難しいぞ?……娘が読んでたのもあるんじゃないか。もうちょっと手のひらサイズのがあるだろ」
『7日』『ひとめぼれの夢』『儚いおとぎ話』『君と花束を』といった小説が何巻もずらっと並んでいるのを見つけた。一冊はお手頃な大きさで、タイトルも興味がそそられた。
「これかな……どれにしよ」
本棚のそばで座り込んで小さくなった私は、そっと『儚いおとぎ話』の表紙を開いた。




