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ビヨンド オブリヴィオン / BEYOND OBLIVION  作者: 蓮田 希玲
BEYOND OBLIVION / CHAPTER 1

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Episode 3 - II / 青空と私

 紅茶の湯気が細く立ちのぼって、窓辺の光をやわらかく歪めている。あれほどひどかった夢も、小さな本をきっかけに消えかけていた。それでも、あの冷たい雨の感触だけは、まだ残っている。


 ジェスターは煙草をくゆらせながら、新聞の束をめくっている。彼のちょっぴり怒涛の過去の話も耳に残っている。


 明るくて静かな昼前。時計の針と暖炉の火の音が、部屋にやけに響いている。外からは鳥の歌や車の走る音がかすかに聞こえてくる。私は夢中になって、『儚いおとぎ話』を読み進めていた。この本は、どこかの要素が脆く消えかけている、切ないおとぎ話を集めたもので、表紙や色味が好きだった。書かれていることにも自分とどこか共通点を感じたり、共感できるところもあって、この本自体、だんだん好きになった。


【少年は川岸に、石を積んで城を作った。それは彼にとって、最高の要塞だった。難攻不落に設計された。崩れはしない。僕はここを起点に、新たなる王国を作る。川を登る魚たちの目には、ただ石が積み上がっているようにしか見えない。だが、少年の目は石を磨き、城内は広く絢爛にした。一粒の雨と夜が、少年に「帰れ」と告げた。その一声で、城と思っていたそこが、ただの石ころや木の枝の寄せ集めにしか見えなくなった。でも彼は信じた。明日も残っている。その次の日もこれは残ると。翌朝、大きく崩れたのは少年の方だった。】


 この話は頭に残った。一文字ずつ、ゆっくりと読んだ。少年は一所懸命お城を作った。彼にとってそれは最高の出来だったんだろう。明日も残ってたらいいなって願う。でも次の日バラバラになってしまう。可哀想だ。せっかく頑張って作ったのに。だけどこうも思う。流されるとわかっててどうして川のそばに作ったのか?見栄えやらなんやらを優先したから、川の乱暴なところに目が行き届いていなかったのだろう。私は妙に、この話に惹かれた。


「もうこんな時間か。本、気に入ったか?」

「うん、大好き」

「そりゃよかった。そろそろ、出るぞ」


 時計の針はいつのまにか数字をいくつもまたいでいた。本をそっと閉じて本棚に戻して立ち上がる。病院。診てもらうとは一体どんなことをされるのか想像できなかった。自分が他に人から見てどんな状態なのか、ちゃんと向き合う機会になるのかもしれない。太陽の出ている外を歩くのは、想像はできるけれど、初めてのことのように思う。


「着替えておいで。いっぱいあるから、気に入ったのを着なさい」


 気持ちが弾んで駆け足になるのは新鮮だった。昨日のことがどうでも良くなってしまうくらい、頭の中の雲が吹き飛んでいる。カンカン照りの直射日光を、自分は放っているかもしれない。ただ、風に導かれるようにして、それがまた雲に遮られたりを繰り返す。


 夜落ち着かなかった部屋のワードローブを両手で開けてみると、モノクロームなものから彩度豊かなものへ、まるでクレヨンみたいに綺麗なグラデーションが現れた。それも、赤や茶色、オレンジといった暖かい色で統一されている。


 着てみたい、被ってみたい。似合ってるか似合ってないかよりもそっちを優先する。


 ドア横で手に取ってくれと言わんばかりに存在感を放っていた、黒い中折帽と、一際目を引いた真っ赤なコーデュロイシャツを選んだ。そして、履き方にも戸惑ったのが黒い長ズボン。締まりのいい感じだけど、どこかオーバーサイズ。滑らかな肌触りでとても軽い。雨水を吸いに吸った服を全身に着ていたからか、この身軽さが気に入った。


 ジェスターはどんな反応してくれるだろうと、急いで一階に駆け降りていく。一所懸命描いた絵を、まるでお父さんに披露しに行くかのように。


「ジェスター、どう?」


 彼の表情は、あのワードローブの中みたいにいろんなものが混ざっているようだった。言葉なんてそんなに慎重に選ばなくていいから何か言ってよ、と言葉に出さず帽子を整えて示す。


「ずいぶんと、意外なの選んだな」

「へん?」

「いや、むしろ、なかなかいいセンスだな。その帽子、俺も好きだ。似合ってるぞ」

「ありがとう」


 目を隠してしまうくらいのつばが、頭のシルエットをきのこみたいに面白くしていた。それをからかうように、ジェスターはつばをつまんで揺らした。


 彼は薄いストライプの白シャツに茶色のズボンを履いていて、昨日の重々しい印象とは変わって、ずいぶんとスッキリしている。ガッシリとした腕からは血管が浮き出ていて、歴戦の傷も見られる。ベルジがあんなに慕っていそうだったのも、わかる気がする。


 マルが足元をつついてきて、目を合わせてから、にゃーと鳴いた。妙にかすれているのも愛くるしい。いってらっしゃいと言われているようだった。


「じゃ、行くか。靴はこれ使いな。お前が履いてたのは……一回洗った方が良さそうだからな」


 ぴったり足が入る、黒い革のブーツ。しっかりと紐も結んで整える。ジェスターがドアを開けたまま待ってくれている。彼を型取るようにして、眩しい光が飛び込んでくる。


 なだらかに流れる風に、優しい青色に綿毛が乗る空。私が持っていたこの街の印象を、それは大きく塗り替えた。ねずみ色のはずの石も、太陽の光で白く光っていて、植えてある花や木ものびのびとしている。私の気分をどこか映し出しているかのようだ。


「ここ最近、雨続いてたんだけど、晴れたな。今日はいいことあるぞ。こっちだ」


 人がいっぱいいる。一人、二人、三人。おばさんに子供におじいさんに……。


 彼らの目だけが気になる。私を見てどう思うのだろうとか、変なことを言い出さないかとか、いろいろ悪い方向へ妄想が働いてしまう。


 ジェスターのシャツの腰あたりのシワを思わずつまむ。虫が引っ付いたのかという目で振り返ったジェスターだったが、ふ、と笑みを浮かべるだけだった。私は顔を隠すように左手で帽子を押さえた。


「まあ、可愛らしい。りんごみたいなお嬢さんを連れて、どちらへ?」


 すれ違ったおばあさんが声をかけてきた。横倒しの三日月の目と柔らかな声色が、背筋を伸ばしていた緊張をほぐす。まるまるとした体形で、白く透明感のある髪が渦を巻いている。ジェスターが首の後ろに手を当てて言葉を返した。


「おはよう、ばあさん。この子は――」

「アヴァ……。です……」

「ああ。はは。身元が分かるまで、うちで保護する事にしたんだ。昨日四区で見つけて」

「おや、まあ四区で?家出でもしたかい?」

「いやあの、その、目が覚めたらあそこにいたって言うか……あはは……」


 違った印象を持ってしまって、妙な心配をかけるんじゃないかと思い、つい口を割った。


「あら。それは……?」


 余計に心配をかけたかもしれない。どう接したらいいか分からない。絶対に良い人なのに、私ったら下手な人だ。


「なにかあったとは思う。だから今から病院行って診てもらおうってとこだ」

「そういうことでしたか。気をつけて行ってらっしゃいね」


 愛想笑いを浮かべながら、小さく手を振って別れを告げる。ジェスターのようにすぐ言葉にできればいいのだけれど、いざ人を前にすると、並べていた言葉の一つ一つが、虫みたいに暴れだすのだ。少しずつでも上手にならなくちゃ、と自分に言い聞かせた。


「さっきのばあさん、いつもうちの周りとかを掃除してる人なんだ。また会ったら気軽に声かけてみな。ずいぶんふわふわしてて棘一切ないハリセンボンみたいな人さ」

「うーん、もうちょっと楽しいこと言えばよかったかな……」

「気にすんな。あの人なんでも聞いてくれるし、みんなのおばあちゃんって感じさ。それに、めちゃくちゃ話したこと覚えててくれるんだ。10年とかの仲だけど、俺の言った覚えないことまで覚えてて」

「そうなんだ。じゃあ、いろいろジェスターのこと聞いてみようかな」

「ぉ、おん……。いいんじゃないか……?」


 何か詰まったような声でジェスターは言った。ずっと自信ありげな雰囲気を漂わせていたのに、歯に何か挟まったような表情だ。顔や口調にすぐに出てしまうのが、彼を見ていて楽しくなるところ。家出のことを知っていそうだったし、面白いことが聞けるかもしれない。


 本が並ぶように列を作る家々を見ながら歩いていると、巨大な噴水広場に出た。空に向かって勢いよく吹きあげている噴水を、円卓のように建物が囲んでいて、車が行き交う精巧な石畳の道路の先には、鐘を響かせている大きな時計塔があった。あの時計塔、屋根の部分だけでも何階分の高さがあるだろう。随分と高くて鋭い。石畳の模様にも、あの時計塔がよく描かれているから、この街のシンボルなのかもしれない。


 四区で見た街灯や家の形、地面と同じで、あの場所が活気で溢れていた時は、まさにこんな感じだったのだろう。生きているわけではないものの、あの街と自分を、あるべきものを失っているという点で繋がりを感じる。


「四区も昔はこんなだった?」

「ああ、うん。まあな」

「爆発?事故?そんな事があったところで、私寝てたんだよね……私と関係、ある?」

「……それはーまあ、5、6年も前のことだから、お前は関係ないだろう。それより、あのでっかい木のとこ、あれが病院だ」


 鼻筋を指で触りながらジェスターは言った。


 黄色い屋根で異彩を放つ、この建物が病院のようだ。中から噴水広場を眺められそうな大きな窓を、遮るように植えてある木。幹だけでも窓が隠れそうだ。手入れもあまりしていないのか、無造作にあちこちへ枝が伸びている。いつの落ち葉か分からないが、粉々になって石の隙間に溜まっている。


「ったく、そろそろ切ったらどうだこの木」


 ジェスターがドアを開けるとベルの音が鳴った。


「いらっしゃいいらっしゃい。って、ジェスターさんか。いやー、切ろうと思ってるんだけど、つい先延ばし癖が悪くって――。おや、その子は?」


 奥からやってきたのは、ジェスターより背の低い、小太りで度の高い眼鏡をかけたおじさん。目が大きく見えて、それが面白くて何度も見て見ぬふりをする。


 意識を室内に移すと、紙や本が積み上がっていて、よく分からない粒がいろいろ入った入れ物があちこちに転がっている。ジェスターの家にあったような家具だけれど、ここは使い方が少し荒いようだ。


「ああ、今日は俺じゃなくて、この子を診てほしい。できれば、じっくりな」

「んーと、今日はちょっと予約が多くて……でも、30分くらい?いや1時間くらいか。まあめいっぱい診ますよ」

「アヴァはそこ座ってろ、受付するから」


 六人ほど座れそうな長いソファの端に座る。ジェスターが奥で机越しにおじさんと何かを話している。紙をめくる音や何かを書いている音が全部耳に届く。動きも潜めて、耳をすませた。


「実は昨日、四区で見つけた子なんだ」

「ほう、学生さんかい?」

「どうやら違うみたいなんだ。それに、記憶が全く無いんだ。自分が誰かも、思い出せてない」

「なるほど。でしたらちょっと、ルーペで診察をしてみます。何かわかるかも。ここサインいただけます?」

「ああ」


 ペンが紙を擦る音。奥の部屋からは足音が聞こえる。ガラスがぶつかる音も。


「あとな、妙な花を持ってるから、それも診てほしくて。あの子は花のことまで空っぽだから、分かりやすく教えてあげてくれないか」

「私が?」

「どう言えばいいのか分からないんだよ」

「私としてもそこまで忘れている人なんて……珍しいですね。どういえば分かりやすいのか……」


 おどおどとして落ち着きが無さそうなおじさんだけれど、病気とか体のこととか、いろいろ熟知している人なんだろう。体の仕組み、健康促進や薬品の広告といった張り紙が至るところにある。そこに書いてある文章からは、どこでどんなことをしたらそんなことが分かるんだろう、と思わされる。目の仕組みの記述は特にそう思えた。


「――よしアヴァ、こっちだ」


 ガラス張りの扉をジェスターが開き、私の方を見て言った。音が四方八方から鳴っている外と比べて、ここは息を潜めているような静けさが漂っている。まだ音の無い場所は落ち着かない。夜にあの部屋で感じた孤独感と似ている。それでも、昨日よりかはそれを押し殺せていると思う。


「ジェスター、ここ怖いよ」

「病院好きなやつなんて、そういないさ。そこ座りな」


 おじさんが部屋の中央に置かれた椅子へ座るよう促した。冷たくも抱擁感のある妙な空間だ。おじさんは長机の引き出しから何枚も虫眼鏡のようなレンズを取り出して、私に手招きした。


 私は深く息を吸いながら、慎重に椅子に座った。


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